明治維新を成し遂げた英雄・西郷隆盛。教科書やドラマでおなじみの、あの太い眉と大きな目を持つ顔立ちは、日本人の誰もが知っている。しかし、その顔が本人の写真を見て作られたものではないという衝撃的な事実をご存知だろうか。実のところ、西郷隆盛本人と断定できる確実な写真は、現時点で一枚も確認されていないのである。
坂本龍馬や土方歳三など、幕末の志士たちの多くが写真を残している中で、なぜ西郷だけが空白なのか。当時はすでに写真技術が日本に普及し始めており、立場ある人物であれば撮影の機会はいくらでもあったはずだ。それにもかかわらず写真が一枚もないという状況は、彼自身の強い意志や、当時の複雑な政治事情が絡んでいると考えられている。
現在、インターネット上などでは「西郷隆盛の真の姿」と称する古写真が話題になることがある。しかし、歴史学の専門家や研究機関の調査によれば、それらはすべて別人であるか、撮影時期や状況が史実と矛盾するものばかりだ。それでもなお「発見説」が後を絶たないのは、私たちが英雄の本当の顔を知りたいと強く願っているからに他ならない。
本記事では、なぜ西郷の写真が存在しないのか、その理由を様々な角度から検証する。また、現在定着しているあの有名な顔が、誰をモデルにしてどのように作られたのか、その驚きの制作秘話も紹介していく。作られたイメージと、証言から浮かび上がる素顔。二つの西郷像を通して、謎多き英雄の真実に迫ってみたい。
西郷隆盛の写真が存在しない理由と肖像画の制作秘話
キヨッソーネが描いた肖像画の驚くべき手法
私たちが「西郷さん」として思い浮かべるあの肖像画は、イタリア人の版画家エドアルド・キヨッソーネによって描かれたものだ。しかし、キヨッソーネ自身は生前の西郷に一度も会ったことがなかった。西郷の死後、政府や関係者が肖像画の作成を依頼したが、参考になる写真がなかったため、前代未聞の制作方法が採られることになったのである。
キヨッソーネは西郷の親族や知人から特徴を聞き出し、顔のパーツを親族から借りることにした。具体的には、目元を中心とした顔の上半分は弟の西郷従道(つぐみち)を、口元や輪郭などの下半分は従兄弟の大山巌(おおやまいわお)をモデルにしたと言われている。血縁関係にある二人の顔を組み合わせる「モンタージュ方式」で、西郷の顔を再現しようとしたのだ。
完成した肖像画は、親族が見ても「よく似ている」と評価されたとされる。キヨッソーネは西洋画法に精通しており、骨格や筋肉の付き方を計算してリアルな人物像を描き出す技術に長けていた。弟と従兄弟という、遺伝的に最も近い人物をモデルに選んだ彼の判断は、結果として非常に説得力のある肖像画を生み出すことになった。
この肖像画は、後に紙幣や教科書に採用され、公式なイメージとして完全に定着した。つまり、私たちが知っている西郷隆盛の顔は、実在の親族二人の顔を合成し、画家の想像力で補正を加えた芸術作品なのである。写真がないにもかかわらず、国民全員が同じ顔をイメージできるのは、この肖像画の完成度があまりにも高かったからだと言えるだろう。
妻・糸子が銅像を見て発した言葉の真意
東京・上野公園にある西郷隆盛の銅像は、日本で最も有名な銅像の一つである。犬を連れて浴衣姿で立つその姿は、親しみやすい「西郷どん」の象徴となっている。しかし、この銅像の除幕式に招待された西郷の妻・糸子(いと)は、その姿を見て驚きの声を上げた。「宿んし(うちの人)はこげんなお人じゃなかっ(た)」と発言したと伝えられているのだ。
この言葉には、単に「顔が似ていない」という以上の意味が込められていたと解釈されている。糸子によれば、夫である西郷は礼儀を重んじる人物であり、人前に出る際には必ずきちんとした身なりをしていたという。浴衣姿でだらしなく散歩するような姿を公衆の面前に晒すことは、夫の名誉に関わると感じたのかもしれない。
もちろん、顔の造形に対する違和感もあっただろう。生前の西郷と生活を共にしていた妻にとって、キヨッソーネの肖像画を元に作られた銅像は、どこか他人のように映った可能性がある。弟や従兄弟に似ているとはいえ、夫特有の温かみや厳しさまでは再現しきれていなかったのかもしれない。
このエピソードは、写真がないことによって生じた「イメージと実像のズレ」を如実に物語っている。銅像の製作者である高村光雲も苦心して制作したが、本人の写真がないというハンデは大きかった。糸子の言葉は、英雄として神格化されていく夫の姿と、生身の人間としての夫を知る家族の記憶との間で揺れ動く、複雑な心境を表している。
写真嫌いだったという説と暗殺への警戒
西郷隆盛が写真を撮らなかった理由として、彼が極度の「写真嫌い」だったという説が有力だ。明治天皇が西郷の写真を所望した際も、結局提出されることはなかった。天皇の求めに対して「臣下の見苦しい姿をお見せするのは恐れ多い」として断ったとも言われているが、それほどまでに頑なな態度には、単なる遠慮以上の理由があったはずだ。
一つの可能性として、暗殺を警戒していたことが挙げられる。幕末から明治初期にかけての動乱期、西郷は常に命を狙われる立場にあった。顔写真が出回れば、敵対勢力や暗殺者に顔を覚えられ、身の危険が増すことになる。諜報や軍事に通じていた彼は、情報管理の一環として自分の姿を残さないよう徹底していたという見方だ。
また、西郷自身の性格も関係しているだろう。彼は功名心を持たず、自分の行いを天だけが知っていればよいとする「敬天愛人」の精神を持っていた。自分の姿を後世に残そうとする行為自体を、潔くないと考えていたのかもしれない。当時の人々の中には「写真を撮られると魂を抜かれる」という迷信を信じる者もいたが、合理的な思考を持っていた西郷には当てはまらないだろう。
いずれにせよ、彼が写真撮影を拒み続けたことは事実であり、その徹底ぶりが現在の「写真なし」という状況を生んだ。同時代の大久保利通や木戸孝允が写真を残しているのとは対照的だ。権力の中枢にいながら自らの痕跡を消そうとするかのような態度は、西郷隆盛という人物の底知れない深さを感じさせる。
明治天皇への献上と写真の不在
明治天皇は西郷の人柄を深く愛し、信頼を寄せていた。西郷が亡くなった後、天皇が彼の写真を求めたが、宮内省の担当者は一枚も写真を見つけることができず困り果てたという記録がある。どれだけ探しても写真が出てこなかったため、最終的にはキヨッソーネが描いたコンテ画(肖像画)が天皇に献上されることになった。
天皇がその肖像画を見て、生前の西郷を偲んだという逸話は有名だ。もし写真が存在していれば、当然それが献上されていたはずであり、このエピソード自体が「西郷の写真が存在しない」ことを裏付ける強力な証拠となっている。国家元首の要望ですら叶えられないほど、西郷の写真嫌いは徹底していたのだ。
肖像画を受け取った明治天皇は、それを大切に保管したという。写真という客観的な記録がない分、肖像画は単なる絵画を超えて、人々の記憶を繋ぎ止める重要な役割を果たした。キヨッソーネの画力がなければ、西郷のイメージは時間とともに薄れ、現在のように誰もが知る存在にはなっていなかったかもしれない。
この一件は、西郷隆盛という人物が、近代国家のシステムや記録といった枠組みからも逸脱した存在であったことを示している。写真という文明の利器を拒絶し、あくまで生身の人間関係の中で生きた彼の姿勢が、写真不在というミステリーを作り上げたと言えるだろう。
西郷隆盛の写真発見か?世間を騒がせる古写真の真偽
フルベッキ群像写真に写っているという説
西郷隆盛の写真として最も頻繁に話題になるのが、いわゆる「フルベッキ群像写真」である。宣教師フルベッキを囲んで多数の侍が写っているこの集合写真の中に、大柄で強面の人物がおり、それが西郷ではないかという噂が長年にわたって囁かれてきた。この写真には坂本龍馬や高杉晋作など、幕末のスターが一堂に会しているという説も付随している。
しかし、歴史学の観点からは、この説は完全に否定されている。まず、撮影された時期や場所が、西郷の行動記録と一致しない。写真が撮影された時、西郷は遠く離れた場所にいたことが史料で確認されているからだ。物理的にその場にいることが不可能な以上、写っている人物が西郷であるはずがない。
また、写真に写っている人物たちの身元も、近年の研究でほぼ特定されている。この写真は佐賀藩の学生たちを中心に撮影されたものであり、問題の大柄な人物も佐賀藩士の一人である可能性が高い。他藩の重鎮である西郷が、佐賀の学生たちの中に一人だけ混ざっている不自然さを考えても、この説には無理がある。
それにもかかわらず、この噂が消えないのは、写っている人物の風貌がいかにも「西郷らしい」からだろう。太い眉や鋭い眼光が、私たちの知る肖像画のイメージと重なるため、見た人が「これが本物だ」と思い込んでしまうのだ。人々の願望が作り出した幻影といえる。
薩摩藩士の集合写真に関する誤解
フルベッキ写真以外にも、薩摩藩士の集合写真の中に西郷がいるという説も存在する。特に幕末に撮影された藩士たちの写真において、体格の良い人物や、顔立ちの整った人物が西郷だと誤認されることがある。西郷は薩摩のリーダー格であったため、部下たちと一緒に写っていても不思議ではないという推論が働くようだ。
しかし、現存する薩摩藩士の写真は、主に留学生や使節団、あるいは特定の部隊を撮影したものである。西郷自身は海外渡航の経験がなく、また写真嫌いであったため、こうした記念撮影の輪に加わることはなかったと考えられる。実際に、写真に写っている人物の名簿と照合すると、すべて別人であることが判明している。
特に紛らわしいのが、西郷の親族が写っている場合だ。弟の従道や従兄弟の大山巌など、西郷と血縁関係にある人物は顔立ちが似ているため、画質の悪い古写真では見分けがつかないことがある。これが「西郷隆盛の写真発見」という誤報につながる一因となっている。
こうした誤解が繰り返される背景には、骨董市場などでの価値づけという側面もある。「西郷の未公開写真」となれば歴史的価値は跳ね上がるため、不確かな情報でもセンセーショナルに扱われてしまう傾向がある。情報を受け取る側としては、安易に飛びつかず、冷静な検証が必要だ。
全くの別人が西郷とされた事例
過去には、全く関係のない人物の写真が西郷隆盛として紹介された事例も数多くある。例えば、明治時代の政治家や軍人の中で、肥満体型で髭を蓄えた人物の写真が、西郷だと誤認されたケースだ。鳥尾小弥太(得庵)という人物などは、その風貌の類似性から混同されたことがある代表例である。
また、ドイツ人の写真家が撮影した「肥満体の日本人男性」の写真が、西郷ではないかと疑われたこともある。調査の結果、それは単なる地元の有力者や力士のような人物であったとされる。太っているというだけで西郷と結びつけられるのは短絡的だが、それほどまでに「西郷=巨漢」というイメージが強烈に刷り込まれている証拠でもある。
西南戦争の際に西郷軍に参加した無名の兵士の写真が、西郷本人として売買されたという話もある。情報の少なかった時代には、こうした偽物が真実として流布してしまったのだ。肖像画が作り上げたイメージに合致する写真が出てくると、考証を抜きにして信じてしまう心理が働くのである。
これらの誤認事例は、私たちが歴史上の人物を認識する際、いかにステレオタイプに頼っているかを教えてくれる。本物の西郷隆盛がどのような顔をしていたかは、確実な写真がない以上、永遠の謎である。しかし、だからこそ「発見」のニュースには慎重になるべきだろう。
暗殺を恐れて撮らなかったという説の再検証
西郷が写真を残さなかった理由として、「暗殺対策」説は現在でも根強い。実際に坂本龍馬や中岡慎太郎など、写真を残した志士たちが暗殺されている事実を考えると、顔を知られることのリスクは決して小さくなかったはずだ。特に西郷は、幕末から明治にかけて常に政治的対立の中心におり、命を狙われる機会は多かった。
諜報戦を重視していた西郷にとって、自分の顔写真は敵に情報を与えるようなものだ。新選組や幕府の見廻組、あるいは明治政府内の不平分子など、敵対勢力に顔を覚えられないようにすることは、自己防衛の基本だったとも考えられる。この説は、彼の慎重で合理的な性格とも矛盾しない。
しかし、大久保利通らのように、同じく命を狙われながらも写真を残した人物はいる。そのため、暗殺対策だけが理由とは言い切れない部分もある。やはり、「写真を撮る行為自体への嫌悪感」や「天に対する謙虚さ」といった、個人的な信条や美意識が大きく影響していたと見るのが妥当だろう。
西郷の写真嫌いは、単なるリスク管理を超えた、彼なりの生き方の表れだったのかもしれない。文明開化の波に乗りつつも、写真という新しい文化には背を向けた彼の姿勢。そこには、近代化の中で失われていく何かを守ろうとする、武士としての最後の意地があったのかもしれない。
西郷隆盛の写真を巡る親族や関係者の証言と記録
弟の西郷従道と顔が似ていたのか
肖像画の上半分のモデルとなった弟・西郷従道は、兄とどれほど似ていたのだろうか。従道は兄と共に維新を生き抜き、後に海軍大臣などを歴任した。彼の写真は数多く残されており、兄とは違って写真撮影には抵抗がなかったようだ。残された写真を見ると、太い眉や大きな目は、確かに西郷の肖像画と共通する特徴を持っている。
特に目元の印象は兄弟らしくよく似ていたと言われており、キヨッソーネが彼をモデルに選んだのも納得がいく。ただし、従道の方が兄よりもやや面長で、柔和な顔立ちをしていたという証言もある。性格も兄がカリスマ型なら、弟は調整型の実務家であり、そうした内面の違いが表情にも表れていた可能性はある。
キヨッソーネは従道の顔を参考にしつつ、兄の威厳や豪快さを表現するために、意図的に修正を加えたと考えられる。従道自身も兄を深く尊敬しており、肖像画の制作には協力的だったという。自分の顔を提供することで、兄のイメージを後世に残す手助けをしたのだ。
現在私たちが知る西郷の顔には、弟・従道の面影が色濃く反映されている。兄弟の顔が似ているのは自然なことだが、写真のない兄の代わりに弟の顔が歴史の表紙を飾ることになったのは、運命の巡り合わせといえるだろう。従道の写真を見ることで、私たちは西郷隆盛の面影を間接的に感じることができるのである。
大山巌が協力したモンタージュ画
肖像画の下半分、つまり輪郭や口元のモデルとなったのは、従兄弟の大山巌である。大山は日露戦争などで活躍した陸軍の重鎮で、彼もまた西郷とは深い血縁関係にあった。大山は非常に体格が良く、顔の輪郭も丸みを帯びており、西郷の恰幅の良さを再現するには適任であったとされる。
キヨッソーネは、西郷従道の目元と大山巌の口元や輪郭を組み合わせることで、理想的な「西郷隆盛像」を作り上げた。大山自身も西郷を慕っており、この制作過程に快く協力したという。大山の写真は多く残っており、それらと西郷の肖像画を見比べると、あごのラインや顔の肉付きに共通点を見出すことができる。
このモンタージュ手法は、当時の技術としては画期的だった。単なる似顔絵ではなく、西洋美術の解剖学的な知見に基づいた合成を行うことで、実在感のある顔を生み出したのである。大山の顔が採用されたことで、西郷の肖像画には、単なるハンサムな英雄像ではなく、どっしりとした重厚感や包容力が加わることになった。
もし大山の協力がなければ、西郷の肖像画はもっと細面で、神経質な印象になっていたかもしれない。大山巌というモデルがいたからこそ、あの「西郷どん」らしい、親しみやすくも威厳のある顔が完成したのである。この事実は、西郷のイメージがいかに周囲の人々の協力によって作られたものであるかを如実に物語っている。
肥後直熊による肖像画の特徴
キヨッソーネの肖像画とは別に、鹿児島出身の画家・肥後直熊(ひごなおくま)が描いた肖像画も存在する。肥後は幼少期に西郷の膝の上で遊んだ経験があると言われており、生前の西郷の顔を知る数少ない画家の一人だ。彼の描いた絵は、キヨッソーネ版とは異なる特徴を持っている。
肥後の描いた西郷は、目が大きく、少しギョロリとした印象を与える。これは、当時西郷に会ったイギリス外交官アーネスト・サトウが「黒ダイヤのように光る大きな目玉」と表現した特徴と一致する。また、キヨッソーネ版ほど整った顔立ちではなく、どこか野性味を帯びた、人間味のある表情で描かれているのが印象的だ。
公式な場では写実的なキヨッソーネ版が採用されたが、地元の人々の中には「肥後の絵の方が本人の雰囲気に近い」と評価する声もあったという。西洋画法で整えられた顔よりも、記憶の中にある素朴な西郷の姿を捉えていたのかもしれない。肥後の作品は、飾らない西郷の素顔を伝える貴重な資料と言える。
二つの肖像画を見比べることで、西郷隆盛という人物の多面性が見えてくる。一方は国家の英雄として理想化された顔、もう一方は地元の盟友としての生身の顔。どちらも真実の一端を捉えており、写真がないからこそ、見る人の立場によって異なる西郷像が存在し得ることがわかる。
現代に残るイメージの定着過程
西郷隆盛のイメージは、明治、大正、昭和と時代を経るごとに強固に定着していった。その中心にあったのは、やはりキヨッソーネの肖像画である。これが紙幣の肖像として採用された影響は計り知れない。人々が日常的に手にするお札に描かれたことで、「西郷隆盛=この顔」という認識は国民全体に深く刷り込まれていった。
また、上野の銅像も観光名所となり、多くの人々がその姿を目に焼き付けた。メディアが発達すると、ドラマや映画で西郷を演じる俳優たちも、この肖像画や銅像のイメージに合わせて役作りを行うようになった。太眉、大きな目、巨漢という特徴は、記号化されて再生産され続けたのである。
さらに、教科書への掲載がその認識を決定づけた。学校教育の中で「これが西郷隆盛だ」と教えられれば、それを疑う余地はない。こうして、合成で作られた顔が「歴史上の事実」としての地位を確立していった。写真が一枚もない人物の顔が、これほど明確に国民の脳裏に刻まれている例は世界的にも稀である。
現在では、AI技術などを使って「実在した西郷の顔」を復元しようとする試みもあるが、それも結局はキヨッソーネの画や親族の写真をベースにせざるを得ない。私たちの中に出来上がった西郷像を覆すことは、もはや不可能に近い。作られたイメージであっても、それが100年以上愛され続けてきたという事実こそが、西郷隆盛という人物の大きさを証明しているのである。
まとめ
西郷隆盛の確実な写真は、現時点では一枚も確認されていない。私たちがよく知るあの顔は、イタリア人画家キヨッソーネが、弟の従道と従兄弟の大山巌をモデルにして描き上げた「モンタージュ画」である。妻の糸子が銅像を見て「似ていない」と嘆いた逸話からも、実像とは異なる部分があったことがうかがえる。
写真嫌い、暗殺への警戒、あるいは天皇への遠慮など、撮影を拒んだ理由は諸説あるが、その頑固さが神秘性を高めているともいえる。巷では「新発見」とされる写真が話題になることもあるが、学術的にはすべて否定されているのが現状だ。写真がないからこそ、人々は理想の英雄像を彼に重ね合わせ、そのイメージは時代を超えて愛され続けているのである。