結論:中島敦の死因は持病の気管支喘息の悪化で、33歳の冬に世田谷の病院で亡くなった
1942年(昭和17年)12月4日の午前6時、中島敦は東京・世田谷の岡田病院(現・世田谷中央病院)で息を引き取りました。満33歳です。死因は、長く抱えていた気管支喘息の悪化で、薬の影響で心臓が弱っていたことも重なりました。
注目したいのは、その直前の時間の短さです。専業作家になったのは同じ年の秋で、没後に評価が高まる作品の多くは、亡くなる前の1年足らずのあいだに世に出ています。この記事では、最期の経緯を先に整理し、そのあとで代表作がどんな時代と体の状態のなかで書かれたかをたどります。
基本情報
- 生年:1909年(明治42年)5月5日、東京市四谷区(現・新宿区四谷三栄町)
- 没年:1942年(昭和17年)12月4日、東京市世田谷区の岡田病院。満33歳
- 時代:明治末〜昭和前期(昭和17年に没)
- 立場:小説家。東京帝国大学国文学科卒。横浜高等女学校の教員、南洋庁の国語編修書記を経て専業作家に
- 死因:気管支喘息の悪化(心臓の衰弱も重なった)
- 墓所:多磨霊園
- 代表作:『山月記』『文字禍』『光と風と夢』『李陵』『弟子』『名人伝』
中島敦の死因と最期|喘息の悪化から死去まで
持病の喘息と、教員時代からの悪化
中島敦は一高時代の1927年に肋膜炎で1年間休学するなど、若いころから体が強くありませんでした。大学を出て1933年4月に横浜高等女学校の教員となりますが、1939年ごろから気管支喘息が重くなり、1941年3月末には休職します。小説を書き進める力は残っていても、教壇に立ち続けるのは難しい体でした。
パラオ行きは療養と収入のため
休職の3か月後、1941年6月28日に横浜港を出て、パラオ・コロール町の南洋庁に国語編修書記として赴任しました。健康上の理由と収入を得る目的が重なっての赴任だったとされます。ところが現地では7月末から9月初めにかけてアメーバ赤痢とデング熱に苦しみました。同年12月31日には喘息を理由に東京への転勤を願い出て、1942年3月4日に出発、3月17日に帰国します。
赴任中は、島民に近代的な教育を施すことが本当に良いのかという疑問も抱き、教科書の仕事への熱意を失っていったとされます。療養のつもりの南方行きは、体を回復させる結果にはなりませんでした。
専業作家になって数か月、11月に入院
帰国後の1942年8月に南洋庁へ辞表を出し、9月に正式に辞令が出て専業作家になりました。同年11月に第二創作集『南島譚』を刊行したのち、喘息が悪化します。薬の影響で心臓にも負担がかかり、その月のうちに入院しました。
12月4日の午前6時、岡田病院で死去。最期の言葉は、書きたい、頭の中にあるものを出してしまいたい、という趣旨のものだったと伝えられています。葬儀は、家が神道だったため12月6日に神式で行われ、墓は多磨霊園にあります。
なお、亡くなる直前に戸籍を埼玉県久喜市に移していたことも記録されています。久喜は祖父・中島撫山が漢学塾を開いた土地です。
代表作と時代背景|書き急いだ1年を読む
『山月記』『文字禍』は、パラオから送った原稿が出発点
中島敦の名が世に出たきっかけは、パラオへ発つ前に原稿を深田久彌に預けたことでした。深田は「古譚」と題した作品を『文學界』に回し、1942年2月号に『山月記』と『文字禍』が載ります。『山月記』は中国の古い物語「人虎伝」を題材にした作品で、発表直後から芥川龍之介と比べて語られました。のちに批評家の吉川幸次郎や桑原武夫は、中島を芥川の亜流とする見方を否定し、その透明性と美しさを評価しています。
『山月記』は1950年以降、高校国語の教科書に載り続けてきました。授業で多くの人が出会う作家なのに、作者がその直後に33歳で亡くなったことは、あまり知られていません。
『光と風と夢』は芥川賞候補になったが、受賞は逃した
『光と風と夢』は、『宝島』で知られるスティーヴンソンが晩年をサモアで過ごした日々を描く作品です。もとは「ツシタラの死」という題の長い作品で、編集者の求めで縮めて改題されました。1942年5月号の『文學界』に載り、同年7月15日に最初の創作集として刊行されます。第15回芥川賞の候補になりましたが、受賞したのは石塚友二の『松風』で、中島の受賞はなりませんでした。
奇妙な符合として、中島が亡くなった12月4日は、スティーヴンソンがサモアで埋葬された日でもあります。
『李陵』『弟子』は没後に世に出た
『李陵』は1942年10月末ごろに原稿が完成し、没後の1943年7月号の『文學界』に掲載されました。中島の最後の作品で、代表作として高く評価されています。『弟子』は孔子の弟子・子路を主人公にした作品で、伯父の中島斗南が子路の人物像のモデルだと指摘されています。『名人伝』も没後に発表されました。
こうした漢文の素養は、家の来歴に根ざしています。祖父の撫山は久喜で漢学塾(幸魂教舎)を開いた漢学者、伯父の斗南は中国問題を論じた人物、もう一人の伯父は中国古代の文字を研究した学者でした。父の田人も漢文教員です。引き締まった文体は、この環境に育った人の文章として読むと理解しやすくなります。
没後に評価が定まるまで
1948年10月から1949年6月にかけて、筑摩書房から『中島敦全集』全3巻が刊行され、1949年に第3回毎日出版文化賞を受けました。三島由紀夫は、小さいが完成した作品を残した作家のひとりとして中島を挙げています。遺品や原稿は神奈川近代文学館の中島敦文庫に収められています。
ゆかりの地と関連する人物
- 多磨霊園(東京都):中島敦の墓所があります。
- 神奈川近代文学館:中島敦文庫として、原稿や遺品を所蔵しています。
- 久喜市(埼玉県):祖父・中島撫山が漢学塾を開いた土地です。
- パラオ・コロール町:南洋庁の国語編修書記として勤めた場所です。親しく付き合った土方久功と、1942年3月に一緒に帰国しました。
同じ時代の作家の最期を比べたいときは、森鷗外の死因と最期や、国木田独歩の死因と最期が参考になります。昭和の作家では川端康成の死因の記事もあります。
病気や死因を時代順に見たい場合は、歴史上の人物の死因一覧へどうぞ。
よくある質問
中島敦は何歳で亡くなりましたか。
満33歳です。1909年5月5日に生まれ、1942年12月4日に亡くなりました。
中島敦の死因は何ですか。
持病の気管支喘息の悪化です。薬の影響で心臓も衰弱しており、1942年11月に入院したのち、12月4日に死去しました。
『山月記』はいつ発表されましたか。
1942年2月号の『文學界』に、『文字禍』とともに「古譚」の題でまとめて掲載されました。中国の古い物語「人虎伝」を題材にした作品です。
中島敦は芥川賞を受賞しましたか。
受賞していません。『光と風と夢』が1942年上半期の第15回芥川賞の候補になりましたが、受賞したのは石塚友二の『松風』でした。
『李陵』は生前に発表されましたか。
いいえ。1942年10月末ごろに完成しましたが、掲載は没後の1943年7月号の『文學界』でした。






