石川啄木 日本史トリビア

結論:石川啄木の死因は肺結核。26歳、東京の自宅で亡くなった

石川啄木は1912年(明治45年)4月13日の午前9時30分ごろ、東京市小石川区久堅町の自宅で亡くなりました。満26歳です。死因は肺結核で、枕元には妻の節子、父の一禎、友人の若山牧水がいたと伝えられています。

亡くなる1年余り前の1911年2月には、慢性腹膜炎と診断されて手術を受けています。最期の直前には母のカツも結核で亡くなっており、家族ぐるみで病と貧しさに追われた末の死でした。

基本情報

  • 生没年:1886年(明治19年)2月20日〜1912年(明治45年)4月13日(満26歳)
  • 出身:岩手県南岩手郡日戸村(本名は石川一)
  • 時代:明治時代
  • 立場:歌人・詩人。東京朝日新聞の校正係を務めた時期がある
  • 死因:肺結核
  • 死去の場所:東京市小石川区久堅町の自宅(現在の文京区小石川5丁目)
  • 主な作品:歌集『一握の砂』(1910年12月1日刊)、歌集『悲しき玩具』(1912年6月20日刊)、詩集『あこがれ』(1905年5月刊)

石川啄木の死因と最期の経過:病名から亡くなる日まで

死因は肺結核。慢性腹膜炎は1年前に診断されていた

啄木の死因は、Wikipedia の記述では肺結核です。一方で、体の不調はそれ以前から表れていました。1911年2月1日、東京帝国大学医科大学附属病院で慢性腹膜炎と診断され、2月4日に入院、2月7日に手術を受け、3月15日に退院しています。

ここで注意したいのは、慢性腹膜炎は「最期の1年余り前に診断された病気」であって、亡くなる直接の原因として記されているのは肺結核だという点です。両者を「結核と合併症で亡くなった」とひとまとめにする説明をよく見かけますが、確かめられる範囲では、診断の時期と死因を分けて書くのが正確です。

1911年夏から冬:高熱と転居

退院後も体調は戻りませんでした。1911年7月には一週間ほど高熱が続き、同月28日には妻の節子も肺尖カタルと診断されています。8月7日、一家は小石川区久堅町の借家に移りました。この家が、のちに啄木の最期の場所になります。

12月にも高熱が続き、啄木は担当していた『二葉亭全集』の仕事を他の社員に引き継ぎました。日記は1912年2月20日を最後に途絶えています。

母の死と、危篤から4月13日まで

1912年1月、母のカツが重い結核と診断されました。カツは3月7日に亡くなり、葬儀は3月9日に浅草の等光寺で営まれました。啄木が亡くなる、わずか37日前のことです。

4月5日には啄木の危篤の知らせを受けて、父の一禎が上京しました。4月9日、第二歌集の出版が決まり、原稿料20円が前借りとして届きます。そして4月13日、啄木は亡くなりました。節子は妊娠8か月でした。出版が決まってから4日後の死です。

啄木はなぜ若くして亡くなったのか:貧困・借金・家族の病

借金は4年間で1372円50銭

啄木の暮らしの苦しさは、本人の記録にも残っています。1909年ごろの自筆の記録によると、1905年からの約4年間の借金は総額1372円50銭でした。最大の貸し主は宮崎郁雨で、150円です。

啄木の生活の変遷をたどると、落ち着いた時期の短さが分かります。1902年10月27日に盛岡中学校を退学し、30日に上京。1905年5月3日に第一詩集『あこがれ』を出し、同月12日に堀合節子との婚姻届を提出しました。1906年4月に渋民尋常小学校の代用教員となりますが、1907年4月21日に免職処分を受け、5月には函館へ移ります。1908年4月5日に釧路を離れて函館へ渡り、4月24日に単身で横浜行きの船で上京へ向かいました。北海道から東京へと、職と住まいを何度も変えた末の東京での暮らしでした。

啄木は1909年3月1日から東京朝日新聞の校正係として働き、同年6月16日には妻子と母が上京して、東京での一家の生活が始まりました。職に就いても生活は楽にならなかったことは、歌にも表れています。『一握の砂』には「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」が代表歌として知られています。

家族に重なった病と死

啄木の周りでは、家族の死が続きました。長男の真一は1910年10月27日、生後まもなく病死しています。『一握の砂』の献辞には、支えてくれた宮崎郁雨と金田一京助への感謝とともに、この早世した長男への思いが述べられています。

1912年には母カツが亡くなり、啄木自身も同年に世を去りました。残された妻の節子は、1913年5月5日に函館の病院で肺結核により亡くなっています。

なお、貧困や過労、住環境が結核の悪化に影響したという説明は広く語られますが、Wikipedia など確かめられる資料に、そのような医学的因果関係まで書かれているわけではありません。ここでは、借金や病、家族の死が重なった事実の記録にとどめます。

病床の歌が『悲しき玩具』になった

啄木は、ノートに「一握の砂以後(四十三年十一月末より)」と題して歌を書きためていました。1910年11月末から1911年8月21日までの歌192首が記されたノートです。

亡くなる4日前に出版が決まったこの歌集は、友人の土岐哀果(善麿)が編集し、3ページの跋文を書いて、1912年6月20日に東雲堂書店から『悲しき玩具』として刊行されました。収録は194首で、土岐が加えた2首が巻頭に置かれています。題名は、啄木の文章「歌のいろいろ」から取られました。啄木が受け取れたのは、前借りの20円だけでした。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 函館・立待岬:墓所があります。1913年3月に宮崎郁雨らの手で墓碑が建てられ、現在の墓碑は1926年8月1日の建立です
  • 東京・浅草の等光寺:母カツの葬儀が営まれた寺で、啄木の法名は「啄木居士」です
  • 石川啄木記念館(盛岡市):道の駅もりおか渋民に隣接しています
  • 函館市の石川啄木小公園(大森浜):銅像があります
  • 釧路市の石川啄木資料館:2020年に開館しました

関連する人物

  • 節子:妻。啄木の最期を看取り、翌1913年に結核で亡くなりました
  • カツ:母。1912年3月7日に亡くなりました
  • 若山牧水:友人。啄木の最期に立ち会いました。歌集の出版決定にも関わったと記されています
  • 土岐哀果(善麿):『悲しき玩具』を編集した友人
  • 宮崎郁雨、金田一京助:生前の啄木を経済的・精神的に支えた人物

よくある質問

石川啄木は何歳で、何の病気で亡くなったのですか?

満26歳で、肺結核のため亡くなりました。1912年4月13日のことです。

慢性腹膜炎は死因なのですか?

慢性腹膜炎は、1911年2月に診断されて手術を受けた病気です。死因として記されているのは肺結核で、慢性腹膜炎は別の時期の病名として区別して扱います。

啄木はどこで亡くなりましたか?

東京市小石川区久堅町の自宅です。現在の文京区小石川5丁目にあたります。1911年8月に移り住んだ借家でした。

啄木の母や妻も結核だったのですか?

母のカツは1912年1月に重い結核と診断され、3月7日に亡くなりました。妻の節子は1911年7月に肺尖カタルと診断され、1913年5月に結核で亡くなっています。

『悲しき玩具』はいつ出版されましたか?

啄木の死後の1912年6月20日です。出版が決まったのは亡くなる4日前の4月9日でした。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。