武田信玄

結論:信玄の本拠は天守のない平地の館。守りは詰城と、最前線の本格的な城で固めた

武田信玄が甲斐で政務を執った拠点は、山上の城ではなく、甲府の平地にある躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)です。館は連郭式の平城で、天守はありません。館の背後には「詰城」の要害山城が控え、平時は館、緊急時は山城という二段構えになっていました。

一方、信濃などの最前線には、海津城のように「丸馬出」と「三日月堀」を備えた城が築かれました。これらは「甲州流築城術」の特徴とされます。信玄の城は、場所ごとに役割を分けた組み合わせとして見ると分かりやすくなります。

基本情報

  • 人物:武田信玄(晴信)。大永元年(1521年)の生まれとされる
  • 時代:室町時代(戦国期)
  • 立場・身分:甲斐の戦国大名。のちに信濃へ勢力を広げた
  • 本拠:躑躅ヶ崎館(甲府市)。1519年(永正16年)に父の武田信虎が築いた。1940年に「武田氏館跡」として国の史跡に指定された
  • 詰城:要害山城(標高780メートル)。1991年に国の史跡に指定された
  • 主な城の特徴:天守を持たない館、丸馬出、三日月堀、城代(武田氏では「郡司」)を置く支配

武田信玄の城とは?躑躅ヶ崎館と要害山城の構造

躑躅ヶ崎館は信虎が築いた平地の本拠

躑躅ヶ崎館を築いたのは信玄の父・信虎です。『高白斎記』によると、信虎は1519年(永正16年)12月20日に川田館から新しい館へ移りました。信玄が築いた城と思われがちですが、館そのものは父の代からのものです。信虎はこのとき城下町も開きました。

主郭部は東曲輪と中曲輪、西曲輪などからなり、東曲輪で政務、中曲輪で当主の日常生活、西曲輪で家族の住居が営まれたと考えられています。周囲は外濠・内濠・空濠に囲まれた三重の構造でした。

「石垣のない館」とは言い切れない

信玄の館は簡素で防御が薄かった、と語られることがあります。しかし史跡の情報を見ると、そう単純ではありません。内郭は石積みで仕切られていました。また西曲輪の虎口には馬出しがあり、2006年の発掘調査では大手口の前面から三日月堀が確認され、丸馬出が築かれていたことが分かりました。

天守がなく、山城のような高い石垣の城でもない。しかし堀や馬出しで守りを固めた館だった、というのが実際の姿です。現在の跡地は1919年創建の武田神社の境内で、このとき南の石垣が崩されて正門が造られたため、三重構造の原型の大半が失われたと説明されています。

詰城・要害山城と館の二段構え

館の背後にある詰城が要害山城(積翠寺城)です。『高白斎記』によれば、1520年(永正17年)6月に信虎の時代に築かれました。館の北には湯村山城もあり、居館と詰城・支城で甲府の防衛体制をつくっていました。

要害山城は信玄の誕生地としても知られます。今川氏配下の福島正成が甲府に迫ったとき、信虎の正室・大井夫人が避難し、城中で嫡男(のちの晴信)を産んだと伝えられています。城跡には「武田信玄公誕生之地」の碑があります。本丸への通路、虎口、曲輪、堀切、石垣などがほぼ完全に残るとされます。

信玄の城の最前線:海津城・深志城・高遠城と丸馬出

海津城:川中島に築かれた拠点

海津城は現在の長野市松代町にあり、松代城の前身です。正確な築城時期は不明で、文書上は1559年(永禄2年)に着工し、翌年に完成したとされます。『甲陽軍鑑』に基づく伝承では山本勘助に命じて築かせたとされますが、これは軍記物にもとづく伝承です。

千曲川を背にした輪郭式平城で、本曲輪を二の曲輪が三方から囲み、丸馬出と三日月堀を備えます。1561年(永禄4年)9月、上杉氏が侵攻すると、城代の春日虎綱(高坂昌信)が籠城して信玄本隊の到着を待ち、9月10日に八幡原で両軍が決戦したとされます。1981年に国の史跡となり、2004年には太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されました。

深志城:松本盆地を押さえた城

深志城は、のちの松本城の前身です。信濃守護の小笠原氏が築いた林城の支城として始まったとされます。1550年(天文19年)、武田氏は林城と深志城を落とし、守護の小笠原長時を追放しました。武田氏は林城を破却し、馬場信春を城代として置き、松本盆地を支配下に入れました。

現在の天守は武田氏の時代のものではありません。1590年(天正18年)に石川数正が入城し、数正と子の康長が天守や城郭、城下町を整えました。天守は1936年に旧国宝保存法で、1952年に文化財保護法で国宝に指定されています。

高遠城:伊那谷の拠点と仁科盛信

高遠城は1547年(天文16年)に、信濃進出の拠点として大規模に改築されたとされます。『甲陽軍鑑』は山本勘助と秋山虎繁(信友)に命じたと伝えますが、これも軍記物の伝承であり、確実な史実とはされていません。

この城が歴史に強く残るのは、武田氏滅亡の直前です。1581年に勝頼が新府城へ移ると、異母弟の仁科盛信が高遠城主を兼ねました。1582年2月、織田信忠が約3万の軍勢で迫り、守備兵は約3,000人でした。盛信は降伏勧告を退けて戦い、守備隊は玉砕して城は落ちました。その後、織田勢は甲斐へ進み、武田氏は滅亡しました。

丸馬出と三日月堀とは

馬出は、虎口の前に設けた小さな曲輪です。形によって丸馬出・角馬出・不整形の馬出に分けられ、丸馬出は、虎口の土橋を囲むように弧状に堀をめぐらしてできる小区画とする見解があります。東国の戦国期の丸馬出は、分布がほぼ武田氏の勢力圏と重なるとされます。武田氏が築いたか改修したとされる小長井城、大島城、牧之島城は、馬出と枡形虎口を組み合わせています。

武田流築城術の掘り下げ:城代の支配と受け継がれた技術

城代(郡司)で領国を治める仕組み

城は戦うためだけでなく、支配のための拠点でもありました。譜代の家老衆は各地の拠点城郭に城代(武田氏では「郡司」)として置かれ、領域支配を担いました。牧之島城の馬場信春、箕輪城の内藤昌秀、岩村城の秋山虎繁、江尻城の山県昌景などがその例です。江尻城は1568年(永禄11年)、薩埵峠の戦いのあとに信玄が築いたとされます。

城に回せなかった費用と治水

甲斐は釜無川と笛吹川の氾濫で耕地が少ない土地でした。信玄の時代には治水事業と、氾濫原の新田開発が進められました。御勅使川と釜無川の合流点の竜王付近には「信玄堤」と呼ばれる堤防が築かれ、流れを変えて開墾が行われたとされます。ただし、「石垣に使う費用を治水に回した」という因果関係を示す資料は確認できないため、ここでは並べて紹介するにとどめます。

丸馬出は真田氏にも見られる

武田氏が滅んだあとも、馬出の技術は残りました。真田氏の堀之内城には巨大な丸馬出があり、天正十年代(1582年~)に真田氏が構築または改修したと推測されています。真田丸は、馬出の形をした出丸の例として挙げられています。一方、徳川氏が武田の技術を取り入れたという話は、今回確かめた資料では確認できませんでした。

よくある誤解:「人は城」の歌

信玄の言葉として有名な「人は城、人は石垣、人は堀」は、今回確かめた資料で信玄本人の言葉として確認できませんでした。出どころを確かめられないため、この記事では引用しません。

ゆかりの地と関連する人物

  • 武田氏館跡(武田神社):甲府市。国の史跡で、日本100名城の24番。東南部には信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館)がある
  • 要害山城:甲府市。国の史跡で、続日本100名城の128番。甲府駅北口からバスで「積翠寺」停留所下車、登山口まで徒歩約15分
  • 松代城(海津城):長野市松代町。国の史跡で、日本100名城の26番
  • 松本城(深志城):長野県松本市。天守は国宝
  • 高遠城跡:長野県伊那市高遠町。国の史跡で、日本100名城の30番。桜の名所としても知られる
  • 関連する人物:武田信虎(館の築城者)、春日虎綱(海津城代)、馬場信春(深志城代)、仁科盛信(高遠城主)、山本勘助(築城の伝承に登場)

よくある質問

武田信玄の城に天守はあった?

本拠の躑躅ヶ崎館は連郭式平城で、天守はありません。現在の松本城の天守は、武田氏の後に入った石川数正の時代に整えられたものです。

躑躅ヶ崎館は信玄が築いたの?

築いたのは父の信虎で、1519年(永正16年)に移ったとされます。信玄の時代にも本拠として使われました。

丸馬出と三日月堀はどこで見られる?

躑躅ヶ崎館では2006年の発掘調査で三日月堀が確認され、丸馬出があったことが分かりました。松代城にも丸馬出と三日月堀が備わるとされ、復元整備も進められています。

山本勘助が築いた城はある?

『甲陽軍鑑』は、海津城や高遠城の築城・改築を山本勘助に命じたと伝えます。ただしどちらも軍記物にもとづく伝承で、確実な史実とはされていません。