柴田勝家

結論:柴田勝家は「鬼柴田」と呼ばれた織田家の猛将で、越前を治めた北陸方面軍の司令官だった

柴田勝家は織田信長の重臣で、戦場での勇猛さから「鬼柴田」と呼ばれたとされる武将です。信長の死後は羽柴(豊臣)秀吉と対立し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに敗れました。居城の北ノ庄城(現在の福井市)で、妻のお市の方らとともに自害しています。

ただし、人物像には後世の創作が混じっています。「知恵柴田」と呼ばれた根拠になる九頭竜川の舟橋や先駆的な刀狩りの話は、Wikipedia によれば『明智軍記』の創作で、史実とは言えません。この記事では、確かめられる事実と、出典が限られる逸話を分けて見ていきます。

基本情報

  • 生年:大永2年(1522年)とされる。ただし大永6年(1526年)、大永7年(1527年)、享禄3年(1530年)とする異説がある。出身は尾張国とされるが、出自ははっきりしない
  • 没年:天正11年4月24日(1583年6月14日)。享年は62とされるが、57歳・58歳とする異説もある
  • 時代:戦国時代から安土桃山時代
  • 立場:織田信秀・信長に仕えた家臣。のちに越前を領し、北陸方面軍を率いた
  • 居城:北ノ庄城(越前国、現在の福井県福井市)
  • 家族:天正10年(1582年)に信長の妹・お市の方と結婚した
  • 主な出来事:稲生の戦い、越前一向一揆後の越前統治、加賀平定、賤ヶ岳の戦い
  • 異名:「鬼柴田」「かかれ柴田」「瓶割り柴田」

柴田勝家の生涯と「鬼柴田」の武勇

信長の弟・信勝の家老から、信長の重臣へ

勝家は初め、織田信秀の子である信勝(信行)に家老として仕えました。信勝は信長の弟です。弘治2年(1556年)、勝家は稲生の戦いで信長と戦って敗れ、降伏します。信長と信勝の母・土田御前の願いで赦免されました。

翌弘治3年(1557年)11月、勝家は信勝に謀反の計画があると信長に知らせました。信勝は清洲城で河尻秀隆らに殺されています。勝家はその後、信勝の遺児である津田信澄を養育したとされます。かつて戦った相手に仕え直した人物が、のちに織田家の筆頭格として活躍することになります。

永禄11年(1568年)の上洛作戦では再び重く用いられ、畿内平定の戦いで先鋒の武将として働きました。その後も姉川の戦いや長島一向一揆の鎮圧戦などに加わり、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加しています。

「鬼柴田」「かかれ柴田」の由来と出典

「鬼柴田」は、武骨な性格と武勇から呼ばれたとされる異名です。出典ははっきり示されていません。「かかれ柴田」については、江戸中期の随筆『翁草』に載る小唄に、秀吉らとともに戦場での突進力を評された形で出てきます。戦国期の同時代の呼び名だと確かめられる資料ではなく、江戸時代に定着した評判と見るのが安全です。

同時代の外国人の評価も残っています。宣教師ルイス・フロイスの書簡(1581年5月19日付、1584年1月20日付など)には、勝家が「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」で、「はなはだ勇猛な武将」、信長の時代の日本で「もっとも勇猛な武将であり果敢な人」だと記されています。禅宗の信者でありながら他の宗派を憎まず、キリスト教の布教には妨害も援助もしないと述べたとも伝えられます。

「瓶割り柴田」と萱津の戦いの逸話

元亀元年(1570年)、勝家は近江の長光寺城に配属され、六角勢を撃退しました。「瓶割り柴田」はこの籠城の逸話です。残った水を兵に振る舞ったうえで水甕を割り、決死の覚悟を固めさせたと語られます。Wikipedia はこの話を桑田忠親の著作(1975年)に拠るものとして載せており、一次史料で確かめられた話とは言い切れません。

萱津の戦い(天文21年・1552年)では、敵の坂井甚介を討ち取ったとされます。「30人の首を取った」という話は、Wikipedia では翌年の清洲城攻めで「30騎を討ち取ったとされる」という形で書かれており、萱津の戦いの戦果とは別の話です。人数は伝承の範囲にとどまります。江戸時代の『常山紀談』や『武家事紀』には、勝家の戦功や発言を伝える逸話が収められています。

越前統治と「知恵柴田」の誤解、そして最期へ

越前八郡と北ノ庄城、掟書

天正3年(1575年)9月、勝家は越前国八郡と北ノ庄城を与えられました。北ノ庄城は勝家が築いた城で、天守は7層(一説には9層)で、安土城に匹敵する規模だったと伝えられます。天正4年(1576年)3月3日には「掟書黒印状」を出し、北陸方面軍の司令官として加賀平定を命じられました。加賀の平定が終わったのは天正8年(1580年)11月です。

天正5年(1577年)には、上杉謙信が加賀へ進出したのに対し、秀吉と意見が対立しました。手取川で上杉軍の襲撃を受けた日付は9月23日とされています。柴田と羽柴の不和は、この北陸出陣の頃からすでに見えていました。

九頭竜川の舟橋と刀狩り──「知恵柴田」は史実か

旧来、勝家は九頭竜川に舟橋を架けた、秀吉より早く刀狩りを行ったと語られ、「知恵柴田」とも呼ばれてきました。しかし Wikipedia は、これらの話を『明智軍記』による創作で、史実ではないとしています。越前の領国経営で確かな資料が残るのは、前述の掟書黒印状のような発給文書です。

勝家は戦場だけの武将ではなく、領国の統治を任された人物でした。ただ、「先進的な刀狩り」のような派手な逸話は、事実としては書けません。

お市の方との結婚と清洲会議

天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変のとき、勝家は越中の魚津城を攻めていました。城は6月3日に陥落しています。勝家は6月10日付の書状で光秀討伐の計画を伝え、18日に近江へ出動しましたが、すでに秀吉が光秀を討った後でした。

その後の清洲会議を経て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚します。お市の方の項目では、婚儀は8月20日に神戸信孝の居城・岐阜城で行われたとされます。通説は信孝の仲介ですが、勝家の書状から秀吉が動いたとする説もあります。

勝家が三法師に反対して信孝を擁立したという話は、『川角太閤記』による創作とする説があります。会議での細かなやり取りは、そのまま事実とは受け取れません。

賤ヶ岳の戦い──前田利家はなぜ戦線を離れたか

天正11年(1583年)3月12日、勝家は柳ヶ瀬に布陣し、木ノ本に陣を構えた秀吉と対陣しました。柴田軍は約3万、羽柴軍は5万〜7万とされます。4月16日に織田信孝が再び挙兵し、秀吉が美濃へ向かったところで佐久間盛政が大岩山砦を攻めましたが、秀吉の「美濃大返し」で形勢が逆転しました。

大岩山では4月19日、佐久間盛政が砦を攻めて中川清秀を討ち取りました。勝家は盛政に撤退を再三命じましたが、盛政は従わず前線に留まったとされます。21日未明に秀吉の大軍が攻め寄せると、戦いのさなかに茂山に布陣していた前田利家の軍が戦線から離脱しました。これで柴田軍の後方が崩れ、士気が急落しました。利家が早くから秀吉の誘いに応じていたためではないか、と推測されています。理由は史料の上で確定していません。

盛政は逃れたものの黒田孝高の手勢に捕らえられ、のちに斬首されて、首は京の六条河原にさらされました。勝家は本隊が支えきれず崩れ、越前の北ノ庄城へ退きました。

北ノ庄城での最期

4月23日(新暦6月13日)、北ノ庄城は前田利家を先鋒とする秀吉軍に包囲されました。翌24日、勝家は城で自害し、落城します。最期の様子は、小早川隆景に宛てた天正11年5月15日付の秀吉書状(『毛利家文書』)に書かれています。

お市の方も同じ日に亡くなりました。お市の項目では、勝家が城外への退去を勧めたのに市は拒み、ともに死ぬと誓ったとされます。勝家や一族、家臣ら80名余りとともに自害し、城に火が放たれて焼け落ちました。お市の方の享年は37です。三人の娘(茶々・初・江)は、落城前に富永新六郎に預けられ、秀吉のもとへ届けられました。「主筋だから大切にしてほしい」という趣旨の書状が添えられていたとされます。

辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公」と伝えられます。フロイスは、勝家が離反した家臣を恨まず、最後まで付き添った家臣には生き延びることを許したと記しています。

柴田勝家の人物像をめぐる史料の読み方

同時代の記録と後世の逸話の差

勝家に関する話は、大きく二つに分かれます。一つは書状や公家の日記、宣教師の書簡など同時代の記録で確かめられる内容で、掟書黒印状の発給、本能寺の変後の動き、フロイスの評価などです。もう一つは『翁草』『常山紀談』『明智軍記』『川角太閤記』など、のちの時代に書かれた書物に載る逸話です。

「かかれ柴田」「瓶割り柴田」「知恵柴田」は、どれも後者に近い位置づけです。逸話として楽しめますが、「史実だ」と断定できる材料は限られています。

「24度の戦功」という発言

『武家事紀』には、勝家が前田利家に対し、明智光秀らが出世して口を出していると不満を述べ、自分の戦功は「およそ二十四度に及ぶ」と自負したという逸話が載ります。発言の細部は同書の記述に限られるため、勝家の自負を伝える話として紹介するにとどめます。

前田利家との対面の記録

賤ヶ岳での敗戦後、勝家が前田利長の府中城で利家と対面し、利家を責めなかったという話は、『加賀金澤前田家譜』に記されています。ただし歴史学者の高柳光寿は、この記述を前田家に都合のよいものだと批判しています。利家の離脱の真相を語る話として扱うには、慎重さが要ります。

ゆかりの地と関連する人物

勝家ゆかりの場所

  • 柴田神社(福井県福井市):北ノ庄城の本丸の推定位置にあたる神社です。柴田時代の石垣は、発掘調査で柴田神社の地下から一部が見つかったと考えられています。ただし本丸の正確な位置は特定されていません
  • 西光寺(福井県福井市):菩提寺の一つで、当時の位牌が現存するとされます
  • 幡岳寺(滋賀県高島市):菩提寺の一つで、当時の位牌が現存するとされます
  • 高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町):墓所の一つ
  • 泉龍山桃巌寺(名古屋市千種区):墓所の一つ
  • 福井城跡:1601年(慶長6年)、結城秀康が柴田氏の城跡に築いた城で、現在見られる遺構の多くは結城氏によるものです。北ノ庄は1624年(寛永元年)に「福居」、のちに「福井」へ改められました

関連する人物

  • 織田信長:主君。勝家は信長の弟・信勝に仕えた後、信長の下で重臣となりました
  • お市の方:信長の妹で、勝家の妻。ともに北ノ庄城で最期を迎えました
  • 羽柴(豊臣)秀吉:賤ヶ岳の戦いで勝家と争い、勝利した人物
  • 前田利家:賤ヶ岳の戦いの途中で戦線を離れ、北ノ庄城攻めでは秀吉軍の先鋒を務めました
  • 佐久間盛政:大岩山砦攻めを指揮した武将。のち捕らえられて斬首されました
  • 茶々・初・江:お市の方の三人の娘。それぞれ豊臣秀吉の側室、京極高次の正室、徳川秀忠の継室となりました

よくある質問

柴田勝家はなぜ「鬼柴田」と呼ばれたのですか?

武骨な性格と武勇から呼ばれたとされますが、出典は明記されていません。フロイスも、信長の時代の日本で「もっとも勇猛な武将」と評しています。

柴田勝家は何歳で、どこで亡くなりましたか?

天正11年4月24日(1583年6月14日)、越前の北ノ庄城で自害しました。享年は62とされますが、57歳・58歳とする異説もあります。

「瓶割り柴田」の話は史実ですか?

長光寺城に籠もったこと自体は元亀元年(1570年)の出来事ですが、水甕を割った話は、Wikipedia では桑田忠親の著作を典拠として載せています。一次史料で確かめられる話とは言い切れません。

柴田勝家は刀狩りを先に行ったのですか?

先駆けだとする話は、Wikipedia によれば『明智軍記』の創作で、史実ではないとされています。

前田利家はなぜ戦線を離れたのですか?

賤ヶ岳の戦いで利家の軍が突然離脱し、柴田軍は崩れました。利家が早くから秀吉の誘いに応じていたためではないかと推測されていますが、確定した理由は示されていません。