西郷隆盛

日本の歴史において、明治維新という巨大な変革を成し遂げた二人の英雄がいる。それが西郷隆盛と大久保利通だ。同じ薩摩藩の下級武士として生まれ、兄弟のように育った二人は、やがて手を取り合って幕府を倒し、新しい国づくりに挑んだ。

しかし、彼らの運命は時代の波に翻弄され、最終的には敵味方に分かれて戦うという悲しい結末を迎えることとなる。二人の間に何があったのか、そしてなぜ彼らは決別しなければならなかったのか。そのドラマチックな生涯は、今なお多くの人々を惹きつけてやまない。

性格も役割も正反対だったと言われる二人だが、心の奥底では互いを誰よりも認め合っていた。西郷の人望と実行力、大久保の冷徹な知性と構想力。この二つの力が組み合わさったからこそ、日本は近代国家への道を歩み始めることができたのだ。

本稿では、幼少期の出会いから維新の回天、そして最期の瞬間に至るまでを追っていく。歴史の教科書だけでは語り尽くせない、二人の男の熱い友情と信念のぶつかり合いを深く掘り下げていきたい。

西郷隆盛と大久保利通の幼少期と強い絆

同じ町で育った二人の生い立ち

鹿児島県鹿児島市の加治屋町は、明治維新の立役者を数多く輩出した奇跡の町として知られている。西郷隆盛と大久保利通は、この町でわずか数軒隣に住む近所同士として育った。西郷は1828年、大久保は1830年の生まれで、年齢は西郷が3歳ほど年上である。

幼い頃の二人は、薩摩藩独自の教育システムである「郷中教育」を通じて深い絆を育んだ。年長者が年少者を指導し、共に武芸や学問を磨くこの環境で、西郷はリーダー格として周囲から慕われていた。一方の大久保は、胃が弱く病弱な面があったものの、読書好きで理路整然とした話し方をする少年だったという。

性格は対照的だったが、二人は互いの家に頻繁に行き来し、将来の夢を語り合う仲だった。西郷の豪快さと大久保の緻密さは、この少年時代から既に現れており、互いに自分にないものを持つ相手として尊敬し合っていたのである。この時期に培われた信頼関係こそが、後の日本を動かす原動力となったことは疑いようがない。

貧しい生活と勉学への情熱

下級武士の家に生まれた二人の生活は、決して裕福なものではなかった。特に大久保家は、父が藩内の政争に巻き込まれて島流しになったことで、極貧の生活を強いられることとなる。日の光も入らないような粗末な家で、大久保は家族を支えながら必死に生きていた。

そんな大久保を精神的にも経済的にも支えたのが西郷隆盛である。西郷自身も大家族を抱えて生活は苦しかったが、わずかな食事や金銭を大久保家に分け与え、励まし続けたといわれている。西郷のこうした温かい心遣いは、大久保にとって生涯忘れられない恩義となったはずだ。

貧しい中でも、二人は勉学への情熱を失わなかった。共に陽明学などの書物を読みあさり、理想の政治について議論を戦わせた。苦境にあるからこそ、今の世の中を変えなければならないという志が磨かれていったのである。この時期のハングリー精神と相互扶助の経験が、後の困難な政治局面を乗り越える際の強固な精神的基盤となっていった。

島津斉彬に見出されたきっかけ

二人の運命が大きく動き出したのは、薩摩藩主として島津斉彬が登場してからである。聡明で開明的な斉彬は、身分にとらわれず優秀な人材を登用しようと考え、西郷と大久保に白羽の矢を立てた。特に西郷は、斉彬の庭方役として抜擢され、直接政治の教えを受ける機会に恵まれた。

西郷は斉彬の手足となって京都や江戸を奔走し、各藩の志士たちと交流を深めていった。斉彬の壮大な国家構想に触れたことで、西郷の視点は薩摩一藩から日本全体へと広がっていく。彼は斉彬を神のように崇拝し、その死後も師の教えを胸に刻んで活動を続けることとなる。

一方の大久保もまた、斉彬の側近たちに接近し、自らの才能をアピールする機会を窺っていた。西郷が表舞台で活躍する一方で、大久保は囲碁を通じて有力な僧侶に近づくなど、知略を巡らせて政治の中枢へと食い込んでいった。アプローチの方法は違えど、二人は斉彬という名君の下で政治家としての資質を開花させていったのである。

互いに助け合った激動の青年期

島津斉彬の急死後、薩摩藩は保守派が実権を握り、西郷と大久保には逆風が吹き荒れた。西郷は幕府から追われる身となり、奄美大島への遠島処分を受ける。絶望の淵に立たされた西郷だったが、鹿児島に残った大久保は彼を見捨てることはなかった。

大久保は藩内で徐々に実力を蓄え、久光という新しい権力者に接近して信頼を勝ち取っていった。そして、政治の実権を握るとすぐに西郷の召喚を働きかけたのである。大久保にとって、来るべき倒幕の戦いには西郷のカリスマ性と武力が不可欠だと判断したからだ。

西郷が島から戻ったとき、二人は涙を流して再会を喜んだと伝えられている。この時期、西郷と大久保はまさに「車の両輪」のような関係だった。大久保が藩の舵取りを行い、西郷が現場で指揮を執る。この絶妙な役割分担が完成したことで、薩摩藩は倒幕運動の主導権を握る強力な集団へと変貌を遂げていったのである。

明治維新を成し遂げた西郷隆盛と大久保利通の役割

薩長同盟における二人の連携

倒幕を実現するためには、対立していた長州藩と手を組む必要があった。これが歴史的な「薩長同盟」である。この同盟の成立においても、西郷隆盛と大久保利通の連携は見事なものであった。大久保は藩内の保守的な意見を抑え込み、長州との提携に向けた政治的な地ならしを行った。

一方、現場での交渉を任されたのは西郷である。西郷は土佐の坂本龍馬の仲介を得て、長州の木戸孝允と会談を行った。当初は互いの不信感から交渉が難航したが、西郷の誠実な態度と大局的な判断が事態を打開した。西郷は長州のために武器や食糧の手配を約束し、信頼関係を築き上げたのである。

この時、大久保は京都や鹿児島で後方支援に徹し、西郷が動きやすい環境を整えていた。西郷という「顔」と、大久保という「頭脳」が完全に噛み合ったからこそ、犬猿の仲だった薩摩と長州が手を結ぶという奇跡が起きたのだ。この同盟が幕府を追い詰める決定打となったことは言うまでもない。

戊辰戦争で見せた役割の違い

1868年、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発すると、西郷と大久保の役割分担はさらに明確になった。西郷は東征大総督の参謀として軍を率い、東海道を江戸へ向けて進軍した。彼の卓越した統率力は、兵士たちを鼓舞し、新政府軍の士気を高めるのに大いに貢献した。

江戸城無血開城は、西郷の最大の功績の一つである。勝海舟との会談において、西郷は江戸の町を戦火から守るという決断を下した。これは単なる軍事的勝利以上に、新政府の徳を示す政治的な勝利でもあった。西郷の情に厚い性格と、相手を尊重する姿勢がなければ成し得なかった偉業である。

その間、大久保は京都あるいは大阪に留まり、新政府の財政基盤の確立や外交問題の処理に追われていた。戦争を継続するには莫大な資金と物資が必要であり、大久保はその調達に奔走した。華々しい戦場の英雄が西郷なら、大久保は国家運営という地味だが極めて重要な実務を完璧にこなしていたのである。

新政府樹立後の政治改革

戊辰戦争が終わり、明治新政府が本格的に始動すると、大久保利通は参議として政治の中枢に座り、矢継ぎ早に改革を断行していった。版籍奉還により土地と人民を天皇に返還させ、中央集権国家の基礎を固めることが急務であった。大久保は冷徹なまでの合理主義で、旧来のシステムを解体しようとした。

西郷は一度鹿児島へ帰っていたが、大久保らの強い要請により再び上京し、参議に就任した。新政府には各藩出身者の対立や不満が渦巻いており、それらを抑えるためには西郷の圧倒的な人望が必要不可欠だったからだ。西郷の存在そのものが、新政府の求心力となっていたのである。

この時期、二人は協力して「御親兵」を創設した。これは政府直属の軍隊であり、後の日本陸軍の基礎となる組織である。軍事力を背景に改革を進めたい大久保と、武士の新しい生きる道を模索していた西郷。思惑は微妙に異なっていたかもしれないが、強い国家を作るという目的においては完全に一致していた。

廃藩置県という巨大な賭け

明治維新における最大の改革と言われる「廃藩置県」も、西郷と大久保のタッグなくしては実現しなかった。全国の藩を廃止して県を置くというこの措置は、大名や武士たちの特権を奪うものであり、下手をすれば内戦になりかねない危険な賭けであった。

大久保たちは密かに計画を練り上げたが、実行には西郷の同意と協力が絶対条件だった。大久保が計画を打ち明けた時、西郷は「その時は私がすべてを引き受ける」と答えたと言われる。この言葉は、もし反乱が起きれば自分が鎮圧し、責任を取って腹を切るという覚悟を示したものだった。

西郷が軍事的な睨みを利かせ、大久保が政治的な手続きを一気に進める。この電光石火の早業により、廃藩置県はほとんど抵抗を受けることなく断行された。260年以上続いた封建体制を、血を流さずに終わらせたこの瞬間こそ、西郷隆盛と大久保利通のコンビネーションが最高潮に達した時であったと言えるだろう。

西郷隆盛と大久保利通の決別と最期

岩倉使節団と留守政府のすれ違い

新政府の基礎が固まりつつあった明治4年、大久保利通や岩倉具視らは欧米の視察と条約改正交渉のために「岩倉使節団」として海外へ旅立った。一方、西郷隆盛は「留守政府」の首班として日本に残り、国内の政治を任されることとなった。ここから、二人の運命の歯車が狂い始める。

出発前、使節団と留守政府の間には「大きな改革は行わない」という約束があった。しかし、西郷を中心とする留守政府は、学制や徴兵令、地租改正といった重要政策に次々と着手していった。これらは近代化に必要な改革ではあったが、帰国後の大久保たちからすれば約束違反と映った。

また、西郷は士族たちの不満を肌で感じており、彼らの救済策を常に模索していた。一方、欧米の圧倒的な文明力を目の当たりにした大久保は、内政を整え産業を興すこと(殖産興業)こそが最優先だと確信して帰国した。見てきた景色と守るべきものの違いが、かつての盟友の間に埋めがたい溝を作り始めていたのである。

征韓論争で表面化した対立

二人の対立が決定的になったのが、いわゆる「征韓論争」である。当時、鎖国政策をとっていた朝鮮との関係が悪化しており、西郷は自らが使節として朝鮮に渡り、対話を試みようとした。もし自分が殺されれば、それを大義名分として兵を出せばよいという、命がけの提案だった。

閣議では一度西郷の派遣が決定したが、帰国した大久保や岩倉具視らはこれに猛反対した。大久保の主張は、今は外征を行っている場合ではなく、国内の基盤強化に全力を注ぐべきだという「内治優先論」であった。また、西郷が派遣されれば戦争になるリスクが高く、欧米列強に付け入る隙を与えると考えたのだ。

激しい権力闘争の末、西郷の派遣は中止となった。この決定に憤慨した西郷は辞表を提出して鹿児島へ帰ってしまう。西郷を慕う多くの軍人や官僚も一斉に政府を去り、新政府は分裂状態に陥った。これが「明治六年の政変」である。幼い頃から支え合ってきた二人が、国家の進路を巡って袂を分かった瞬間であった。

西南戦争で敵味方になった悲劇

鹿児島に戻った西郷は、私学校を設立して若者たちの教育に専念していた。しかし、新政府への不満を募らせた士族たちの暴発を抑えきれなくなり、1877年、ついに西郷を擁した反乱軍が挙兵する。日本国内最大の内戦、「西南戦争」の勃発である。

東京にいた大久保にとって、これは悪夢のような出来事だったはずだ。かつての無二の親友を、国家の敵「逆賊」として討たなければならない。大久保は国務のトップとして、冷徹に鎮圧軍の指揮を執った。徴兵制によって集められた政府軍は、最新の装備で士族軍を圧倒していった。

戦いの末、西郷は故郷の城山で追い詰められ、自刃して果てた。その報せを聞いた大久保は、家の中を歩き回りながら号泣したと伝えられている。「おはんの死と共に、新しい日本が生まれる」という言葉を残したとも言われ、その胸中は悲しみと安堵が入り混じった複雑なものだったに違いない。

大久保利通の暗殺と日本の夜明け

西郷の死からわずか8ヶ月後の1878年5月14日、大久保利通もまた凶刃に倒れることとなる。東京の紀尾井坂へ向かう途中、不平士族らによって暗殺されたのである。享年49。西郷を死に追いやった独裁者としての恨みが、その身に向けられた結果だった。

大久保が襲撃されたとき、彼が身につけていた(あるいは馬車の中にあった)ものがある。それは、西郷から送られた手紙であった。大久保は生前、西郷からの手紙を大切に持ち歩き、周囲には「自分ほど西郷を知っている者はいない」と語っていた。政治的な立場は違えても、心の奥底では最期まで友情が消えることはなかった証拠であろう。

二人の死をもって、明治維新の動乱期は終わりを告げた。西郷が武士の魂を象徴して散り、大久保が近代国家の骨格を作り上げて倒れた。彼らの命がけのバトンリレーによって、日本は近代化への道を力強く走り出したのである。今日の日本があるのは、この二人の巨星の存在があったからこそだと言える。

まとめ

本稿では、西郷隆盛と大久保利通の生涯を、その出会いから悲劇的な別れまで解説してきた。要点は以下の通りである。

  • 幼少期からの強い絆:同じ町で育ち、貧困や苦難を共に乗り越えながら、倒幕への志を育んだ。

     

     

  • 維新での役割分担:西郷の人望と実行力、大久保の知略と構想力が噛み合い、薩長同盟や無血開城、廃藩置県を成功させた。

     

     

  • 決別と内戦:欧米視察を経た大久保の内治優先論と、士族を想う西郷の主張が対立し、西南戦争へと発展した。

     

     

  • 永遠の友情:敵味方に分かれた後も、大久保は西郷の手紙を最期まで持ち歩くなど、深い信頼と敬意が残っていた。

     

     

  •  

     

二人は「破壊」と「創造」という異なる役割を担い、それぞれの正義を貫いた。その生き様は、現代を生きる私たちにも、信念を持つことの尊さと難しさを問いかけている。