加藤高明

結論:普通選挙法を成立させた首相。ただし同じ年に治安維持法も成立させ、外相時代には21カ条要求を主導した

加藤高明(かとう たかあき)は、1924年(大正13年)6月に護憲三派の内閣を率いて第24代の首相となった政治家です。在任中の1925年に普通選挙法が成立し、納税額による制限がなくなって、満25歳以上の男子に選挙権が与えられました。

一方で、同じ1925年に治安維持法も成立しています。さらに、首相になる前の外務大臣時代には、中国に対する「対華21カ条の要求」を主導しました。民主化を進めた人物という面と、強硬な外交を進めた人物という面の両方があり、評価が分かれます。

首相のまま1926年1月28日に66歳で亡くなりました。この記事では、よく語られる「普選と治安維持法は引き換えだったのか」「三菱の大番頭だったのか」といった話を、確かめられる史実の範囲で整理します。

基本情報

  • 生没年:1860年1月25日(安政7年)〜1926年1月28日(大正15年)、享年66
  • 時代:明治〜大正時代
  • 出身:尾張国海東郡佐屋(現在の愛知県愛西市)。尾張藩の下級藩士の次男として生まれた
  • 立場:外務大臣、立憲同志会の総理、憲政会の初代総裁、第24代内閣総理大臣
  • 主な業績:普通選挙法の成立、日ソ基本条約によるソ連との国交樹立、宇垣軍縮の時期の内閣。外相時代には第一次世界大戦への参戦と対華21カ条の要求を主導
  • 死去の場所:東京府麹町区下六番町(現在の東京都千代田区六番町)
  • 墓所:青山霊園

加藤高明とは?首相になるまでの歩みと護憲三派内閣

東大首席から三菱へ、そして官界・外交の道へ

加藤は1872年に加藤家の養子となり、1874年に高明と名乗りました。東京外国語学校を経て東京大学法学部に進み、1881年7月に首席で卒業して法学士になっています。

卒業後は三菱に入り、イギリスに渡りました。帰国後は三菱本社の副支配人を務め、1886年には三菱の創業者・岩崎弥太郎の長女・春路と結婚します。その翌年の1887年に官界に入り、大隈重信外相の秘書官兼政務課長や駐英公使を務めました。

1900年には第4次伊藤博文内閣の外務大臣に就任し、日英同盟の推進に力を尽くしました。その後も第1次西園寺内閣と第3次桂内閣で外相を務めています。

政党政治家への転身と「苦節十年」

1913年、桂太郎が主導した立憲同志会の結成に加わり、同会の総理に選ばれました。1914年からは第2次大隈内閣の外相を務め、1916年に憲政会が結成されると初代総裁に就きます。

憲政会が政権の外にいた長い期間は「苦節十年」と呼ばれました。1922年には後継首相の選考をめぐって加藤友三郎内閣が成立し、政権獲得はさらに1924年まで遠のきました。

第2次護憲運動と護憲三派内閣

1924年1月に清浦奎吾内閣が発足すると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部は「護憲三派」を結び、清浦内閣の打倒と政党内閣の確立で合意します。清浦内閣は衆議院を解散しましたが、5月10日の総選挙で護憲三派は286議席を獲得し、清浦内閣を支えた政友本党の111議席を上回りました。

こうして1924年6月11日、加藤が護憲三派の内閣を率いて首相になります。東京帝国大学出身の首相としては初めてでした。この内閣以降、衆議院の多数党が内閣を組織する慣行が7代にわたって続き、「憲政の常道」と呼ばれます。

なお、横田千之助司法相の急死後に護憲三派は崩れ、1925年8月2日からは憲政会だけの内閣として政権が続きました。この内閣は「第2次加藤内閣」とみなすほうが合理的だという見方も、Wikipedia の注釈で紹介されています。

普通選挙法と治安維持法は引き換えだったのか?1925年の2つの法律

普通選挙法で何が変わったのか

普通選挙法は、正式には衆議院議員選挙法の全部改正で、1925年3月29日に成立し、5月5日に公布されました。納税の要件がなくなり、日本国籍をもち内地に住む満25歳以上の男子に選挙権が与えられました。女性は対象外でした。

有権者は、1920年5月時点で約307万人(人口の約5.5%)でしたが、1928年3月には約1240万人(約20.1%)になり、約4倍に増えています。この法律による最初の総選挙は、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で、定数466、1つの選挙区から3〜5人を選ぶ中選挙区制でした。

成立までには貴族院との調整が難航しました。衆議院が議員になれない人の規定を削除したのに対し、貴族院はこれを復活させて範囲を広げ、両院協議会を経て3月26日に貴族院が修正可決、3月29日に双方が妥協案を可決しています。

治安維持法の中身

治安維持法は、普通選挙法の成立から少し前の1925年3月19日に成立し、4月22日に公布、5月12日に施行されました。条文は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」という内容です。

この時点の法律では、前身の過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除されていました。その後、1928年6月に緊急勅令で改正され、「国体変革」と「私有財産制度の否認」が別々の構成要件に分けられ、国体変革の最高刑は死刑になっています。1941年には全面改正されました。

「飴と鞭」の交換条件説をどう見るか

2つの法律がほぼ同時に成立したため、「飴と鞭」にたとえられます。普通選挙法のページには、枢密院の圧力により普通選挙法と治安維持法が交換条件のような形になったという説が「一説」として紹介されていますが、確定した事実としては書かれていません。

また、治安維持法の制定を押し進めた人物として、横田千之助の急逝後に司法大臣を引き継いだ小川平吉の名前が挙がっています。加藤個人がどこまで主導したのかは、ここで確かめた資料からは言い切れません。確かなのは、加藤内閣の下で両方の法律が成立したこと、そして治安維持法が、人権侵害や言論・結社の自由の制限という観点から、歴史学・法学の研究で批判的に評価されていることです。

対華21カ条の要求と「三菱の大番頭」説・外交の評価

対華21カ条の要求とは

1914年12月3日、外相だった加藤は駐華公使の日置益に要求の訓令を出しました。1915年1月18日、大隈内閣は中国の袁世凱政権に要求を示します。全体は5つの号、21か条で、内容は次のとおりです。

  • 第1号:山東省に関する4項目
  • 第2号:南満洲および東部内蒙古に関する7項目
  • 第3号:漢冶萍公司に関する2項目
  • 第4号:中国の領土保全に関する1項目
  • 第5号:日本人顧問の雇用などを含む7項目。秘密・希望条項とされた

交渉は難航し、日本は5月7日に13か条へ削減した案を最後通牒の形で示し、期限を5月9日としました。第5号はこの最終案から外れ、のちに日本は撤回しています。袁政権は5月9日に受諾し、5月25日に2つの条約と13の交換公文が結ばれました。中国の人々は、受諾の日の5月9日を「国恥記念日」と呼びました。

のちに加藤は、最後通牒が袁世凱の面子を立てるために袁側から求められたものだったと認めたとされています。

「三菱の大番頭」だったという見方

加藤は岩崎弥太郎の長女・春路と結婚しており、三菱との縁は深いものでした。ただ、確かめられる資料にあるのは、三菱に勤めたことと姻戚関係までです。三菱の利益のために政策を動かしたかどうかは、今回確かめた Wikipedia や公的なページからは裏づけられません。政敵からは「三菱の大番頭」と皮肉られたとされますが、これはそう評されたという話として受け止めるにとどめます。

家族関係をたどると、義弟には木内重四郎と、のちに外相になる幣原喜重郎がいます。長女の悦子は岡部長景の妻、次男の厚太郎は三菱系の東明火災海上保険の取締役などを務めました。長男は早くに亡くなっています。

日ソ基本条約と宇垣軍縮

首相としての外交では、1925年1月20日に北京で日ソ基本条約が結ばれ、2月25日に批准・発効しました。日ソ間で初の二国間条約で、外交・領事関係の確立、内政への相互不干渉、ポーツマス条約の有効性の再確認などを定めています。交渉の代表は日本側が芳澤謙吉、ソ連側がレフ・カラハンでした。議定書には、日本軍の北樺太撤退の期限や、北樺太の石油利権に関する規定も含まれていました。

軍事面では、1925年5月に陸軍大臣の宇垣一成の主導で「宇垣軍縮」が行われました。高田・豊橋・岡山・久留米の4個師団が廃止され、約3万4千人の将兵と軍馬6千頭が削減されています。浮いた予算は、戦車連隊や各種軍学校の新設など、旧式だった陸軍の近代化に充てられました。ただし、山梨軍縮と合わせても、陸軍省予算の削減は軍縮前と比べて1割ほどだったとされます。この内閣では、陸軍現役将校学校配属令の公布と、中等学校以上での学校教練の創設も行われました。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 愛知県愛西市(旧・尾張国海東郡佐屋):生誕地
  • 名古屋市の鶴舞公園:加藤の銅像が建てられたが、太平洋戦争中の金属供出で撤去され、現在は台座だけが残るとされる
  • 青山霊園(東京都港区):墓所

関連する人物

  • 岩崎弥太郎:三菱の創業者で、長女の春路が加藤の妻
  • 幣原喜重郎:義弟。のちに外相を務める
  • 岡部長景:長女・悦子の夫(娘婿)
  • 宇垣一成:加藤内閣の陸軍大臣。宇垣軍縮を主導
  • 若槻礼次郎:加藤の死後、首相を継いだ
  • 西園寺公望:加藤を、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文と並べて「一角の人物」と評したと伝えられる

よくある質問

加藤高明は何をした人ですか?

護憲三派内閣を率いた第24代首相で、在任中に普通選挙法が成立しました。外相時代には、第一次世界大戦への参戦と対華21カ条の要求を主導しています。

普通選挙法で誰が選挙権を得ましたか?

納税要件がなくなり、満25歳以上の男子に選挙権が認められました。女性は対象外です。有権者は約307万人(1920年)から約1240万人(1928年)へと約4倍になりました。

治安維持法は普通選挙法と引き換えに作られたのですか?

2つの法律はほぼ同時期に成立し、「飴と鞭」にたとえられます。枢密院の圧力による交換条件説も一説として紹介されていますが、確定した事実とはされていません。

加藤高明の死因は何ですか?

1926年1月22日に帝国議会で倒れ、肺炎をこじらせて、6日後の1月28日に66歳で亡くなりました。首相在任中の死去で、没時に伯爵となり、大勲位菊花大綬章も授けられています。

対華21カ条の要求は、結局どうなりましたか?

日本は5月7日に第5号を除く13か条の最後通牒を示し、中国側は5月9日に受諾しました。第5号は後に日本が撤回しています。