上杉景勝

結論:謙信の跡を継ぎ、減封されても上杉家を残した大名

上杉景勝(うえすぎ かげかつ)は、上杉謙信の養子となって家督を継いだ戦国大名です。謙信の死後に起きた家督争い「御館の乱」に勝ち、のちに豊臣秀吉に臣従して五大老の一人に数えられました。

関ヶ原の戦いの後は会津120万石から米沢30万石に減らされましたが、上杉家は改易を免れ、景勝は米沢藩の初代藩主として1623年に亡くなりました。「ほとんど笑わない」という逸話で知られますが、その生涯は、家を守るための判断の連続でした。

基本情報

  • 生没年:弘治元年11月27日(1556年1月8日)〜元和9年3月20日(1623年4月19日)、享年69(Wikipedia には本文中で生年を1555年とする記述もあり、資料で食い違っている)
  • 時代:戦国時代〜安土桃山時代〜江戸時代初期
  • 出自:上田長尾氏の当主・長尾政景の次男。幼名は卯松、のち顕景。上杉謙信の養子となって景勝と名乗った
  • 立場:越後の戦国大名、豊臣政権の大名(五大老に数えられる)、出羽米沢藩の初代藩主
  • 主な出来事:御館の乱(1578〜79年)、豊臣秀吉への臣従(1586年)、会津移封(1598年)、慶長出羽合戦(1600年)、米沢減封(1601年)
  • 墓所など:遺骨は高野山の清浄心院、遺灰と衣冠は米沢の上杉家廟所に納められた

上杉景勝の生涯:謙信の養子から御館の乱、そして豊臣政権へ

謙信の養子に:上杉景勝の生まれ

景勝は、上田長尾氏の長尾政景の次男として生まれました。母は仙洞院(仙桃院とも書かれます)です。1564年(永禄7年)に父の政景が溺死すると、景勝は春日山城に入り、謙信の養子になりました。初陣は、1566年(永禄9年)の謙信の関東出兵とされています。

1575年(天正3年)には、謙信から弾正少弼の官途を譲られました。同じ年の『上杉家軍役帳』では、景勝は375人の軍役を負い、上杉一門衆の筆頭に記されています。謙信が後継者として扱っていたことは、この記録からも読み取れます。

御館の乱:景虎との家督争い

天正6年(1578年)3月13日、謙信が春日山城で亡くなりました。記録には「卒中」とありますが、死因には諸説があります。後継者をめぐって景勝と対立したのが、もう一人の養子・上杉景虎です。

景勝は春日山城の本丸に入って金蔵と兵器蔵を押さえ、3月24日付の書状で自分が後継者になったと宣言しました。景虎は三の丸にこもり、5月13日には城下の御館に移って、北条氏政に救援を求めています。景虎方による春日山城への攻撃は5月17日と22日の二度ありましたが、どちらも退けられました。

戦いの流れを動かしたのが武田勝頼です。越後に出兵した勝頼と景勝方の間で、6月には和議が成立しています(甲越同盟)。勝頼はその後、景勝と景虎の間を調停しましたが和平は破れ、8月28日に撤兵しています。のちに景勝は勝頼と縁組を結びました。

天正7年(1579年)3月、御館は放火されて落城し、景虎は逃れる途中で鮫ヶ尾城に寄ったところを、寝返った城主の堀江宗親に攻められ、3月24日に自害しました。

乱の後遺症:新発田重家の反乱と織田軍の圧力

勝ったあとの上杉家は、安泰ではありませんでした。恩賞が景勝の出身である上田衆に偏ったため、家中に対立が生まれ、安田顕元らが殺害され、新発田重家が離反しました。重家を鎮めるのに約7年かかっています。軍事力と威信が落ちたところへ、柴田勝家や蘆名氏の侵攻も受けました。

1582年には織田軍が越中を制圧し、魚津城が落城します。景勝は織田信長と敵対して追い詰められましたが、本能寺の変で織田軍が引き、危機を脱しました。1583年2月には、秀吉の仲介で織田政権と和睦しています。ただし同じ年の放生橋の戦いでは、新発田重家に大敗しました。

豊臣秀吉への臣従と越後の再統一

1586年(天正14年)、景勝は上洛して秀吉に臣従し、養子の畠山義真を人質に出しました。翌1587年には新発田重家を討ち、越後をほぼ再統一します。1588年には十五里ヶ原の戦いで最上軍に勝って庄内三郡を得て、従三位・参議に叙任され、豊臣姓と羽柴の名字を与えられました。1589年には佐渡の本間氏を討って佐渡を平定しています。

その後は、1590年の小田原征伐に出兵し、1592年(文禄元年)の朝鮮出兵では5,000人を率いて名護屋に駐屯しました。1595年(文禄4年)には越後・佐渡の金銀山の支配を任され、このころの上杉領の年貢高は91万石余とされます。景勝は五大老の一人にも数えられています。

※年号・日付は日本語版 Wikipedia の記載に基づく。

上杉景勝と直江兼続:会津移封から関ヶ原、米沢藩へ

会津120万石への移封と直江状

1598年(慶長3年)、景勝は会津120万石に移りました。ただし石高は史料によって異なり、『上杉家記』では120万1200石余とされています。1599年8月に会津へ帰国すると、領内の山道を開いて橋を修理させ、浪人を集め、領内28の支城の整備を命じたとされます。1600年2月には、直江兼続に神指城(会津)の築城を命じています。会津の若松城が狭かったためで、慶長5年2月10日に神指ヶ原で築城が始まりました。

こうした動きが徳川家康との緊張を生みます。4月に景勝は家康からの上洛要求を拒否し、兼続による挑発的な返答(直江状)が家康の会津征伐を煽ったとされます。兼続は景勝の家老で、石田三成と懇意だったことが家康との対立の一因と説明されています。神指城は、6月に普請を中断して家康軍への対応にあたったため、完成しませんでした。

北の関ヶ原:慶長出羽合戦と撤退戦

1600年7月に三成らが挙兵すると、9月に上杉軍は出羽の最上義光の領地へ攻め込みました。これが慶長出羽合戦で、「北の関ヶ原」とも呼ばれます。上杉勢の指揮を執ったのは直江兼続で、主力は約25,000人、別に庄内方面に約3,000人がいたと伝わります。9月8日に米沢と庄内の二方面から進軍し、12日に畑谷城を攻め落としました。

最上方は伊達政宗に救援を求め、政宗は留守政景を約3,000人で送りました。上杉軍は長谷堂城の攻略に手間取り、9月29日に総攻撃をかけましたが失敗し、上泉泰綱が戦死します。同じ日に兼続は、関ヶ原で西軍が敗れたことを知りました。

上杉軍は10月1日に撤退を始め、最上・伊達連合軍の追撃を受けます。兼続は自害を考えたものの、前田利益(慶次)に説得されて撤退したと伝わり、畑谷城で殿(しんがり)を務めて、10月4日に米沢へ戻りました。死者数は最上方の記録で最上側623人・上杉側1,580人、上杉方の記録では敵2,100人超とされ、正確な数字は分かっていません。

米沢30万石への減封と、家臣を手放さなかった決断

関ヶ原の後、景勝は1601年(慶長6年)2月に兼続とともに上洛して謝罪し、上杉家の存続は許されました。8月には、会津などの領地が没収され、出羽米沢30万石に減らされています。米沢30万石の内訳は、置賜郡が約18万石、福島側の伊達・信夫両郡が約12万石でした。

このとき上杉家は、家臣を大きく減らさずに約6,000人を抱えました。米沢の城下には収まらないため、身分の低い家臣は城下の外に住まわせ、半ば農民として国境を守らせました(原方衆。記録上は約1,900人)。収入が大きく減ったまま家臣を抱えたことが藩の借金の大きな原因となり、米沢藩の財政は発足当初から苦しいものになりました。1664年には藩の石高が15万石にさらに半減されています。のちに藩政を立て直したのが、1767年に藩主となった上杉鷹山(治憲)です。

※「家臣を一人も解雇しなかった」と言い切る資料は確認できなかったため、「大きく減らさず約6,000人を抱えた」と書いた。

大坂の陣と最期

1614〜15年の大坂の陣では、景勝は徳川方として出陣しました。冬の陣の鴫野の戦いなどで功績を挙げ、夏の陣では京都警備を担当しています。1619年12月19日には直江兼続が亡くなりました。景勝は1622〜23年に最上義俊の改易に伴い山形城の受け取りを務め、1623年3月20日に米沢城で死去します。膳部頭と手明の2名が殉死し、法音寺に葬られました。

上杉景勝の素顔:笑わない当主の逸話と刀剣

「生涯一度だけ笑った」という逸話

景勝には、猿が景勝の頭巾を取って木に登り、景勝におじぎをしたため、思わず笑った、という話が伝わっています。生涯に一度だけ笑ったという伝説として語られますが、あくまで逸話の域を出ません。

行軍中の上杉兵が無言で整然と進んだという話は『上杉将士書上』にありますが、信頼性には検証が必要とされています。また、景勝を女嫌い・男色とする『奥羽永慶軍記』の記述は、史実と異なる点が多く信憑性に問題があるとされ、1612年(慶長17年)には衆道禁止令を出しています。「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答えて領内のキリシタンを守ったと『日本切支丹宗門史』に記されますが、景勝自身が好意を持っていたわけではないとも伝えられます。宣教師は景勝を「大いなる異教徒」と評したと伝わります。亡くなるまで、実際のキリシタン弾圧の記録は残っていないとされます。

愛刀家・景勝と「姫鶴一文字」

景勝は愛刀家として知られ、所持する刀剣を「上杉景勝御手選三十五腰」という目録にまとめました。太刀「姫鶴一文字」は重要文化財に指定され、米沢市上杉博物館が所蔵しています。兜の前立てに丸い黄金小判をあしらった「紫糸威伊予札五枚胴具足」は、上杉神社の所蔵です。

よくある誤解:景勝は謙信の「実の子」ではない

景勝は上田長尾氏の長尾政景の次男で、謙信の養子になった人物です。謙信の実子ではありません。また、景勝は米沢藩の初代藩主とされますが、米沢藩の藩祖として米沢で祀られているのは謙信です。藩祖と初代藩主は別に数えられている点に注意が必要です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 米沢城(山形県米沢市):景勝が亡くなった城。米沢藩の拠点となった
  • 米沢市上杉博物館:景勝の愛刀「姫鶴一文字」(重要文化財)を所蔵
  • 上杉神社(米沢市):景勝の兜前立の具足を所蔵
  • 法音寺(米沢市):景勝と殉死者が葬られた寺
  • 高野山 清浄心院:景勝の遺骨が納められた
  • 春日山城:景勝が養子として入り、御館の乱で本丸を押さえた城

関連する人物

  • 上杉謙信:養父。越後の戦国大名
  • 上杉景虎:もう一人の養子で、御館の乱で景勝と争って自害した
  • 直江兼続:景勝の家老。直江状、慶長出羽合戦、米沢藩の運営で景勝を支えた。1619年没
  • 武田勝頼:御館の乱で景勝と同盟した
  • 上杉定勝:景勝の嫡男で、慶長9年(1604年)5月5日生まれ。米沢藩の2代藩主
  • 上杉鷹山:1767年に藩主となり、米沢藩の財政を立て直した

よくある質問

上杉景勝は何歳で亡くなりましたか?

元和9年3月20日(1623年4月19日)に米沢城で亡くなりました。享年は69です。

御館の乱とは何ですか?

謙信の死後、養子の景勝と景虎が家督を争った内乱です。1578年に始まり、1579年3月に御館が落城して景虎が自害し、景勝が勝ちました。

なぜ会津120万石から米沢30万石になったのですか?

関ヶ原の戦いの前、家康の上洛要求を拒否して会津征伐を招き、慶長出羽合戦も戦ったためです。戦後に上洛して謝罪し、改易は免れましたが、1601年に米沢30万石へ減らされました。

直江兼続との関係は?

兼続は景勝の家老です。直江状、神指城の築城、慶長出羽合戦、米沢への移封後と、景勝のそばで上杉家を動かしました。兼続は1619年に亡くなっています。

景勝の跡を継いだのは誰ですか?

嫡男の上杉定勝です。1604年に生まれ、米沢藩の2代藩主となりました。