尾形光琳 日本史トリビア

結論:紅白梅図屏風は光琳の最晩年の国宝。金地と水流の技法には、いまも説の分かれる謎が残る

「紅白梅図屏風」は、江戸時代の絵師・尾形光琳(1658〜1716)が最晩年に描いたと考えられている国宝の二曲一双の屏風で、静岡県熱海市のMOA美術館が所蔵しています。金地の画面の中央に水流を置き、左右に紅梅と白梅を向かい合わせた大胆な構図が知られています。

この作品の謎は大きく三つあります。ひとつは、背景の金地が金箔なのか金泥なのか。ふたつめは、水流の黒がどう作られたのか。みっつめは、いま白梅に見える木がもとは何色だったのか、です。金地については、2003〜2004年の蛍光X線調査では金泥の可能性が指摘され、2011年のX線回折調査では金箔を貼ったという結論が出ました。制作技法については、現在も議論が続いています。

基本情報

  • 作品名:紅白梅図屏風(「紅白梅図」とも呼ばれる)
  • 作者:尾形光琳(万治元年・1658年生まれ、享保元年・1716年没)
  • 時代:江戸時代
  • 形式:二曲一双の屏風、紙本金地著色
  • 寸法:156.0cm×172.2cm
  • 指定:国宝
  • 所蔵:MOA美術館(静岡県熱海市)
  • 制作時期:光琳の最晩年の作と考えられている
  • 主な謎:金地は金箔か金泥か/水流の黒の作り方/白梅の本来の色

紅白梅図屏風の謎を読む:作者・構図・来歴

光琳はどんな人物か:呉服商の次男から絵師へ

光琳は、京都の呉服商「雁金屋」の次男として生まれました。父は尾形宗謙です。雁金屋は高台院や徳川家康らを顧客とし、宗柏の時代には東福門院の用も務めるようになった店でした。ところが、東福門院が亡くなった延宝6年(1678年)や、大名への貸し付けの貸し倒れなどで経営が傾きます。宗謙が亡くなった貞享4年(1687年)のあと、家業を継いだのは兄の藤三郎でした。

光琳自身は遊興で相続した財産を使い果たし、陶工として知られる乾山からも借金をしたとされています。絵に本格的に取り組んだのは、この経済的な困窮が一因だったと考えられています。史料で「光琳」の名が確認できるのは、35歳の元禄5年(1692年)です。44歳の元禄14年(1701年)には法橋の位を得ました。二条綱平の推挙によるものと推測されています。

宝永元年(1704年)ごろには中村内蔵助を頼って江戸へ下り、約5年を過ごします。江戸では姫路藩主・酒井家から扶持を得ていました。宝永6年(1709年)に京都へ戻り、正徳元年(1711年)には京都の新町通り二条下ルに新居を構えています。紅白梅図屏風は、この晩年の時期の作とされ、2階の画室で描かれたと推定されています。

中央の水流を挟んで向き合う、紅梅と白梅

画面は、流れを挟んで紅梅と白梅が向かい合う構図です。金地に対して流れの部分を銀地とし、紅白の梅を左右に配しています。展覧会の解説では、中央の水流を隔てて紅白の梅の木が向き合う、緊張感のある構図と紹介されています。梅の花も水流も、写生というより意匠性の強い表現で描かれています。

画面は二曲一双、つまり二枚折りの屏風が二つで一組になる形式で、寸法は156.0cm×172.2cmです。紙本金地著色、つまり紙に金地を作り、彩色した作品です。

津軽家から岡田茂吉へ:来歴と初の館外貸出

この屏風は、江戸時代には津軽家の江戸藩邸に伝わっていました。1950年代に岡田茂吉が入手し、その後、MOA美術館の所蔵となりました。

2012年には、東日本大震災の被災地を支援する目的で、初めて館外に貸し出されました。3月6日から25日まで、仙台市博物館で展示されています。作品は、1969年発行の国宝シリーズ特殊切手(15円)と、2020年の切手趣味週間の84円切手にも図柄として採用されました。

金地は金箔か金泥か:科学調査が示した二つの答え

2003〜2004年の蛍光X線調査:金泥説

背景の金色は、金の薄い板を貼った「金箔」なのか、金の粉を膠で溶いた絵具のような「金泥」で塗ったのか。この問いに科学の目が向けられたのは、2003年から翌年にかけてです。東京文化財研究所が蛍光X線で調べ、金箔ではなく金泥で描かれていた可能性を指摘しました。さらに、金箔を貼ったときにできる継ぎ目の線(箔足)まで、絵筆で描き込まれていたかもしれないという見方も示されました。

もしそうなら、光琳は金箔を貼ったように見える画面を、金泥と筆の技で作り出したことになります。

2011年のX線回折調査:金箔説

これに対し、2011年にMOA美術館などが行ったX線回折法による再調査では、金箔を貼ったものという結論が出ました。同じ画面を調べながら、二つの調査で異なる答えが出たことになります。

金泥説と金箔説の結論は食い違ったままです。金地の制作技法については、いまも議論が続いています。ここは「どちらが正しいか」を断定できない部分で、断定的に書いた解説があれば、情報の古さや出どころに注意が必要です。

水流の黒と白梅の色:まだ残る謎と、確かな部分

銀を黒くした水流:硫黄をまぶす技法

中央の水流について、確かな点がひとつあります。銀地に金泥を塗り、その上に硫黄をまぶして、銀を黒く変色させる技法が使われているとされます。銀は硫黄と反応すると黒ずみます。金色の画面の中で、水流が黒く沈んで見えるのは、この変色が関わっています。

再現実験が示した「青く見えた水流」の可能性

水流の色をめぐっては、画家で研究者の森山知己による再現実験があります。銀箔と、防染剤のドーサ、そして硫黄を使い、実物大の再現を試みた実験です。ドーサを施した部分は硫化を免れ、群青色や玉虫色の発色が見られました。この結果から、かつては水流の一部が青く見えていた可能性が示されています。

また、ドーサの効力が失われる「ドーサ抜け」によって、意図しない黒変が起きた可能性も検討されています。いま見ている黒が、光琳の狙った色のすべてだったとは限らない、という点が面白いところです。この実験の成果は、2012年に本人のウェブサイトで公開されました。

白梅はもとは桃色だった:褪色の指摘

もうひとつ見逃せないのが、梅の色です。現在は白梅と認識されている梅は、本来は桃色だったと指摘されています。有機染料で描かれていたため、時間とともに色が褪せたとされます。「紅梅と白梅」という呼び名は、いまの見え方に基づくものです。

水流の色も梅の色も、制作当初から姿が変わっている可能性があるわけです。作品を見るときは、「いま見えている色が、描かれたときの色とは限らない」と頭に置いておくと、見え方が少し変わります。

ゆかりの地と関連する人物

MOA美術館(静岡県熱海市)

屏風を所蔵するMOA美術館は、静岡県熱海市桃山町にあります。2024年11月1日から26日には、国宝「紅白梅図屏風」と、東京国立博物館が所蔵する重要文化財「風神雷神図屏風」を同時に展示する展覧会が開かれました。作品保護のため、展示は期間が限られます。見に行く場合は、公開時期を美術館の公式発表で確かめてください。

妙顕寺塔頭・泉妙院(京都市)

光琳・乾山の菩提所の石碑が、京都市の妙顕寺塔頭・泉妙院にあります。

関連する人物

  • 俵屋宗達:光琳が学ぶ意識を強く持っていた絵師(直接の師弟関係はない)。光琳の「風神雷神図屏風」は、宗達の作品を忠実に写して描いたものです。
  • 尾形乾山:陶工。光琳は乾山が作った陶器に絵付けも手がけました。
  • 酒井家(姫路藩):江戸に下った光琳に扶持を与えた大名家です。

よくある質問

紅白梅図屏風は誰が描いたのですか?

江戸時代の絵師・尾形光琳です。光琳の最晩年の作と考えられており、国宝に指定されています。

どこで見られますか?

静岡県熱海市のMOA美術館が所蔵しています。展示は期間が限られるので、公開時期は美術館の公式発表で確認してください。

背景の金色は金箔ですか?

決着はついていません。2003〜2004年の蛍光X線調査では金泥の可能性が、2011年のX線回折調査では金箔を貼ったという結論が出ています。

水流はなぜ黒いのですか?

銀地に金泥を塗り、その上に硫黄をまぶして、銀を黒く変色させる技法が使われているとされます。再現実験では、かつて一部が青く見えた可能性も示されました。

白梅はもともと白かったのですか?

現在白梅に見える梅は、本来は桃色だったと指摘されています。有機染料で描かれていたため褪色したとされます。