結論:観阿弥が一座の芸を磨き、世阿弥が理論と作品で能を芸術に仕上げた
観阿弥(1333年〜1384年)は、大和猿楽の一座を率いて京都に進出し、足利義満の支持を得た能役者です。息子の世阿弥は、義満の庇護のもとで芸を磨き、『風姿花伝』などの芸論書と数多くの作品を残しました。二人は、のちに能楽と呼ばれる芸能の基礎をつくった父子として知られます。
世阿弥は晩年、足利義教に冷遇され、長男の元雅にも先立たれました。1434年には佐渡へ流されています。華やかな成功の後に厳しい晩年が来たことも、この父子の物語の一部です。
基本情報
- 観阿弥:1333年(正慶2年/元弘3年)生まれ、1384年(至徳元年/元中元年)6月8日(旧暦5月19日)没
- 世阿弥:1363年(貞治2年)?〜1443年(嘉吉3年)?(いずれも推定を含む表記)
- 時代:室町時代(南北朝時代から室町時代前期)
- 立場:猿楽の役者・作者。観阿弥は大和猿楽四座の一つ結崎座の一員から、自らの一座(観世一座)を率いた
- 世阿弥の幼名は鬼夜叉、実名は元清。二条良基から「藤若」の名を賜った
- 主な業績:観阿弥は物真似に歌舞の要素を取り入れた芸風で人気を得た。世阿弥は『風姿花伝』『花鏡』などの伝書を著し、夢幻能を大成した
- 代表作:観阿弥は『自然居士』『卒都婆小町』『通小町』、世阿弥は『高砂』『井筒』『実盛』『八島』『砧』『融』など
観阿弥と世阿弥の出会いと足利義満による庇護の背景
観阿弥の出自と結崎座
観阿弥の出自には伝説を含めて複数の説があります。世阿弥の伝書『世子六十以後申楽談儀』では、伊賀の服部氏の一族に由来するとされます。伊賀の上嶋家文書には楠木正成の甥とする記述がありますが、この文書の信憑性には議論があり、研究者の間で広く受け入れられてはいません。
確かなのは、観阿弥が大和猿楽四座の一つ、結崎座の一員として大和や近隣で活動したことです。1370年代ごろから自らの一座を率い、醍醐寺での演能などを通じて、京都周辺にも活動の場を広げました。
新熊野での演能と義満の見物
転機は、京都の新熊野神社での演能です。年は1375年(永和元年)とされ、1374年とする説もあります。観阿弥は世阿弥とともに猿楽能を演じ、これを足利義満が見物しました。世阿弥はこのとき12歳でした。
義満はこの舞台を気に入り、以後、親子を庇護したとされます。観世一座は将軍や有力な武家、公家の支持を得て、幕府のお抱えのような立場になりました。年は資料によって1374年と1375年に分かれるため、ここでは両方の説があるとだけ記します。
物真似に歌舞を取り入れた芸風
観阿弥の人気の理由として、大和猿楽が得意とした物真似の芸に、田楽の優美な舞や曲舞の音曲を取り入れた新しい演出が挙げられます。世阿弥の伝書には、観阿弥が大柄な体格でありながら女性の役を優美に演じたこと、鬼の能に優れていたことが記されています。力強い写実と、音楽的な魅力を併せもった芸だったことがうかがえます。
二条良基との縁
世阿弥は、摂政を務めた二条良基から連歌を学びました。良基から「藤若」の名も賜っています。良基の影響は、世阿弥の能の作品や芸論に及んだとされます。猿楽の役者が公家の教養に触れたことも、のちの洗練された作風につながりました。
観阿弥と世阿弥が追求した花と幽玄という独自の美学
『風姿花伝』と時分の花・まことの花
『風姿花伝』は世阿弥の代表的な芸論書です。最初の三篇(年来稽古条々、物まね条々、問答条々)は応永7年(1402年)に成立したとされ、残りの篇はその後およそ20年をかけて書かれ、改められたと考えられています。第七の別紙口伝は応永25年(1419年)の作とされます。
世阿弥は、少年期の美しさは一時的な「時分の花」にすぎず、能の奥義である「まことの花」は工夫から生まれると説きました。また、役者の一生には七つの時期があり、それぞれの年齢に応じた稽古をすべきだとも述べています。
別紙口伝には「秘すれば花」にあたる考えも書かれています。秘めておくから花になり、秘めないものは花にならない、という趣旨で、その区別を知ることが肝要だとされます。この書は長く流派内の秘伝書として相伝され、一般には知られていませんでした。奥義の部分には、芸は言葉で尽くせず、「心より心に伝ふる花」であるから『風姿花伝』と名づけた、という趣旨が記されています。
「初心忘るべからず」の出どころ
「初心忘るべからず」は、『花鏡』の最後の段「奥段」に記された言葉です。『花鏡』は全一巻の芸論書で、『風姿花伝』以後およそ20年間の著述を集めたものとされ、応永31年(1424年)までに段階的に成立しました。父と別れてからの約40年に世阿弥がつかんだ芸術論をまとめたものと位置づけられ、この奥段は世阿弥の芸能論の精髄と評されています。
『風姿花伝』の第七でも、その時々の花は種がなければ一時のもので終わり、種があれば年々咲くと述べたうえで、初心を忘れてはならないことが繰り返し強調されています。
離見の見という考え方
「離見の見」は、演者が自分の身体から離れ、客観的な視点をもつことを指します。舞台の上で自分がどう見えているかを、観客の目で捉える心得です。
幽玄と観客の好み
世阿弥は、幽玄を好む観客の好みに合わせて、夢幻能という形式を大成させたと考えられています。幽玄は世阿弥の美学を語るうえで欠かせない言葉ですが、本記事では、確かめられた範囲で、幽玄が観客の好みと結びついて作品の形を決めた、という点にとどめます。
観阿弥と世阿弥の代表作と晩年に訪れた過酷な試練
観阿弥の代表作
観阿弥の代表作とされるのは、『自然居士』『卒都婆小町』『通小町』です。原作とされるものには『自然居士』『小町』(現行の「卒塔婆小町」)『四位少将』(現行の「通小町」)があります。さらに、『伏見』(現行の「金札」)『江口』『松風』などは、観阿弥が曲付(作曲)を行ったとされます。作者であるだけでなく、音楽の面でも力を発揮した人でした。
世阿弥の代表作と夢幻能
世阿弥の代表曲には、『高砂』『井筒』『実盛』『八島』『砧』『融』などがあります。夢幻能は、世阿弥が観客の幽玄の好みに合わせて大成させたと考えられる能の形式で、世阿弥の独創性が表れた領域です。
観阿弥の最期
観阿弥は1384年、駿河国の静岡浅間神社で演能を行ったあと、同地で亡くなりました。
元雅の死と義教による冷遇
1422年に世阿弥は観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、出家しました。しかし将軍・足利義教は、世阿弥の系統ではなく音阿弥を重用しました。1429年には仙洞御所への出入りを禁じられ、1430年には醍醐清滝宮の楽頭職を罷免されています。
1432年には、元雅が伊勢の安濃津で客死しました。
佐渡配流と『金島書』
1434年、世阿弥は佐渡へ流されました。この配流は公的な記録に見当たらず、原因は不明です。世阿弥自身は『金島書』で無実を訴えています。
その後については、佐渡で亡くなったとする説が有力です。一方で、赦免されて京へ戻ったともいわれ、説が分かれています。没年は嘉吉3年(1443年)とされます。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 静岡浅間神社(静岡市葵区):観阿弥の最後の舞台となった地で、26世宗家観世清和による顕彰碑がある
- 三重県名張市:観阿弥が創座した地とされ、「観阿弥ふるさと公園」と能楽堂がある。名張駅には観阿弥の像がある
- 伊賀市:1975年に、観阿弥の妻(世阿弥の母)の彫像が建てられた
- 新熊野神社(京都):観阿弥と世阿弥が義満の前で演じたとされる場所
- 補厳寺(大和国十市郡):世阿弥が幼少期に参学した寺とされる
- 佐渡:世阿弥が配流された地
世阿弥の墓所について、明確な記述は確認できませんでした。補厳寺に帰依した夫妻の記録があり、大徳寺に分骨されたのではないかともいわれますが、確定していません。
関連する人物
- 足利義満:新熊野での演能を見て、観阿弥・世阿弥親子を庇護した将軍
- 二条良基:世阿弥に連歌を教え、「藤若」の名を与えた摂政
- 観世元雅:世阿弥の長男。1432年に伊勢安濃津で客死
- 足利義教:音阿弥を重用し、世阿弥を冷遇した将軍
- 音阿弥:義教に重用された役者
よくある質問
観阿弥と世阿弥はどんな関係ですか。
父と子です。観阿弥が一座を率いて京都に進出し、息子の世阿弥とともに能を大成したとされます。
義満との出会いはいつですか。
京都の新熊野神社での演能を義満が見物したときで、1375年(永和元年)とされます。1374年とする説もあります。世阿弥は12歳でした。
「初心忘るべからず」はどの書物の言葉ですか。
『花鏡』の最後の段「奥段」に記された言葉です。『風姿花伝』の第七でも、初心を忘れてはならないことが繰り返し強調されています。
世阿弥はなぜ佐渡に流されたのですか。
原因は分かっていません。公的な記録にも見当たらず、世阿弥自身は『金島書』で無実を訴えています。
世阿弥は佐渡で亡くなったのですか。
佐渡で亡くなったとする説が有力ですが、赦免されて京に戻ったともいわれ、説が分かれています。没年は1443年(嘉吉3年)とされます。






