大隈重信 日本史トリビア

明治の政局で名を上げた大隈重信は、政治家であると同時に教育の旗を掲げた人物である。後に首相も務め、国の形を変えるには人が育つ場所が要ると考えた。

早稲田大学の始まりは1882年10月21日に創設された東京専門学校である。別邸と校舎の所在地から「早稲田学校」とも呼ばれ、その呼び名が大学名へつながった。

学園の根には「学問の独立」がある。権力や時勢に左右されない教育研究を行い、自由討究と独創の研鑽で世界の学問に寄与するという姿勢だ。

大隈の理念は、建物や風景にも刻まれてきた。講堂や庭園の成り立ちをたどると、自由と実学を両立させようとした意志が、今の早稲田にも続いていると感じられる。創設の背景を知ると、早稲田がなぜ自由を語り続けるのかが腑に落ちる。

大隈重信と早稲田大学の出発点

東京専門学校の創設と時代背景

早稲田大学の前身は1882年10月21日に創設された東京専門学校である。創立者は大隈重信で、後の早稲田大学へ直結する出発点になった。

創設当初から、この学校は近代国家に必要な知を育てる場として構想された。政治や法律、経済の議論が社会に広がる時期で、人材の厚みが求められていた。

早稲田は庶民の教育を主眼として創設されたとされる。学ぶ門戸を広げる発想が、学校の性格を方向づけた。

学びが机上で終わらず、社会の課題に触れることを重んじる姿勢も見える。実際に役立てる道を講じるという考え方は、後の理念にも組み込まれた。

東京専門学校という名に、都市の公共性と専門的な学びを結びつけたい意図がにじむ。大隈重信と早稲田大学の物語は、この命名から始まっている。

小野梓と「学問の独立」の発火点

東京専門学校の創設では、大隈に加えて小野梓らが中核を担ったことが記録に残る。学校の構想と運営に深く関わり、開校式で理念を語ったとされる。

小野の言葉として、「一国の独立は国民の独立に基づき、国民の独立は精神の独立に根ざす。精神の独立は学問の独立による」という趣旨が伝わる。

この発想は、学問を知識の飾りではなく、自立の土台として捉える点に特徴がある。学ぶことが、個人の自由と社会の持続性を支えるという見立てである。

大隈自身も、国の独立を守るには学問の独立が欠かせないと語ったとされる。理念が個人の信条に閉じず、学園の規範へ広がっていった。

小野梓は早稲田に尽くした人物の一人として位置づけられ、創設期の象徴として語られる。大隈重信と早稲田大学の結節点に、複数の担い手がいたことが見えてくる。

早稲田という名が選ばれた理由

東京専門学校は、創立者の別邸が早稲田村にあり、校舎が戸塚村にあったことから「早稲田学校」「戸塚学校」とも呼ばれていた。

最終的な正式名は「東京専門学校」とされたが、1892年頃には別名として「早稲田学校」が用いられるようになった。呼び名が自然に定着した経緯である。

地名が愛称になるのは、学びの場が地域の生活圏に溶けた証しでもある。通学路や下宿、集いの場所ができ、学校が街の記憶になる。

その後「早稲田」が大学名になったことで、学園の共同体は場所と強く結びついた。卒業後も同じ呼び名でつながる感覚は、土地の記憶に支えられる。

戸塚の名も併記された時期があったが、最終的に早稲田が学園の顔になった。

「早稲田」という名は理念の標語ではない。大隈重信と早稲田大学が、現実の土地に根を下ろしながら理想を育ててきたことを示す符号である。

1902年の改称と大学への歩み

東京専門学校は、専門学校から大学への昇格を機に、1902年9月2日付で「早稲田大学」と改称した。創立から20年の節目である。

改称は看板の付け替えではなく、教育研究の器を整える合図でもあった。大学としての制度と権威を得ることで、学びの範囲を広げやすくなった。

1913年には早稲田大学教旨が宣言され、教育の基本理念が明文化された。創設から理念の言語化へ進む流れが見える。

教旨の碑文は1937年に正門前へ設置されたとされ、理念を日常の風景へ置いた。理念が抽象で終わらない工夫である。

大学名が定まると、学園の呼び名が一本化され、校友の結束も育ちやすくなったと考えられる。

大学へ昇格し、理念を掲げ、象徴を整える。大隈重信と早稲田大学は、節目ごとに形と心を噛み合わせて成長してきた。

大隈重信と早稲田大学の理念

学問の独立―権力から距離を取る姿勢

1913年の創立30周年記念祝典で、総長の大隈重信は早稲田大学教旨を宣言した。三つの柱の筆頭が「学問の独立」である。

教旨は、自由討究を主とし、独創の研鑽に努め、世界の学問に寄与することを期すと述べる。独立は孤立ではなく、普遍へ向かう姿勢だ。

「学問の独立」は在野精神や反骨の精神と結び合うとされる。権力や時勢に左右されない、科学的な教育研究を行うという意味合いである。

創設期の「学問の独立」には、西洋の学問に学びながらも、それに従属しないという含みがあったとも説明される。邦語で教育を行う方針も、その一端だ。

学ぶ側が自分の頭で考えることを守る。大隈重信と早稲田大学の核心は、知の自由を具体の制度と文化へ落とし込んだ点にある。

学問の活用―実学と社会への接続

教旨の二つ目の柱は「学問の活用」である。学理を研究すると同時に、実際に応用する道を講じ、時世の進運に資することを期す。

早稲田は安易な実用主義ではなく「進取の精神」として学問の活用を位置づけたとされる。役立つだけでなく、切り拓くための実学だ。

大隈は政治の現場で制度や財政、外交に向き合い、近代化に尽力した人物として紹介される。理想と現実の往復が、学問を活かす感覚を鍛える。

学問の活用は、成果を急ぐことではない。課題を見抜き、方法を選び、社会へ返すまでを学びに含めるという態度である。

知を社会へつなぐ回路があるから、研究も教育も閉じにくい。大隈重信と早稲田大学は、学問を動かすことを理念として言語化した。

模範国民の造就―個性と公共の両立

教旨の三つ目は「模範国民の造就」である。個性を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、広く世界に活動できる人格の養成を期すと述べる。

早稲田は庶民の教育を主眼として創設されたとされる。その上で、社会の担い手となる人格を育てることが理念に置かれた。

大隈は知識だけでは足りず、道徳的人格が必要だと語ったとされる。また、一国のためだけでなく世界への貢献を抱負とせよという趣旨も示した。

この理念は、個人の成功と公共の利益を切り離さない。社会に責任を持ち、他者と協働できる人を育てるという教育観である。

現代の言葉で「地球市民の育成」と言い換えられるとも記す。方向を保ちながら表現を更新してきた。

個性と公共を両立させるのは難しいが、理想が示されることで議論が始まる。大隈重信と早稲田大学は、その議論を継ぐ場でもある。

在野精神・反骨の系譜が生んだ校風

「学問の独立」は「在野精神」「反骨の精神」と結び合うとされる。自主独立の精神を持つ国民の養成を理想に置くという。

在野とは、権力に背を向ける合言葉ではない。立場を選び取り、必要なら異論を述べ、議論を続ける態度である。

権力や時勢に左右されない科学的な教育研究を掲げる。議論の土台として理性を重んじる姿勢だ。

創設期に自由な言論を尊ぶ空気があったことは、早稲田を語る文脈でしばしば触れられる。異論があるからこそ、論理と根拠が磨かれる。

自由は放任ではない。討論を通じて鍛え、相手の人格を傷つけずに反対意見を述べる作法も学ぶ。学風は日々の振る舞いの積み重ねでできる。

こうした気風が、政治や文化の場で多彩な人材を生む土壌になったと考えられる。大隈重信と早稲田大学の理念は、校風としても受け継がれている。

大隈重信と早稲田大学の象徴

大隈記念講堂―建築と思想が重なる場所

大隈重信を記念する事業の中核として計画された大隈記念講堂は、1927年10月15日に竣工し、同月に開館した。早稲田の象徴的存在である。

時計塔の高さは約37.9メートルとされ、尖塔までの高さも示されている。数値にまで意図が宿る建築だ。

設計主任は佐藤功一で、佐藤武夫が実施設計、内藤多仲が構造を担当したとされる。大学の建築教育と、象徴の建設が結びついていた。

2007年には重要文化財(建造物)に指定された。建築史的価値に加え、大学の記憶を背負う場として評価されたと言える。

式典や講演、文化行事の舞台になり、人が集うたびに理念が更新される。大隈重信と早稲田大学は、言葉だけでなく空間でも人を育ててきた。

大隈庭園と旧邸寄贈―学園の拠点として

大隈の没後、旧邸と庭園が遺族から大学へ寄付され、大隈会館として利用された時期がある。教職員や学生の集会の場になったと紹介される。

園芸に熱心だった大隈は、温室や菜園を設け、さまざまな植物を育てたと紹介される。庭園が学園の空気を柔らかくした。

庭園は一般にも公開され、多い日には数千人の来場者があったという回顧も伝わる。学園の歴史が街の行楽とも重なっていた。

1922年の寄贈と公開は、個人の私的空間が公共へ渡る象徴的な出来事でもある。教育は建物や財産だけでなく、場の記憶も継承する。

その後、空襲で庭園が荒廃したが、努力により復元され今日に至ると紹介される。失われたものを取り戻す姿勢が、学園の粘り強さを語る。

講堂も庭園の一部を敷地として建てられたとされる。象徴と風景が隣り合う配置が、理念と日常を近づけている。

政治家・教育者としての二つの顔

大隈重信は第8代と第17代の内閣総理大臣を務めた。1898年に首相となり、1914年に再び首相となった。

一方で1882年に東京専門学校を開設し、学園の総長としても関わった。政治の最前線に立ちながら、教育へ時間と資源を投じた人物である。

政治では制度の設計や政党の形成に向き合い、教育では自立した人材を育てようとした。両者は別の事業ではなく、人づくりを通じた国づくりとして連続している。

そのため早稲田には、政治、行政、経済、報道、文化など多方面へ出る人が多い。公共へ踏み出す動機を育てる土壌が、理念の中にある。

大隈重信と早稲田大学の関係は、政治が教育を従える話ではない。教育が政治を監視し、支え、更新する側面まで含んでいる。

国内外へ開かれた早稲田の系譜

創立者の大隈は外交家としても知られ、早稲田の大隈邸には外国要人を含め多くの人々が訪れたと伝えられる。

大学は長い歴史の中で、世界各国から人物を招いてきたとも紹介される。キャンパスでの出会いが、学びの視野を広げる契機になる。

外へ開くほど、内側の自立が問われる。早稲田が掲げた学問の独立は、外の知を受け止めつつ、自分の言葉で考えるための軸になる。

開かれ方と自立は、相反しない。むしろ両立してこそ、世界と対話できる学びになる。

講堂は学会や講演会などの拠点として位置づけられ、文化の発信基地になったと紹介される。外へ開く器が整えられた。

大隈重信と早稲田大学の物語は、国内の課題にも世界の動きにも目を向ける姿勢を示す。自由と実学が、国境を越えるための土台になる。

まとめ

  • 早稲田大学の前身は1882年創設の東京専門学校である
  • 別邸の所在地から「早稲田学校」の呼称が生まれた
  • 1902年に早稲田大学へ改称し大学へ歩み出した
  • 創設期に小野梓らが学問の独立を語った
  • 1913年に教旨が宣言され理念が明文化された
  • 学問の独立は自由討究と独創を重んじる姿勢である
  • 学問の活用は研究と応用を結び社会へ資する考え方だ
  • 模範国民の造就は個性と公共を両立する人格を目指す
  • 大隈記念講堂は1927年竣工で重要文化財に指定された
  • 庭園や旧邸の寄贈も学園の象徴として受け継がれている