結論:『破戒』は「隠して生きる苦しみ」と「打ち明けた後の現実」を描いた、日本の自然主義文学の先駆け
『破戒』は島崎藤村の長編小説で、1906年(明治39年)3月に藤村自身の自費出版として世に出ました。主人公は、被差別部落の出身であることを父に「隠せ」と戒められて育った小学校教員の瀬川丑松です。物語は、その戒めを守り続けた丑松がついに素性を打ち明けるまでを追います。
題名の「破戒」は、まず父の戒めを破る行為を指します。ただし作中では、蓮華寺の住職も「破戒」を犯す人物として描かれます。沈黙を守る側にも、守らせる側にも、何かを踏み越える瞬間がある。この作品が読み継がれてきたのは、告白が正しい行為であっても、それだけでは問題が解決しないところまで書いているからです。
基本情報
- 作者:島崎藤村(1872年3月25日〈明治5年2月17日〉〜1943年8月22日、享年71歳)
- 時代:明治時代(作品の起稿は1905年、刊行は1906年)
- 出身地:筑摩県の馬籠村(現在の岐阜県中津川市馬籠)
- 立場:詩人・小説家。のちに日本ペンクラブの初代会長も務めた
- 代表作:『破戒』のほか、『春』『家』『新生』『夜明け前』、詩集『若菜集』
- 『破戒』の位置づけ:藤村が詩から小説へ転じた最初の長編。自然主義文学の先駆けとされる
島崎藤村『破戒』のあらすじと登場人物
主人公・瀬川丑松は何に苦しんだのか
丑松は飯山の小学校に勤める青年教師です。新しい教育観を持つ人物として、校長からは煙たがられています。彼の出自は小諸城下の被差別部落にあり、父は小諸の部落の「お頭」として知られた人物でした。一家は後に北佐久の根津村へ移り、出自を隠して牧夫として暮らします。父は丑松に、この素性を決して人に明かすなと言い聞かせました。
丑松の苦しみは、差別される恐れだけではありません。教壇に立ちながら、自分は大きな秘密を抱えている。その矛盾が、日々の暮らしの底に沈んでいます。
猪子蓮太郎という「鏡」
丑松が敬慕するのが、思想家の猪子蓮太郎です。猪子は出自を隠さず、自ら被差別部落の出身だと公言し、下層社会の現実を告発する人物で、「新平民中の獅子」として知られています。友人である市村弁護士の選挙支援のため、飯山を訪れます。
丑松は猪子に打ち明けたいと思いながら、そのたびに決心が揺れて日が過ぎていきます。公言して生きる猪子の姿は、隠して生きる自分を映す鏡になりました。やがて丑松の素性をめぐる噂が流れ、猪子は壮絶な死を遂げます。
飯山の学校と周囲の人々
丑松の周りには、さまざまな立場の人物がいます。
- 土屋銀之助:師範学校の同窓で、同じ小学校に勤める親友。闊達な性格で、夢は植物学者
- お志保:士族出身の老教師・風間敬之進の娘。貧しさのため蓮華寺に預けられており、丑松に恋慕の情を抱く
- 風間敬之進:酒びたりの生活がたたり、恩給がもらえる半年前に学校を去る。後妻との子が多く、家計は苦しい
- 校長:金牌を授与された地域の名士。新しい教育観を持つ丑松と銀之助を煙たがる
- 勝野文平:丑松の同僚の青年教師。郡視学の伯父を持ち、校長と親しい
- 高柳利三郎:新進の政治家。選挙資金のために被差別部落の富豪の娘を妻にしながら、それを世間に隠している
隠している人物が丑松ひとりではないことは、見逃せません。高柳のように出自の関係を隠す者も、蓮華寺の住職のように別の秘密を抱える者も登場します。秘密と体面で成り立つ町の姿が、群像の中から浮かびます。
結末:告白と「破戒」の意味
追い詰められた丑松は、ついに父の戒めを破って自分の素性を打ち明けます。この場面は教壇で行われ、丑松は生徒に詫びます。
その後、丑松はアメリカ・テキサスでの事業を持ちかけられ、ひとまず東京へ旅立ちます。告白したからといって差別が消えるわけではなく、丑松は町を離れる。勝利の物語として閉じないところに、この作品の苦さがあります。
『破戒』はどう生まれ、どう読まれてきたか:成立と本文の歴史
小諸での執筆と自費出版
藤村は1899年、小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、約6年を過ごしました。この時期に結婚し、創作の重心を詩から散文へ移していきます。この小諸時代に『破戒』の執筆にも取りかかります。なお、小諸一帯の千曲川を描いた写生文「千曲川のスケッチ」は1912年の刊行です。
『破戒』は小諸時代の最後にあたる1905年に起稿されます。藤村は同年に小諸義塾を辞して上京し、翌1906年3月25日、自費出版の叢書「緑蔭叢書」の第1編として刊行しました(発売元は上田屋)。初版はすぐに売り切れ、本格的な自然主義小説として高く評価されました。
夏目漱石の評価
夏目漱石は本書を高く評価しました。高浜虚子宛の書簡では「風変りで文句などを飾って居ない所と真面目で脂粉の気がない所が気に入りました」と述べ、森田草平宛の書簡では「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」と評しています。
新潮社への版権譲渡と、その後の本文
1913年、新潮社が「緑蔭叢書」の『破戒』『春』『家』の版権を高額で買い取りました。藤村はこの年に渡欧しており、渡仏の資金を工面する目的だったとみられています。藤村は1913年から1916年までパリで暮らしました。
その後の本文は、時代の動きと無関係ではありませんでした。
- 1922年:『藤村全集』第3巻に収録。藤村は詳しく訂正したとしたが、実際は語句の入れ替え程度だった
- 1929年:『現代長編小説全集』に収録。藤村は本作を「過去の物語」とした。その後、一部の組織の圧力により絶版になったという
- 1938年:水平社が『破戒』の再版を支持する決議を採択
- 1939年:『定本藤村文庫』第10篇で、藤村が一部の差別語を言い換えたり削除したりした。部落解放全国委員会は、呼び方を変えても差別は変わらないと批判した
- 1953年:筑摩書房の『現代日本文学全集』が初版を底本とした本文を収録。委員会は、部落問題に悩む人々への配慮が欠けていると指摘し、声明を出した
- 1954年:新潮文庫版が刊行され、1971年の第59刷から初版本を底本に切り替えた
差別語と向き合う読み方
差別を主題にした作品である以上、本文には当時の差別的な呼称が出てきます。言い換えや削除をめぐる議論が戦後まで続いたことは、上の経緯が示すとおりです。言葉を直せば問題が消えるのか、それとも当時の言葉をそのまま読むことで見えるものがあるのか。この問いは、作品が刊行されてから1世紀以上たった今も読者に残されています。
読むときは、背景の解説が添えられた版を選ぶのも一つの方法です。つらい場面は区切って休みながら読んでかまいません。
モデルと映像化
丑松のモデルを兵庫県の中学校長だった大江礒吉とする見方があり、土屋銀之助のモデルは伊藤長七とされています。構成は『罪と罰』に似ていると言われてきましたが、十川信介はジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』との関連を指摘しています。
映画は何度も作られました。1948年の木下惠介監督版は、部落問題よりも丑松とお志保の恋愛を中心に描いています。1962年の市川崑監督版(市川雷蔵主演)は、原作にない猪子の家をめぐる主題を加えました。2022年には前田和男監督、間宮祥太朗主演で、全国水平社創立100周年記念映画として製作されています。同じ原作でも、どこに焦点を置くかで作品の顔が変わることがわかります。
住井すゑの『橋のない川』には、丑松が生徒に詫びる場面が取り上げられています。『破戒』が後の文学の中でも議論され続けてきた例です。
藤村のその後と『破戒』から広がる作品
その後の主な作品
藤村は『破戒』のあと、『春』(1908年)、『家』(1910〜11年)、『新生』(1918〜1919年)、『嵐』(1926年)と小説を書き継ぎました。1929年から1935年にかけて発表した歴史小説『夜明け前』は、父・島崎正樹をモデルにしたもので、主人公の青山半蔵は父がモデルです。のちに日本ペンクラブの初代会長に就きました。
家族の不幸と『新生』
藤村の私生活は、作品に深く影を落としました。前妻の秦冬子は1910年に亡くなり、幼い娘3人は栄養失調で相次いで亡くなっています。姪の島崎こま子との関係は、作品『新生』の背景として記されています。こうした経験が、自分の内面や秘密をどう語るかという後年の主題につながったと読むこともできます(これは筆者の見方で、資料に書かれた結論ではありません)。
最期
藤村は1943年8月22日、神奈川県大磯町の自宅で脳溢血のため亡くなりました。最期の言葉は「涼しい風だね」とされています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 藤村記念館(岐阜県中津川市馬籠):1952年開館。生誕の地・馬籠にある
- 小諸市立藤村記念館(長野県小諸市):1958年、懐古園内に設置。『破戒』を書き始めた小諸時代にゆかりが深い
- 旧島崎藤村住宅「静の草屋」(神奈川県大磯町):大磯町指定有形文化財として公開されている
- 地福寺(大磯町):藤村が埋葬されている寺
- 永昌寺(馬籠):島崎家の菩提寺で、遺髪と遺爪の一部を納めた墓碑がある
関連する人物
- 夏目漱石:『破戒』を高く評価した
- 島崎正樹:藤村の父。『夜明け前』の青山半蔵のモデル
- 住井すゑ:『橋のない川』で『破戒』の場面を取り上げた作家
よくある質問
『破戒』はいつ、どのように出版されたのですか?
1906年3月25日、自費出版の叢書「緑蔭叢書」の第1編として刊行されました。発売元は上田屋で、初版はすぐに売り切れたとされています。
題名の「破戒」とは何を指しますか?
中心は、丑松が父の戒めを破って素性を打ち明けることです。作中には蓮華寺の住職が「破戒」を犯す場面もあり、戒めを破る行為は一つに限られません。
『破戒』の結末はどうなりますか?
丑松は教壇で生徒に素性を明かして詫び、その後、アメリカ・テキサスでの事業を持ちかけられ、ひとまず東京へ旅立ちます。
なぜ本文の言葉が何度も改められたのですか?
作品に差別的な呼称が含まれるためです。1939年には藤村自身が一部を言い換えたり削除したりし、部落解放全国委員会から批判されました。戦後は初版を底本とする版が出され、新潮文庫も1971年の第59刷から初版本を底本にしています。





