結論:太田道灌は、江戸城を築いて主家を支え、歌も詠んだ室町時代の武将
太田道灌(諱は資長)は、1432年(永享4年)に生まれ、1486年8月25日(文明18年7月26日)に55歳で亡くなった武将です。関東の有力者である扇谷上杉氏の家宰(家政と軍事を取り仕切る重臣)として、長尾景春の乱をはじめ、享徳の乱の戦いを主導しました。
長禄元年(1457年)には江戸城を築いたと伝わります。一方で、易学や兵法に通じ、歌人とも交流して歌合を催した文化人でもありました。最期は、主君の上杉定正に招かれた糟屋館(現在の伊勢原市)で襲われ、命を落としました。
「山吹の花」の逸話は有名ですが、史料の初出は江戸時代中期で、事実かどうかは分かっていません。この記事では、確かめられる生涯と、後世に語られた話を分けて見ていきます。
基本情報
- 名:諱は資長(初名は持資)。幼名は鶴千代、通称は源六・源六郎。出家後に道灌を名乗った
- 生没年:永享4年(1432年)生、文明18年7月26日(1486年8月25日)没、享年55
- 時代:室町時代(享徳の乱の時代)
- 立場:武蔵守護代、扇谷上杉氏の家宰。摂津源氏流の太田氏の当主
- 官位:正五位下・備中守。のちに従三位を贈られた
- 主君:上杉持朝、上杉政真、上杉定正の三代
- 主な業績:江戸城・河越城の築城、長尾景春の乱の鎮圧、『武州江戸二十四番歌合』の開催
- 墓所:伊勢原市の大慈寺(首塚)、洞昌院(胴塚)など
太田道灌とはどのような武将か?生涯を年代順に追う
生い立ちと太田家の役割
父は太田資清(のちの道真)、母は長尾景仲の娘です。太田氏は、扇谷上杉持朝を補佐する家でした。道灌は鎌倉五山(建長寺とする説がある)で学び、足利学校でも学んだとされます。文安3年(1446年)に元服して資長を名乗り、康正2年(1456年)に父から家督を譲られました。
この時代の関東は、古河公方の足利成氏と、関東管領の上杉方が争う享徳の乱の最中でした。道灌は、その上杉方の中心になる扇谷上杉氏の家宰として、戦いに関わっていきます。
江戸城の築城と都市の原点
康正2年から長禄元年(1457年)にかけて、道灌は河越城と江戸城を築きました。江戸城は、荏原郡の桜田郷(豊嶋郡の江戸郷の西に接する)の、麹町台地の東端に築かれたものです。それまで品川の近くに構えていた居館から、長禄元年4月8日(1457年5月1日)に移ったと伝えられます。
築城にまつわる霊夢や、魚の吉兆の話は、江戸氏を退去させるための口実だったとする説もあります。また、道灌は江戸城の周辺に日枝神社、築土神社、平河天満宮を勧請したとされています。皇居には、いまも「道灌濠」の名が残ります。
享徳の乱と主家の代替わり
文正元年(1466年)に関東管領の上杉房顕が亡くなると、武蔵の五十子(現在の本庄市)の陣が、古河公方と対峙する拠点になります。応仁元年(1467年)には主君の持朝が亡くなり、孫の政真が継ぎました。
文明5年(1473年)、五十子の陣が強襲されて政真が討死すると、道灌ら重臣の協議によって、政真の叔父にあたる定正が家督を継ぎました。道灌の名が史料に初めて出るのは文明6年6月の歌合の記事で、出家して道灌を名乗ったのはこの頃とされます。
1486年の最期
文明18年7月26日(1486年8月25日)、道灌は定正の糟屋館に招かれました。『太田資武状』によれば、入浴後に曽我兵庫に襲われ、「当方滅亡」と言い残して亡くなったと伝わります。
動機については、道灌の功を誇る態度に主君が反感を抱いたとされるほか、定正が自分の意思で行ったという説と、山内顕定の策謀に乗ったという説があり、決着していません。道灌の死後は、扇谷家の国人や地侍の多くが山内家に移り、翌年には両上杉氏が争う長享の乱が始まりました。
太田道灌とは歌道を愛する文化人?山吹伝説の真偽と文武両道
山吹伝説は事実か
鷹狩りの途中で雨にあった道灌が、蓑を借りようと農家に寄ると、娘が黙って山吹の花を差し出した。意味が分からずに帰ったが、のちにそれが兼明親王の歌にかけた意味だと知り、歌道に励むようになった、という話です。
この話の初出は江戸中期の『常山紀談』で、『太田家記』には見えません。伝説の舞台とされる場所も、豊島区高田、新宿区、荒川区三河島、横浜市六浦、埼玉県越生町など複数あり、どれが本当か分かっていません。道灌の人物像を伝える物語としては広まりましたが、史実として扱うことはできません。
連歌・歌合に残る足跡
道灌が歌に通じていたことは、別の面からも確かめられます。飛鳥井雅親や万里集九といった人々と交流し、連歌師の心敬を招いて、品川で連歌会(品川千句)を催しました。文明6年(1474年)には江戸城で歌合を行い、『武州江戸二十四番歌合』が残っています。
学問と兵法
道灌は易学や、中国の兵書である武経七書にも通じていたとされます。兵法は「足軽軍法」と呼ばれましたが、実際にどういうものだったかは分かっていません。後世の「足軽を組織した画期的な軍制」といった説明は、この点で慎重に読む必要があります。
臨終の歌の話
刺客に上の句を詠まれ、下の句で応じたという臨終の歌の話も伝わり、新渡戸稲造の『武士道』でも紹介されています。ただし、これも後世に伝わった話の一つです。
長尾景春の乱での戦いぶりと、評価の理由
乱のきっかけ
文明5年(1473年)に長尾景信が亡くなり、子の景春が家督を継ぎました。しかし、関東管領の山内顕定は、家宰の職を景春ではなく長尾忠景に与えます。景春はこれを恨み、文明9年(1477年)に五十子の陣を急襲して、上杉方は大敗しました。
各地での勝利
五十子の陣が崩れたあと、立て直しの中心になったのが道灌です。同年のうちに溝呂木城と小磯城を攻略し、江古田・沼袋原の戦いで豊島泰経・泰明の兄弟を破り、石神井城も落としました。5月には用土原の戦いで景春を破っています。ただし、上野国の塩売原の戦いでは決着がつきませんでした。
文明10年(1478年)には小机城を攻略して豊島氏を滅ぼし、12月には境根原の合戦で千葉孝胤を破ります。翌年、甥の太田資忠が房総に出兵しましたが、臼井城の攻略中に戦死しました。文明12年(1480年)に景春の最後の拠点である日野城を攻め落とし、景春は没落します。文明14年(1482年)に「都鄙和睦」が成立して、享徳の乱は終わりました。
旧来の説明で言われる「100回近い合戦で無敗」といった数字は、確かめられる資料が見つからなかったため、ここでは扱いません。
『太田道灌状』に見る自負
道灌は『太田道灌状』の中で、山内家が武蔵・上野を支配できているのは自分の功によると述べています。この自信が、主君の定正に反感を持たれた背景とされます。
後世の評価
道灌は、武将としても学者としても一流と評されてきました。ほとんど独力で上杉氏の危機を救ったとも言われます。
ゆかりの地と関連する人物
墓所と供養の地
- 大慈寺(伊勢原市):首塚がある
- 洞昌院(伊勢原市):胴塚がある
- 龍穏寺(越生町):分骨したと伝わる墓がある
- 英勝寺の裏山(鎌倉市):首塚と伝わる供養塔がある
築城・地名・像
- 江戸城(現在の皇居):「道灌濠」の名が残る
- 道灌山(荒川区)、道灌坂(横浜市鶴見区):道灌の名にちなむ地名
- 銅像:日暮里駅前(荒川区)、東京国際フォーラム、川越市、さいたま市岩槻区、伊勢原市役所前などにある
関連する人物
- 上杉定正:最後の主君。道灌が襲われた糟屋館の主
- 長尾景春:道灌が鎮圧した乱の中心人物
- 太田資康:嫡男。和議の人質として、古河公方の成氏のもとに預けられていた
- 心敬:道灌が招いた連歌師
家のその後
道灌の死後に家督を継いだのは、一般には資康とされます。ただし、一次史料では養子の六郎右衛門尉が継いだとされ、その系統は早く途絶えたとされます。最終的には、資康の曾孫とされる重正の系統が掛川藩の大名として続き、明治維新まで家を保ちました。
よくある質問
太田道灌は何をした人ですか?
扇谷上杉氏の家宰として、享徳の乱で戦った武将です。江戸城と河越城を築き、長尾景春の乱を鎮めました。歌合も催した文化人でもあります。
太田道灌はどのように亡くなりましたか?
文明18年7月26日(1486年8月25日)、主君・上杉定正の糟屋館に招かれ、入浴後に曽我兵庫に襲われて亡くなりました。享年55です。動機には、定正が自発的に行ったという説と、山内顕定の策謀に乗ったという説があります。
山吹の逸話は本当ですか?
史実かどうかは分かりません。初出は江戸中期の『常山紀談』で、『太田家記』には見えず、伝説の地も複数あります。
江戸城を築いたのは本当ですか?
康正2年から長禄元年(1457年)にかけて、道灌が築いたと伝わります。品川の近くの居館から、1457年5月1日(長禄元年4月8日)に移ったとされます。
太田道灌の家は、その後どうなりましたか?
一次史料で家督を継いだとされる養子の系統は、早く途絶えたとされます。一方、資康の曾孫とされる重正の系統は、掛川藩の大名として明治維新まで続きました。




