北条氏綱

結論:北条氏綱は、父の拡大した領国を「北条」の名と制度で固めた後北条氏の第2代当主

北条氏綱は、長享元年(1487年)に生まれ、天文10年7月19日(1541年8月10日)に55歳で亡くなった戦国大名です。初代の伊勢盛時(北条早雲)の嫡男で、永正15年(1518年)に家督を継ぎました。

氏綱の仕事は大きく三つあります。大永3年(1523年)ごろに名字を伊勢から北条へ改めたこと、江戸城の攻略から第一次国府台合戦までの戦いで南関東に勢力を広げたこと、虎の印判状や検地、小田原城を中心とする支城体制で領国の統治を整えたことです。死の直前には嫡男の氏康に五か条の訓戒を残しました。

基本情報

  • 生没年:長享元年(1487年)生まれ、天文10年7月19日(1541年8月10日)没、享年55
  • 時代:室町時代後期(戦国時代)
  • 立場:後北条氏の第2代当主。初代・伊勢盛時(北条早雲)の嫡男
  • 母:幕府奉公衆・小笠原政清の娘
  • 幼名・通称:伊豆千代丸、新九郎
  • 主な業績:北条への改姓、江戸城攻略、第一次国府台合戦での勝利、虎の印判状による統治、鶴岡八幡宮の再建
  • 正室:養珠院(氏康の母)。継室:関白・近衛尚通の娘(近衛殿)

北条氏綱の生涯と戦い:家督相続から改姓、関東進出まで

北条氏綱の出自と家督相続

氏綱は、伊勢盛時の嫡男として生まれました。母は幕府に仕える奉公衆の小笠原政清の娘です。幼名は伊豆千代丸、通称は新九郎といい、当初は父と同じく伊勢氏を名乗っていました。

永正15年(1518年)、盛時の隠居によって家督を継ぎます。ここから、伊勢氏の当主は氏綱になりました。

北条氏綱の北条改姓と家名戦略

氏綱は、大永3年(1523年)6月12日から9月13日の間に、名字を伊勢から北条へ改めたと推定されています。正確な日が一つに絞れないのは、この期間のうちに改めたと推測する形でしか分からないためです。

この改姓は、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の後継を名乗る意味を持ちました。氏綱はのちに、北条義時・泰時が任じられた官職である左京大夫に任じられ、従五位下に列せられています。任官の年は、確かめた資料では分かりません。

この家は「後北条氏」とも呼ばれ、氏綱は第2代当主にあたります。

北条氏綱の江戸城進出と武蔵攻略

改姓と同じころ、氏綱は津久井城を押さえて相模全域を平定し、小机城を攻略して南武蔵を制圧しました。大永4年(1524年)正月には高輪原の戦いで扇谷上杉朝興を破り、江戸城を攻略します。

ただし、そのあとは楽ではありませんでした。大永5年(1525年)以降、氏綱は上杉氏、古河公方、武田氏、小弓公方らによる包囲網に苦しめられます。大永6年(1526年)11月には里見軍の侵攻で鶴岡八幡宮が焼失しました。その後、防衛に成功したと記されています。

天文年間には戦いが続きます。天文2年(1533年)7月に稲村の変、天文3年(1534年)3月に犬掛の戦い、天文4年(1535年)7月に山中の戦い(武田信虎側の勝沼信友らを破った戦い)がありました。天文6年(1537年)2月には駿河へ侵攻して河東地域を得ており、今川氏から独立した動きとして語られます。江戸城の攻略から13年後には、氏康が2000の兵で上杉朝定の本拠・河越城を急襲し、無傷で占領しました。氏綱は三男の為昌を城代に置いています。

北条氏綱の国府台合戦と房総勢力

天文7年(1538年)2月に葛西城を奪取した氏綱は、同年10月7日に始まった第一次国府台合戦で、小弓公方・足利義明を討ち取りました。この勝利で南関東での覇権を確立したと評価されています。

北条氏綱の晩年と死後

天文10年(1541年)5月、氏綱は病に倒れ、7月19日に亡くなりました。死の直前に、氏康へ五か条の訓戒を伝えています。

氏綱の本来の墓所は、旧早雲寺の春松院にありましたが、豊臣秀吉の軍勢による焼失で位置が分からなくなったとされます。箱根町の早雲寺にある北条五代の墓(供養塔)は、寛文12年(1672年)に北条氏治が盛時の命日(8月15日)に建てたものです。

北条氏綱の領国支配と政策:虎の印判、検地、支城、社寺

虎の印判と文書で進む統治

氏綱の家督相続とともに、伊勢(後北条)氏は虎の印判状を使うようになりました。印判のない徴収命令は無効とされ、郡代や代官による不法な搾取を抑える体制が整えられます。文書に印を押すという形式で、現場の役人に勝手をさせない仕組みです。

年代がはっきり確認できる現存例としては、享禄3年(1530年)付で藍瓶銭の徴収を許した文書があります。

代替わり検地と家臣団・城郭ネットワーク

氏綱は家督相続に伴って代替わりの検地を行い、伝馬制度の復活や直轄地(御領所)の設定も進めました。検地を行った年は、確かめた資料に明記がありません。

城については、盛時が大森氏から奪った小田原城に氏綱は在番していたと推定されています。氏綱は伊豆の韮山城に代わって小田原城を本城とし、伊豆・相模・武蔵に支城を置く体制を確立しました。本拠を小田原に移した点が、後の北条氏の姿につながります。

鶴岡八幡宮再建と社寺政策

前述のとおり、鶴岡八幡宮は大永6年(1526年)11月に里見軍の侵攻で焼失しました。再建の造営は天文元年(1532年)に始まり、天文9年(1540年)に上宮正殿が完成しました。全体の完成は氏康の代の天文13年(1544年)です。

鎌倉の中心である社の再建を担ったことは、「北条」を名乗った家が鎌倉ゆかりの権威を引き継ぐ姿勢とも重なります。ただし、氏綱の意図を直接述べた文は確かめられていないため、ここは重なって見えるという範囲にとどめます。

朝廷・公家との関係と婚姻

氏綱の継室は、関白・近衛尚通の娘である近衛殿です。結婚は享禄4年(1531年)から天文元年(1532年)ごろと推測されています。正室の養珠院は氏康を産み、子には為昌、氏尭のほか、足利晴氏の継室となった芳春院がいます。

北条氏綱が残した影響と評価:五か条の遺訓と史料上の論点

五か条の遺訓の中身

天文10年(1541年)5月、氏綱は死の直前に氏康へ訓戒状を与えました。要旨は次の五つです。

  • 大将から侍まで、義を重んじること
  • 侍から農民まで、慈しむこと
  • 驕らず、身の分限を守ること
  • 倹約に努めること
  • 勝利が続くと驕りや敵への侮りが生じるので、戒めること

「勝って兜の緒を締めよ」という言葉は、氏綱の遺言として知られています。ただ、この言葉の経緯までは、確かめた資料では述べられていません。五つ目の項目は、勝利が続くときの驕りを戒める内容です。

早雲の遺産を制度に変えた人物という評価

『北条記』は氏綱を、父のあとをよく守って後嗣としての功があった人物と評しています。また氏綱は、氏康の器量を高く評価し、優れた資質を認めていたと伝えられます。

領国の拡大だけでなく、虎の印判状、検地、支城体制といった統治の仕組みを整えた点が、氏綱の実績の中心です。その仕組みを受け継いだのが氏康でした。

史料と研究で残る論点

改姓の日が「6月12日から9月13日の間」としか言えないこと、検地や左京大夫任官の年が確かめられないこと、本来の墓所の位置が分からないことなど、氏綱には年代や場所がはっきりしない点が残ります。伝わる話をそのまま断定せず、分かる範囲と推定の範囲を分けて見ることが大切です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 小田原城(神奈川県小田原市):氏綱が本城とし、伊豆・相模・武蔵の支城体制の中心とした城
  • 早雲寺(神奈川県箱根町):北条五代の墓(供養塔)がある寺。現在の五代の墓は寛文12年(1672年)の建立
  • 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市):氏綱が再建を進め、天文9年(1540年)に上宮正殿が完成した
  • 江戸城:大永4年(1524年)の高輪原の戦いのあと、氏綱が攻略した城

関連する人物

  • 伊勢盛時(北条早雲):父で初代当主。氏綱は盛時の隠居で家督を継いだ
  • 北条氏康:嫡男で第3代当主。河越城の急襲を行い、遺訓を受けた
  • 北条為昌:三男。河越城の城代となった
  • 扇谷上杉朝興:高輪原の戦いで氏綱に敗れた
  • 足利義明:小弓公方。第一次国府台合戦で討たれた
  • 近衛尚通:関白。娘が氏綱の継室となった

よくある質問

北条氏綱はいつ「北条」に改姓したのですか。

大永3年(1523年)6月12日から9月13日の間と推定されています。執権北条氏の後継を主張する意味を持つ改姓でした。

北条氏綱は何歳で亡くなりましたか。

天文10年7月19日(1541年8月10日)に55歳(享年)で亡くなりました。同年5月に病に倒れ、死の直前に氏康へ五か条の訓戒を伝えています。

北条氏綱が江戸城を攻略したのはいつですか。

大永4年(1524年)正月の高輪原の戦いで扇谷上杉朝興を破り、江戸城を攻略しました。

第一次国府台合戦とは何ですか。

天文7年(1538年)10月7日に始まった戦いで、氏綱が小弓公方・足利義明を討ち取り、南関東での覇権を確立しました。

北条氏綱の墓はどこにありますか。

本来の墓所は旧早雲寺の春松院にありましたが、豊臣秀吉の軍勢による焼失で位置が分からなくなっています。箱根町の早雲寺には、寛文12年(1672年)に建てられた北条五代の墓(供養塔)があります。