石田三成の家紋

結論:「大一大万大吉」は確実な家紋とは言えず、三成の定紋そのものが「定かではない」

石田三成の紋として最も有名な「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)は、三成が旗印に掲げたと伝わるものです。ただし、Wikipediaの「石田三成」の項は、三成の定紋は定かではないと書いています。「大一大万大吉」が家紋だと確定した資料はありません。

同じ項には、石田氏として九曜紋や桔梗紋を使った例があり、三成も九曜紋を併用していたと書かれています。「大一大万大吉」は、足軽に貸し出した甲冑の胴や、三成の肖像画の裃に描かれているとされます。

この六文字は、もとは藤原秀郷流山内首藤氏が用いた家紋とされます。鎌倉時代の石田為久と結びつけられたのは江戸時代の文献からで、滋賀県の広報ページは、この印が江戸時代前期の史料には見られないと指摘しています。つまり、「三成の紋」というイメージには、わかっていない部分が多く残っています。

基本情報

  • 人物:石田三成(従五位下・治部少輔)
  • 生没年:永禄3年(1560年)〜慶長5年10月1日(1600年11月6日)、享年41
  • 生誕地:近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)とされる
  • 時代:安土桃山時代。豊臣政権で佐和山19万4,000石を与えられ(文禄4年・1595年)、関ヶ原の戦いでは西軍の中心人物となった
  • 紋・旗印の要点:定紋は定かではない。「大一大万大吉」は旗印として知られ、九曜紋・桔梗紋の使用例もある

石田三成の家紋は大一大万大吉なのか?旗印との違いと史料の状況

Wikipediaの書きぶり:定紋は「定かではない」

Wikipediaの「家紋」の節は、三成の定紋は定かではないとしたうえで、「大一大万大吉」の文字が、足軽に貸した甲冑や肖像画の裃に描かれていると書いています。文字の配置はわかっていません。旗本の山内(五味)家で使われた形は、右に「大吉」、左の上下に「大一大万」を置くもので、これも三成の紋の形を直接示すものではありません。

家紋は家に伝わる印、旗印は戦場で軍勢を示す印と、役割を分けて考えるのが一般的です。三成の場合、旗印として語られる六文字が、いつのまにか「三成の紋」として広まりました。ただ、三成自身がこれを定紋と定めたことを示す資料は、今回確かめた範囲にはありません。

江戸時代前期の史料に見られない

滋賀県の広報ページ「石田三成、その人物像とは」は、この印が江戸時代前期の史料には見ることができない、と述べています。三成の時代や直後の記録で裏づけられていないということです。

同ページは一説として、関ヶ原に勝って天下を治めた徳川家康が、敗れた三成を悪者にするために情報を操作したのではないか、という見方を紹介しています。あくまで仮説の一つとして挙げられているもので、確定した事実ではありません。

九曜紋・桔梗紋と下り藤について

Wikipediaには、石田氏として九曜紋や桔梗紋を使った例があり、三成も九曜紋を併用していたとあります。このため、三成の家紋について確かめられるのは「九曜紋の使用」までです。

三成の紋として「下り藤」が挙げられることもあります。しかし、今回確かめたWikipediaと滋賀県のページには、下り藤についての記述がありませんでした。そのため、この記事では三成と下り藤の関係については書きません。

大一大万大吉の意味と由来:一人が万民のため?諸説を整理

読み方と一般に知られる意味

滋賀県のページは、読みを「だいいち・だいまん・だいきち」とし、意味を「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」と説明しています。ラグビーの合言葉に通じるチームワークの理想を表す、とも紹介されています。ただし同ページは、これを「石田三成が用いたと伝わるマーク」として扱っており、三成本人がこの意味を説明した記録を示してはいません。

由来:山内首藤氏の家紋と石田為久

Wikipediaによると、「大一大万大吉」は、もとは藤原秀郷流山内首藤氏の一族が独占的に用いた家紋です。鎌倉時代の石田次郎為久と結びつけられるようになったのは、江戸時代の『夜討曾我紋づくし』以降とされます。三成が為久にあやかって採用したという話は、江戸時代以降に語られた説明だと考えるのが妥当です。

実際の使われ方:甲冑と肖像画

確かめられる使用例は、足軽に貸し出していた甲冑の胴と、三成の肖像画の裃に描かれたものです。つまり、兵に貸す甲冑の印として用いられたこと、そして肖像画にも描かれたことまでは、Wikipediaが挙げています。

一方で、文字の配置は一定の形がわかっていません。有名な図柄をそのまま三成の時代のものと見るのは避けたほうがよさそうです。

ゆかりの地と関連する人物

  • 生誕地:滋賀県長浜市石田町(近江国坂田郡石田村)
  • 佐和山城:文禄4年(1595年)に三成が城主となった城。関ヶ原の戦いの後、9月18日に東軍の攻撃で落城した
  • 墓所:京都・大徳寺の三玄院。ほかに高野山奥の院、彦根市の佐和山遊園内、京都・妙心寺内の壽聖院も墓所として挙げられている
  • 弘前(津軽家):次男の重成は、関ヶ原後に津軽信建の助力で逃れ、津軽氏にかくまわれた。杉山源吾と名乗り、のちに弘前藩の家老職となり、子孫は津軽家臣としていくつかの家に分かれた
  • 三女の辰姫:津軽信枚の正室となったが、のちに側室に降格された。産んだ子が弘前藩の第3代藩主・津軽信義になった
  • 長男の重家:関ヶ原後に家康から助命され、出家して宗亨と名乗った。その子の直重は越後高田藩に随行して新田開発を命じられ、妙高市に定住したと伝わる
  • 関係の深い人物:春屋宗園(重家の師。沢庵宗彭とともに三成の遺骸を引き取った)、津田清幽(佐和山城開城の際、家康と交渉して三男の佐吉の助命につなげた)

よくある質問

石田三成の家紋は結局何ですか?

Wikipediaは、定紋は定かではないとしています。「大一大万大吉」は甲冑や肖像画に描かれ、石田氏として九曜紋や桔梗紋を使った例もあり、三成は九曜紋も併用していたと書かれています。

大一大万大吉はどう読みますか?

「だいいち・だいまん・だいきち」と読みます。滋賀県のページが、この読みと「一人が万民のために、万民は一人のために」という意味を紹介しています。

大一大万大吉は三成が考えたものですか?

いいえ。Wikipediaによれば、もとは藤原秀郷流山内首藤氏の一族が用いた家紋です。鎌倉時代の石田為久との結びつきは、江戸時代の文献から語られるようになったものです。

三成の時代の資料に、この旗印は出てきますか?

滋賀県のページは、江戸時代前期の史料にはこの印を見ることができないと述べています。そのため、今回確かめた範囲では、三成の時代の資料でこの印を確認することはできませんでした。

石田家は三成の死後、続いたのですか?

続いたとされます。次男の重成は津軽家で家老職となり、子孫は津軽家臣としていくつかの家に分かれました。長男の重家は出家して長寿を全うし、その子の直重は妙高市に定住したと伝わります。