森鴎外 日本史トリビア

結論:「雁」は、思いを伝えられなかったお玉の悲恋を描いた森鴎外の小説

「雁」は、高利貸しの末造に囲われた女性お玉と、散歩の途中に家の前を通る医学生の岡田を描いた森鴎外の小説です。お玉は岡田に思いを寄せますが、決定的な日に岡田が一人ではなかったため、何も伝えられないまま終わります。その後、岡田は洋行します。

雑誌『スバル』に1911年(明治44年)9月から1913年(大正2年)5月まで連載され、1915年5月に単行本になりました。物語の時代は1880年(明治13年)です。題名の雁は、散歩中に石が当たって死ぬ不運な雁のことで、お玉のはかない心理に重ねられています。

この記事では、あらすじと見どころ、舞台の無縁坂、鴎外の生涯との接点を整理します。

基本情報

  • 作者:森鴎外(森林太郎)。1862年(文久2年)2月17日生まれ、1922年(大正11年)7月9日没。満60歳
  • 経歴:東京大学医学部を卒業後に陸軍軍医となり、陸軍軍医総監まで務めた。小説家・評論家・翻訳家でもある
  • 発表:雑誌『スバル』に1911年9月から1913年5月まで連載。単行本は1915年5月
  • 舞台:1880年(明治13年)の東京。無縁坂の途中にあるお玉の家と、不忍池の周辺
  • 主な登場人物:お玉、岡田、末造、語り手の「僕」
  • 映画化:1953年と1966年に大映が映画化。テレビドラマも1959年から1994年にかけて何度も制作された

森鴎外「雁」のあらすじと登場人物

登場人物:お玉・岡田・末造・「僕」

お玉は、高利貸しの末造の妾です。岡田は医学を学ぶ大学生で、お玉が思いを寄せる相手です。岡田のモデルとされる人物として、岡田国太郎の名が挙げられています。

語り手の「僕」は岡田の友人です。この作品は、「僕」が語る形で進みます。

あらすじ:決定的な日に起きたこと

お玉は、末造が来ない日は家で一人で過ごし、散歩に来る岡田を待っています。ある日、岡田は下宿の夕食が「僕」の嫌いな料理だったため、「僕」と一緒に散歩に出ます。

二人は不忍池に行き、そこで投げた石が雁に当たり、雁は死にます。その後、二人はお玉の家の前を通ります。岡田が一人ではなかったので、お玉は思いを伝えることができず、そのまま終わります。その後、岡田は洋行します。

お玉は、連れがいたために思いを伝えられませんでした。私は、この些細な事情で終わってしまう点が、作品の切なさの中心だと考えます。

末造夫婦の描写

作中には、末造とその妻の諍いも描かれます。末造は、お玉を囲う高利貸しであると同時に、家庭では妻と争う夫でもあります。恋の相手である岡田の側だけでなく、お玉を囲う側の事情も書き込まれている点が、この小説を単純な悲恋にしていません。

「雁」の見どころ:語りの仕掛けと象徴

語り手の「僕」はなぜ知らないことまで語れるのか

「僕」は岡田の友人で、当時のお玉の事情は知りませんでした。ところが作中では、お玉と末造の馴れ初めや、末造夫婦の諍いも描かれます。これについて作品は、「僕」が後にお玉と知り合い、状況を照らし合わせて知ったという設定を用意し、その経緯を作中で弁明しています。

つまり、当事者として見ていた出来事と、後から聞いて組み立てた出来事が一つの語りに重なっています。読者は岡田の側の目撃談と、お玉の側の内面の両方を読むことになります。

題名「雁」の意味

この小説は、不運な雁になぞらえて、女性のはかない心理を描いた作品とされています。雁が死ぬ場面と、お玉が思いを伝えられない場面は、同じ散歩の中で続けて起きます。この並びが、題名の意味を支えています。

映画・ドラマでも読み継がれた作品

1953年には大映が映画化し、1966年にも大映で再び映画になりました。テレビでも1959年にKR(現TBS)系とNET(現テレビ朝日)系で放送されたのを始め、1962年にNHK、1963年にMBS系、1974年にNET系、1993年にテレビ東京系、1994年にフジテレビ系で放送されました。1993年版は第31回ギャラクシー賞奨励賞を受賞しています。映画とテレビで何度も映像化された作品です。

舞台の無縁坂と、鴎外の生涯との接点

無縁坂という場所

無縁坂は、東京都台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂です。不忍池の側から旧岩崎邸庭園に沿って登り、東京大学に突き当たります。坂の名は、そばにあった無縁寺(現在の講安寺)にちなんで付けられました。

作中では、お玉の家がこの坂の途中にあります。不忍池も作中に出る場所なので、物語の主な動きは、坂と池のあいだの狭い範囲で起きています。

明治13年という設定と、鴎外のドイツ留学

物語の時代は1880年(明治13年)です。1862年2月生まれの鴎外は、この年に満18歳になっています。鴎外自身は後に東京大学医学部を卒業して陸軍軍医となり、1884年(明治17年)8月に日本を出国し、同年10月にドイツへ着きました。ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンなどに滞在し、1888年(明治21年)9月に帰国しています。留学は約4年でした。

岡田が医学生で、のちに洋行するという設定は、鴎外の経歴と近い位置にあります。ただし、岡田が鴎外自身だと書いた資料は、今回確かめた範囲にはありません。岡田のモデルとして挙げられているのは岡田国太郎という人物です。

連載の時期:明治から大正へ

物語の時代は明治13年ですが、連載が始まったのは1911年(明治44年)で、約31年後です。連載が終わった1913年5月は、すでに大正2年でした。鴎外はその後、1922年(大正11年)に亡くなっています。「雁」は、明治の終わりに書き始められ、大正の初めに連載を終えた作品です。

ゆかりの地と関連する人物

無縁坂と旧岩崎邸庭園

無縁坂は不忍池のほとりから旧岩崎邸庭園に沿って登る坂です。坂のそばには、名の由来になった無縁寺の後身、講安寺があります。小説の舞台を歩く場合は、台東区側の池之端から文京区側の湯島へ向かう道筋です。

文京区立森鷗外記念館

森鷗外記念館は、東京都文京区千駄木1-23-4にあります。展示室、講座室、図書室、ミュージアムショップ、カフェを備えています。2026年10月10日から2027年1月11日までは、特別展「観潮楼歌会―鴎外の歌壇観測」が開催されています。開館時間や休館日は、公式サイトで確認してください。

墓所とベルリンの記念館

鴎外の墓には、遺言により「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれています。もとは東京の弘福寺に葬られましたが、関東大震災後に三鷹市の禅林寺へ改葬されました。分骨されたものは、生まれ故郷の津和野町の永明寺にもあります。また、ベルリンには森鷗外記念館があり、鴎外が留学中に使った居室が当時の様子のまま公開されています。

関連する人物

作品の中心にいるのは、お玉、岡田、末造、語り手の「僕」の四人です。このうち岡田のモデルとして、岡田国太郎の名が挙げられています。他の作品では、鴎外には『舞姫』『青年』『高瀬舟』などがあります。

よくある質問

「雁」を書いたのは誰で、いつ発表されましたか。

森鴎外が書きました。雑誌『スバル』に1911年(明治44年)9月から1913年(大正2年)5月まで連載され、1915年5月に単行本になりました。

お玉は岡田に思いを伝えられましたか。

伝えられません。岡田が一人ではなかったため、お玉は何も言えないまま終わります。その後、岡田は洋行します。

物語はいつの、どこの話ですか。

1880年(明治13年)の東京です。お玉の家は無縁坂の途中にあり、不忍池も作中に出てきます。

映画やドラマになっていますか。

1953年と1966年に大映が映画化しました。テレビドラマも1959年から1994年にかけて、複数の局で制作されています。