志賀直哉 日本史トリビア

結論:旧居の中心は奈良・高畑と我孫子。尾道は閉館中

志賀直哉の旧居として見学の中心になるのは、奈良市高畑の邸宅です。直哉が自ら構想し、京都の数寄屋大工・下島松之助が1929年(昭和4年)に建てた家で、現在は奈良県指定有形文化財として一般に公開されています。

千葉県の我孫子には母屋が残っていませんが、邸宅跡の緑地に、直哉が設計に深く関わった書斎が残っています。広島県の尾道にある旧居は、来館者の減少で2020年3月末に閉館しました。

旧居ごとに公開の状況が違います。出かける前に、各施設の公式情報で最新の公開日を確かめてください。

基本情報

  • 名前:志賀直哉(しが なおや)
  • 生没年:1883年(明治16年)2月20日〜1971年(昭和46年)10月21日。88歳
  • 生まれ:宮城県石巻町。没したのは東京・世田谷の病院で、死因は肺炎と老衰
  • 時代:明治・大正・昭和
  • 立場:小説家。雑誌『白樺』(1910年創刊)に関わった白樺派の代表的な作家で、「小説の神様」と呼ばれる
  • 代表作:「清兵衛と瓢箪」「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」
  • 栄典:1949年に文化勲章を受章
  • 墓所:東京・青山霊園

志賀直哉の旧居はどこにある?奈良・我孫子・尾道を比べる

奈良・高畑の旧居と「高畑サロン」

奈良市高畑町の旧居は、直哉が自ら構想し、下島松之助の施工で1929年に竣工しました。直哉は1938年に東京へ移るまで、ここで暮らしました。文化遺産オンラインの解説では、数寄屋大工の手による住宅であることが特徴とされています。Wikipedia によると、数寄屋造りを基本にしながら、洋風や中国風の様式も取り入れた家です。

建物には洋風のサンルーム、娯楽室、書斎、茶室、食堂がありました。書斎は天井が葦張りの数寄屋風で、窓の向こうに和風庭園と、借景の若草山が見えるといいます。

この家には武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄、入江泰吉、亀井勝一郎、小林多喜二らが訪れ、文学や芸術を語り合いました。いつしか「高畑サロン」と呼ばれるようになります。奈良に移り住んだ瀧井孝作や小林秀雄との交流も知られています。

戦後は進駐軍に接収され、1953年からは厚生施設として使われました。1978年に学校法人奈良学園が購入し、セミナーハウスとして使っています。2008年には昭和初期の姿に戻す改修工事が行われています。2000年に国の登録有形文化財となり、2016年に奈良県指定有形文化財(建造物)に指定されました。

我孫子の邸宅跡と書斎

直哉は1915年(大正4年)、白樺派の仲間で哲学者の柳宗悦に誘われて、千葉県我孫子町に移りました。住んだのは約7年半です。我孫子市の資料によると、ここで「和解」「城崎にて」「暗夜行路」などを書いています。

母屋は現存しません。そのかわり、手賀沼のほとりの緑地(志賀直哉邸跡)に、直哉が設計に深く関わった書斎が残っています。我孫子の大工・佐藤鷹蔵が1921年(大正10年)に建てたもので、2011年(平成23年)に市の指定文化財になりました。直哉は、高級な木材を使わず、木の肌や虫食いの跡を生かした簡素な建物を目指したと伝えられています。

緑地には、直哉が自筆で残した母屋の間取り図をもとに、原寸大の平面図が復元されています。建物は消えても、当時の暮らしの広さを歩いて確かめられるのが、この場所の特徴です。書斎は2021年に修復のための寄付が募られました。公開日は限られるため、見学の前に我孫子市教育委員会(文化・スポーツ課)で確認してください。

尾道の旧居は閉館中

直哉は父との不和などから東京を離れ、1912年に広島県尾道市へ移りました。住んだのは、尾道市東土堂町にある平屋の三軒長屋の一軒です。Wikipedia によると、6畳と3畳の2間と、土間の台所だけの小さな家でした。ここで、のちに「暗夜行路」となる長編の構想を練り、書き始めています。旧居の前には「暗夜行路」の石碑があります。

旧居は文学の展示施設として公開されてきましたが、来館者の減少により、2020年3月末に閉館しました。そのため、現時点では建物の中を見学できるとは言えません。訪れる場合は、尾道市や尾道観光協会の公式情報で、現在の扱いを確認してください。

志賀直哉の転居の足跡と「暗夜行路」の誕生

旧居と作品はどう結びつくか

代表作「暗夜行路」は、尾道時代の1913年ごろに「時任謙作」という題で書き始められました。その後、執筆はいったん中断し、1917年に再開しました。雑誌『改造』での連載にあたり「暗夜行路」と改題され、前篇が発表されたのは1921年、後篇の連載開始は1922年で、連載は1928年にいったん中断し、1937年に完結しています。

完結した1937年は、直哉が奈良の高畑に住んでいた時期にあたります。構想を得た尾道、書斎が残る我孫子、完結を迎えた奈良の三か所は、一つの長編でつながっています。

我孫子で広がった白樺派の交流

我孫子には、柳宗悦の誘いで直哉が移り、その後に武者小路実篤も住まいを構えました。実篤はのちに「新しき村」の建設のために我孫子を去っています。ここでは、バーナード・リーチも近くに住んで親交があり、リーチは直哉の作品集『夜の光』の装幀を担当しました。

我孫子の時代は、「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」が発表された時期にあたります。市の資料も、「雪の日」「十一月三日午後の事」といった我孫子の暮らしを描いた短編を、当時の町の様子を知る資料として挙げています。

東京・京都・熱海へ続く転居

直哉の住まいは、石巻の生家から東京、尾道、松江、京都、赤城山の山小屋、我孫子、京都の粟田口と山科、奈良と、何度も移っています。奈良を離れた1938年以降は東京に戻り、1940年に世田谷区新町へ移りました。

1948年には静岡県熱海市大洞台に山荘を構え、1955年には東京都渋谷区へ移っています。晩年の旧居は、ここまでに挙げた三か所のように、公開されている施設としては確かめられていません。熱海や東京の旧居の現状は、確認できた資料には書かれていませんでした。

ゆかりの地と関連する人物

  • 志賀直哉旧居(奈良市高畑町):奈良学園が所有・管理。奈良県指定有形文化財で、一般公開されている
  • 志賀直哉邸跡と書斎(千葉県我孫子市):手賀沼のほとりの緑地。書斎は市指定文化財
  • 志賀直哉旧居(広島県尾道市東土堂町):2020年3月末に閉館。旧居の前に「暗夜行路」の石碑がある
  • 青山霊園(東京都港区):直哉の墓所
  • 柳宗悦:我孫子への移住を直哉に勧めた、白樺派の哲学者
  • 武者小路実篤:我孫子に住み、高畑サロンにも訪れた白樺派の作家
  • バーナード・リーチ:我孫子で親交があり、『夜の光』の装幀を担当した
  • 下島松之助:奈良の旧居を施工した京都の数寄屋大工

よくある質問

志賀直哉の旧居で、今見学できるのはどこ?

建物の内部を見学できるのは、奈良市高畑の旧居です。我孫子は母屋が残らず、邸宅跡の緑地と書斎が中心になります。尾道は2020年3月末に閉館しました。

高畑サロンとは何ですか?

奈良・高畑の旧居に、武者小路実篤や小林秀雄ら、直哉を慕う文人や画家が集まって語り合ったことから、そう呼ばれるようになった場です。

「暗夜行路」はどこで書かれましたか?

尾道で「時任謙作」の題で書き始められ、中断を経て連載が続きました。完結したのは1937年で、このころ直哉は奈良の高畑に住んでいました。

我孫子に移り住んだきっかけは?

白樺派の仲間で、すでに我孫子に住んでいた柳宗悦の誘いです。1915年に移り、約7年半を過ごしました。