吉田松陰

吉田松陰の死因は「病気」ではなく、幕府による死罪の執行だ。けれど、なぜそこまで重い結末になったのかは、名前だけ知っていても分かりにくい。松下村塾で人を育てた人物が、なぜ処刑まで行くのか、そこが一番の疑問になる。

さらに、最期の日付が「安政6年10月27日」と書かれていたり、「1859年11月21日」と書かれていたりして、混乱しやすい。旧暦と新暦の違いを知らないと、同じ出来事が別の日に見えてしまう。場所も「伝馬町」「小塚原」と複数出てくるので、出来事を分けて考えるのが近道だ。

この記事では、まず「判決→執行→埋葬」を切り分けて整理し、次に安政の大獄の流れと、松陰が取調べで何を語ったのかを時系列で追う。要点だけでなく、混ざりやすいポイントも先にほどく。

読み終えるころには、死因が一言で言えるだけでなく、なぜそうなったのかが筋道でつながる。伝馬町牢屋敷跡や回向院、松陰神社に行くときも、何を見ればいいか迷いにくくなる。

吉田松陰の死因を結論から整理する

吉田松陰の死因は「死罪の執行」で斬首だ

死因の結論ははっきりしている。吉田松陰は安政6年10月27日(旧暦)に、江戸の伝馬町牢屋敷で死罪が執行され、斬首で亡くなった。判決の場と執行の場は別だが、最終的な死因は「死罪の執行」になる。

日付が2つ出るのは、旧暦と新暦の表記が混ざるからだ。旧暦の安政6年10月27日は、新暦では1859年11月21日に当たる。どちらも同じ一日を指しているので、年表を見るときは表記の基準をそろえると見失いにくい。

年齢も揺れやすい。近代の年齢感覚で数えると満29だが、当時よく使われた数え年では30になる。資料に「享年30」と書かれるのは、この数え方による理解だ。満年齢で書く資料もあるので、数字だけで食い違いだと決めないほうが安全だ。

この3点(旧暦/新暦、満年齢/数え年、判決/執行)を切り分ければ、死因の説明はぶれなくなる。まずはここを土台にして、なぜ死罪まで行ったのかを次で追っていく。

吉田松陰の死因で混ざりやすい「伝馬町」と「小塚原」

混乱しやすいのは「どこで何が起きたか」だ。松陰は評定所に呼び出され、そこで死罪が申し渡されたと伝えられる。一方、実際の執行は伝馬町牢屋敷の中で行われた、と説明されることが多い。

その後の遺骸の扱いが「小塚原」という地名につながる。小塚原は刑場が置かれた地域で、回向院には松陰の墓石が残る。ここは最初の埋葬地として説明され、文久3年(1863)に世田谷・若林へ改葬された、とされる。

だから「小塚原で斬られた」とまとめてしまうと、判決・執行・埋葬が一つに混ざってしまう。正確には、執行は伝馬町、埋葬(のち改葬)が小塚原と覚えると整理しやすい。

また、伝馬町牢屋敷跡周辺には、辞世の句を刻んだ碑があり、案内では直筆の辞世として紹介されることがある。碑文を見ると、史実としての最期がより具体に感じられる。

史跡を歩くなら、十思公園周辺で牢屋敷跡と碑を見て、次に回向院で墓石を見比べると流れがつかめる。距離がある分、出来事の順序が頭に入りやすい。

吉田松陰の死因の背景にある「安政の大獄」

松陰が死罪になった背景には、安政の大獄という政治の空気がある。1858〜1859年に、幕府が反対派の公家・大名・志士などを広く処分した一連の事件で、井伊直弼が強権で押し進めた、と説明される。

きっかけは、条約の調印や将軍継嗣をめぐる対立だ。批判が広がるほど、幕府側は「統治を守るため」として取締りを強め、結果として多くの逮捕と処刑が出た。松陰もこの流れの中で江戸へ送られ、幕府直轄の取調べを受ける。

ここで重要なのは、松陰が単に意見を述べた人物として扱われなかった点だ。取調べでは、行動計画の有無が問われ、言葉がそのまま処分の材料になる。大獄の局面では「危険の芽は早めに摘む」という論理が働きやすい。

だから、死因を「処刑」とだけ言うと冷たく見えるが、当時の政治の仕組みを踏まえると、なぜ死罪まで滑り落ちたのかが見えてくる。事件の年と流れを押さえるだけでも理解が進む。次で、その決定打になった供述を確認する。

吉田松陰の死因につながる江戸送致までの流れ

松陰の再投獄は、ある日突然ではない。まず嘉永7年(1854)の海外渡航未遂で幕府に自首し、伝馬町の獄に入れられたのち、萩へ送られて野山獄に入った。出獄後は幽閉に近い形で過ごしつつ、やがて松下村塾の中心として教え始める。

その後、条約問題などをめぐる政局が荒れ、松陰は藩内外の動きに強く反応する。同志と血盟し、老中・間部詮勝を狙う要撃策を企図したことで、藩から危険視され再び投獄された、と説明されることが多い。

さらに1859年、幕府は藩に対して松陰の江戸送致を命じた。こうして松陰は江戸へ送られ、伝馬町牢屋敷で取調べを受けることになる。ここまで来ると、藩内の処分で終わる話ではなく、幕府の判断が直接の生死を握る段階だ。

だから「死因」を理解するには、最期の一日だけでなく、投獄が重なり、扱いが藩から幕府へ移った経路を見るのが大切になる。一本道に見える結末にも、いくつもの曲がり角がある。

吉田松陰の死因が死罪になった理由

吉田松陰の死因の決定打になった供述とは

死罪の決定打としてよく語られるのが、取調べでの供述だ。松陰は関係者とのつながりを問われたが、その場で自ら、老中・間部詮勝への要撃策(襲撃計画)を語った、と解説されることが多い。

なぜそんなことをしたのか。松陰は「自分だけが罰を受け、同志に累が及ばない形にしたい」という思いがあった、と説明されることがある。言い方を「要撃」から「要諌(待ち伏せて諌める)」へ変えた、という話もこの文脈で出てくる。

ただ、幕府側から見れば、たとえ言い換えがあっても「要人に手を出す企図」を本人が認めた形になる。大獄のさなかでは、こうした自白は重く扱われやすい。結果として、思想だけでなく行動計画がある人物として裁かれた。

ここが、松陰の死因を「政治弾圧の犠牲」と片づけるだけでは足りない理由だ。政治の緊張と、本人の言葉が噛み合ってしまった。

吉田松陰の死因としての斬首は制度として執行された

「斬首」と聞くと、ただ首を落としただけのように思えるが、当時は執行に役割分担があった。山田浅右衛門は、刀の試し斬りや斬首に関わった家として知られ、7代目が松陰ら多くの志士を斬首したことで有名だ、と説明される。

松陰の執行についても、「山田浅右衛門が斬った」と伝えられる。ここで押さえたいのは、斬首が偶発的な暴力ではなく、幕府の制度として執行された処分だという点だ。つまり死因は制度上の「死罪」の帰結だ。

また「伝馬町牢屋敷」という場所も、単なる牢ではなく、取調べから執行までが行われうる拠点だった。史跡案内では、牢屋敷跡の周辺に終焉の地の碑や辞世碑が残ることが紹介される。碑を見れば、処刑が「どこで起きたか」を土地の上で確認できる。

だから、死因の説明は「斬首された」で終わらせず、「いつ・どこで・どういう手続きの末に」が伝わると、理解が一段深くなる。人物の評価と事実の確認を分けて語れるようになる。

吉田松陰の死因と結びつく辞世と『留魂録』

松陰の最期を語るとき、辞世の句が必ず出てくる。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」という一首だ。史跡案内では、この句が碑に刻まれていることが紹介される。

この歌は、門人へ向けた遺書『留魂録』の冒頭に掲げられた歌としても知られる。内容は難しい理屈ではなく、「体は滅びても、志は残したい」という気持ちを短い言葉に押し込めたものだ。だからこそ、後の時代に広く引用され、松陰像を形作った。

ただし、歌を美談として読むだけだと、死因の説明から離れてしまう。ここで大事なのは、死罪が決まったうえで、なお言葉で責任を引き受け、門人の行く先を考えた点にある。処刑の前後で「思想」と「行動」を結び直す役割を果たした。

辞世碑や留魂録を合わせて見ると、松陰の死が単なる終わりではなく、後に続く人へのメッセージとして組み立てられていることが分かる。碑文を読む行為自体が、当時の緊張を追体験する入口になる。

吉田松陰の死因の後に残った墓と改葬の意味

松陰の墓は一つではない。最初に葬られた場所として、小塚原回向院がよく挙げられる。松陰は回向院に葬られたのち、文久3年(1863)に世田谷区若林の松陰神社の地へ改葬された、と説明される。

現在、回向院の境内にあるのは当時の墓石で、史跡として参拝できる。近くに橋本左内など同じ大獄で処刑された人物の墓が並ぶため、安政の大獄が個人の事件ではなく、連続した処分だったと実感しやすい。

一方、若林側の墓域は、のちに整備され「烈士墓所」としてまとまっている。ここが長く手を合わせる場所になった経緯が分かる。

「終焉の地(伝馬町)」と「墓(小塚原・若林)」を結ぶと、死因の理解が立体になる。処刑の一日だけでなく、その後に何が残り、どう受け止められたかまで見える。

まとめ

  • 吉田松陰の死因は、死罪の執行による斬首だ
  • 最期の日付は旧暦の安政6年10月27日で、新暦では1859年11月21日になる
  • 年齢は満29と数え年30が併存するので、表記の違いは数え方の差として見る
  • 判決の場と執行の場は分けて考えると整理しやすい
  • 執行は伝馬町牢屋敷で行われたと説明される
  • 小塚原は埋葬(墓石が残る場所)として押さえると混乱しにくい
  • 背景には1858〜1859年の安政の大獄がある
  • 決定打として、間部詮勝への要撃策を語った供述が挙げられる
  • 斬首は制度として執行され、山田浅右衛門(7代目)が関与したとされる
  • 回向院から若林へ改葬された流れを追うと、死因の理解が立体になる