後醍醐天皇 日本史トリビア

結論:倒幕の盟友が、建武政権のわずか2年ほどで敵味方に分かれた

後醍醐天皇と足利尊氏は、1333年に鎌倉幕府を滅ぼした盟友でした。尊氏は六波羅探題を攻め落とし、後醍醐天皇は自らの名の一字「尊」を与えて、高氏を尊氏と改めさせます。

しかし1335年、中先代の乱をきっかけに尊氏が勅許なく東国へ向かったことで、二人は決裂します。後醍醐天皇は尊氏追討を命じ、1336年の湊川の戦いで尊氏が勝利。後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開き、南北朝時代が始まりました。

それでも尊氏は、後醍醐天皇の崩御後、その菩提を弔う天龍寺の造営に動いています。敵として戦った相手を弔った、というところが二人の関係の面白さです。

基本情報

  • 後醍醐天皇:1339年9月19日(延元4年8月16日)、吉野行宮で崩御
  • 足利尊氏:延文3年4月30日(1358年6月7日)に死去。1338年に征夷大将軍となり、室町幕府を開いた
  • 時代:鎌倉時代末期〜南北朝時代
  • 二人の関係の要点:倒幕で協力(1333年)→建武政権で決裂(1335年)→湊川の戦い(1336年)→南北朝の並立

後醍醐天皇と足利尊氏の関係を年表で追う:倒幕から決裂まで

隠岐から六波羅探題攻略へ:倒幕で手を組む

後醍醐天皇は1331年に京都を脱出して笠置山で挙兵しましたが(元弘の乱)、幕府に鎮圧され、1332年に隠岐島へ流されます。ところが1333年閏2月、隠岐を脱出して伯耆国の船上山で兵を挙げました。

幕府は追討軍を送り、その中に足利高氏(のちの尊氏)がいました。高氏は丹波の篠村八幡宮で幕府に背く旗を揚げ、京都へ入って、1333年5月7日に六波羅探題を攻め落とします。同じ頃、関東では新田義貞が上野国で挙兵し、5月22日に鎌倉幕府は滅亡しました。北条高時らは東勝寺で自害しています。

「高氏」から「尊氏」へ:天皇の名の一字を与えられる

京都に戻った後醍醐天皇は、元弘3年6月5日(西暦1333年7月17日)に建武の新政を始めます。尊氏は鎮守府将軍、左兵衛督に任じられ、8月5日には従三位・武蔵守となりました。この頃、天皇の諱「尊治」の一字を与えられ、高氏から尊氏に改名します。のちに参議にもなりました。

なお、改名の時期については、『太平記』が中先代の乱のころとしており、Wikipedia は記述に食い違いがあると注記しています。Wikipedia は1333年8月5日としていますが、時期には異説があります。

建武の新政の混乱と、尊氏の立場

新政は出足から混乱しました。1333年6月15日の法令で、土地の所有や訴訟には天皇の命令書である綸旨が必要とされ、武家社会の慣習はいったん無効とされます。申請が都に殺到して処理しきれず、7月には諸国平均安堵令が出され、実質的に前の法令は撤回されました。

恩賞をめぐる不満も出ました。倒幕に功のあった赤松則村は、播磨の守護職を没収されています。大内裏の造営の財源として新たな税も課され、経済は混乱したとされます。

では尊氏は新政から排除されていたのか。かつてはそう説明されましたが、これは『梅松論』の記述に基づく見方で、近年は、尊氏が鎮守府将軍として軍事指揮権を担っていたとする研究が出ています。尊氏は、政権の中枢にいた人物だったのです。

中先代の乱:尊氏が勅許なく鎌倉へ向かう

1335年7月、北条氏の残党が起こした中先代の乱で鎌倉が奪われます。尊氏は征夷大将軍を望みましたが認められず、8月2日に無断で鎌倉へ向かいました。天皇は征東将軍の号を与えています。尊氏は8月19日に鎌倉を回復しました。

ここで決定的になったのが、その後の行動です。尊氏は帰京の命令に従わず鎌倉に留まり、独自に恩賞を配り始めました。1335年11月、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏の追討を命じました。

後醍醐天皇と足利尊氏の最終決戦:湊川の戦いから南北朝へ

箱根・竹ノ下から京都攻防、九州落ち

尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで義貞を破り、京へ進みます。1336年1月に入京しますが、1月30日の戦いに敗れて篠村八幡宮へ退きました。2月11日の豊島河原の戦いでも大敗し、播磨の室津を経て九州へ下ります。途中の鞆で、光厳上皇の院宣を得ました。

多々良浜と湊川:尊氏が勝ち、正成が戦死する

九州では1336年3月2日の多々良浜の戦いで菊池武敏らを破り、態勢を立て直します。再び東へ向かった尊氏は、5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成を破りました。正成は戦死しました。6月に尊氏は京都を制圧しました。

この間の8月17日、尊氏は清水寺に、遁世を願う願文を納めています。勝ち進みながらも、出家して世を捨てたいという思いを神仏に訴えていた、という記録です。

花山院の幽閉と、吉野への脱出

後醍醐天皇は比叡山に逃れたのち、和睦に応じて京都に戻りました。1336年11月2日、神器は光明天皇に譲られます。後醍醐天皇は花山院に幽閉されましたが、そこを脱出して吉野に入り、神器は偽物だと主張して朝廷を開きました。京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ、南北朝時代の始まりです。

尊氏は11月7日に建武式目を制定して新しい武家政権の方針を示し、1338年8月11日に光明天皇から征夷大将軍に任じられて、室町幕府が成立しました。

天龍寺の造営に見る尊氏の後醍醐天皇への思い

後醍醐天皇の崩御と、寺院の造営

後醍醐天皇は延元4年8月15日(西暦1339年9月18日)に義良親王(後村上天皇)へ譲位し、翌16日(9月19日)に吉野行宮で崩御しました。その崩御に際して、禅僧の夢窓疎石が尊氏に菩提を弔う寺の建立を強く勧めた、と天龍寺の沿革は伝えます。

光厳上皇の院宣と天龍寺船

尊氏が光厳上皇に奏請し、院宣によって、後嵯峨上皇・亀山天皇ゆかりの離宮だった亀山殿を、夢窓疎石を開山とする寺に改めました。寺号は「暦応資聖禅寺」とする予定でしたが、足利直義の夢に基づいて「天龍資聖禅寺」となったとされます。造営費の調達のため、元への貿易船「天龍寺船」が仕立てられました。落慶供養は1345年です。

尊氏の伝記では、天龍寺は後醍醐天皇の菩提を弔い、怨霊を鎮めるためのものとされています。創建年は、Wikipedia の本文が1339年、情報欄が1343年とするなど、記述に揺れがあります。

ゆかりの地と関連する人物

  • 船上山(伯耆国):1333年に後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵した地
  • 篠村八幡宮(丹波):高氏が幕府に背く旗を揚げた地。1336年には京都攻防に敗れた尊氏が退いた場所でもある
  • 吉野行宮(吉野):後醍醐天皇が南朝を開き、崩御した地
  • 天龍寺(京都):尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために造営した寺
  • 楠木正成:後醍醐天皇方の武将。1336年の湊川の戦いで戦死
  • 新田義貞:鎌倉を攻め滅ぼしたのち、後醍醐天皇の命で尊氏追討の総大将となった
  • 足利直義:尊氏の弟。天龍寺の寺号にも関わった

よくある質問

尊氏の「尊」は、誰から与えられた字ですか?

後醍醐天皇の諱「尊治」の一字です。1333年8月ごろに、高氏から尊氏へ改名しました。時期には異説もあります。

二人が決裂した直接のきっかけは何ですか?

1335年の中先代の乱です。尊氏は征夷大将軍を望んで認められず、無断で鎌倉へ向かい、さらに独自に恩賞を配りました。後醍醐天皇はこれを背反とみて、追討を命じました。

尊氏は建武政権から排除されていたのですか?

かつてはそう説明されましたが、近年は、鎮守府将軍として軍事指揮権を担っていたとする研究が出ています。

なぜ尊氏は後醍醐天皇のために天龍寺を建てたのですか?

夢窓疎石の勧めで、後醍醐天皇の菩提を弔うためと伝えられます。怨霊を鎮める目的もあったとされます。