結論:北里柴三郎は、破傷風の治療と予防への道を開き、日本の感染症研究の拠点をつくった細菌学者
北里柴三郎は、1889年にドイツで破傷風菌の純粋培養に成功し、翌1890年にはベーリングとの連名で、血清療法の基礎となる論文を発表した人物です。帰国後は福澤諭吉らの援助で伝染病研究所を設立し、1894年には政府の派遣で香港に渡ってペスト菌を調べました。
学問だけの人ではありません。結核の療養施設をつくり、日本医師会の初代会長を務め、慶應義塾大学医学部の創設にも関わりました。志賀潔や野口英世ら、のちに名を残す弟子が研究所に集まったことでも知られます。2024年7月に発行された新千円札の肖像にも採用されています。
基本情報
- 生年:1853年1月29日(嘉永5年12月20日)、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)
- 没年:1931年(昭和6年)6月13日、東京・麻布の自宅で脳溢血のため死去。満78歳(数え79歳)
- 時代:江戸末期に生まれ、明治・大正を中心に活動し、昭和初期に没した
- 立場:細菌学者・医学者。伝染病研究所、北里研究所の初代所長。貴族院勅選議員、男爵
- 主な業績:破傷風菌の純粋培養(1889年)、血清療法の開発(1890年)、香港でのペスト調査(1894年)、結核予防の活動、日本医師会の初代会長
- 弟子:志賀潔(赤痢菌を発見)、野口英世、北島多一、秦佐八郎など
北里柴三郎は何をした人?世界に知られた3つの研究と国際的な評価
破傷風菌の純粋培養に成功(1889年)
北里は1875年、22歳で東京医学校に入り、1883年に東京大学医学部を卒業して内務省衛生局に勤めました。1885年にドイツ留学を命じられ、翌1886年1月、ベルリン大学のコッホの研究室に入ります。ここで取り組んだのが破傷風菌です。
北里は1889年、破傷風菌だけを取り出して育てる純粋培養法に成功します。この成果が、翌年の血清療法の開発につながりました。
血清療法の開発(1890年)
翌1890年、北里は、菌や毒素を少しずつ動物に注射して、血清の中に毒素を打ち消す働きを生じさせる血清療法を開発しました。ジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清がつくられ、同じ年にベーリングとの連名で、動物のジフテリア免疫と破傷風免疫に関する論文が発表されています。
第1回ノーベル賞の候補になった
第1回ノーベル生理学・医学賞(1901年)で、北里は最終候補15名のうちの一人に残りました。しかし受賞したのは、連名論文の相手であるベーリングでした。北里が選ばれなかった理由として人種差別を挙げる声もありますが、Wikipediaには、それを示す明確な証拠は見つかっていないと書かれています。
香港でペストを調べる(1894年)
1894年、香港でペストが流行すると、北里は政府の派遣で現地に向かいました。同じ時期にはアレクサンダー・イェルサンも香港でペスト菌を見つけています。東京大学も青山胤通を派遣しましたが、青山はペストにかかりました。
北里が菌を発見した日付は、資料の書き方が分かれていて、6月とするものも、8月25日とするものもあります。そのため、この記事では「1894年に香港で調べた」とだけ書きます。また、森鷗外が北里の発見を批判したことも、Wikipediaに記されています。
北里柴三郎は何をした人?伝染病研究所から北里研究所へ、揺るがなかった立場
福澤諭吉の援助で伝染病研究所を設立
1892年5月に帰国した北里は、同年10月、福澤諭吉らの援助で芝公園内に私立伝染病研究所を設立しました。11月30日には大日本私立衛生会の委嘱を受けて所長となり、年間3,600円の支援を受けています。
1893年には結核療養施設の土筆ヶ岡養生園を設立しました。移転をめぐっては、芝区民の反対運動も起きています。1894年2月に研究所は芝区愛宕町に移り、ジフテリア抗血清の製造を始めました。1899年3月に研究所が内務省所管の国立となり、4月から北里が所長を務めました。1906年には白金台に新しい研究所が完成しています。これが現在の東京大学医科学研究所の前身です。
伝研騒動と北里研究所の設立(1914年)
1914年(大正3年)、伝染病研究所は内務省から文部省へ移され、東京帝国大学に合併される方針が示されました。北里はこれに反対して所長を辞任し、志賀潔ら職員も辞表を出しました。これが「伝研騒動」です。Wikipediaは、背景に東大の教授陣との個人的な確執があったと説明しています。
同年11月5日、北里は私費で北里研究所を設立し、初代所長に就きました。国の機関を離れても研究を続けるために、自分で場をつくった形です。
結核への取り組み
結核の分野では、1893年の養生園の設立に加え、1913年に日本結核予防協会を設立しました。1925年には、結核予防についてラジオで講演もしています。北里は在学中から「医者の使命は病気を予防することにある」と確信し、予防医学を生涯の仕事にしたと伝えられています。
北里柴三郎が育てた弟子たちと、医学界・教育界での活動
志賀潔・野口英世らが集まった研究所
弟子として知られるのは、赤痢菌を発見した志賀潔、1898年に伝染病研究所に入りペスト菌の確認などに携わった野口英世、北里のあとを継いで北里研究所や慶應の医学部の長を務めた北島多一らです。ほかに秦佐八郎、宮島幹之助、高野六郎の名も挙げられます。
門下生は北里を、ドイツ語で「雷おやじ」を意味する「ドンネル先生」と呼び、畏れつつも親しんだといいます。
コッホとの師弟関係
留学中の1887年、陸軍の石黒忠悳が北里を別の研究室へ移そうとしたことがありました。コッホが北里の将来性を強調したため、この異動命令は撤回されたとされています。コッホとは親しい師弟関係が続き、北里は1908年にコッホ夫妻を日本に迎えました。
慶應義塾大学医学部と福澤への恩返し
福澤への恩に報いるため、北里は1917年、慶應義塾大学部医学科の創立に尽力して学長となりました。1920年に医学部になると初代学部長を務め、終生無給で尽力したとされています。開院式では「予は福澤先生の門下生ではないが、先生の恩顧を蒙ったことは門下生以上である」と語ったと、Wikipediaにあります。
日本医師会の初代会長
1916年(大正5年)に大日本医師会を設立して会長となり、1923年に医師法に基づく日本医師会が発足すると、その初代会長も務めました。設立の年はWikipediaの中で1916年と1917年の記述が混在しているため、ここでは『1916年に設立、1923年に日本医師会となった』という書き方にとどめます。
名前の読み方
名字の読みは「きたざと」が本来とされています。留学中にドイツ語の発音に合わせて「Kitasato」と署名したことが、英語圏で「きたさと」と読まれる一因になったと記されています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 熊本県阿蘇郡小国町:生誕の地。北里柴三郎記念館があります。父は庄屋を務めた北里家の当主で、母は教育に厳しい人物だったとされます
- 青山墓地(東京):1931年6月17日に青山斎場で葬儀が営まれ、青山墓地に葬られました
- 東京大学医科学研究所:白金台の新しい伝染病研究所(1906年完成)を前身とする研究機関
- 慶應義塾大学医学部:北里が初代学部長を務めました
- 北里大学:北里を学祖とする大学
関連する人物
- ローベルト・コッホ:ベルリンの研究室での師
- エミール・フォン・ベーリング:血清療法の連名論文の相手。第1回ノーベル賞の受賞者
- 福澤諭吉:伝染病研究所の設立を支援した恩人
- 志賀潔、野口英世、北島多一:弟子
- 青山胤通:同じ1894年に東京大学からペスト調査に派遣された医師
よくある質問
北里柴三郎は何をした人ですか?
1889年に破傷風菌の純粋培養に成功し、1890年に血清療法を開発した細菌学者です。帰国後は伝染病研究所と北里研究所をつくり、結核予防や医師会、慶應義塾大学医学部の創設にも関わりました。
なぜノーベル賞をもらえなかったのですか?
第1回ノーベル生理学・医学賞で最終候補15名の一人に残りましたが、受賞はベーリングでした。人種差別が理由だったとする見方もありますが、明確な証拠は見つかっていないと説明されています。
北里柴三郎はどこで、いつ亡くなりましたか?
1931年6月13日の午前5時、脳溢血のため東京・麻布の自宅で亡くなりました。満78歳です。
野口英世とはどんな関係ですか?
野口英世は1898年に伝染病研究所に入り、北里のもとでペスト菌の確認などに携わりました。北里の門下生のひとりです。
新千円札の肖像になったのはいつですか?
肖像への採用は2019年4月9日に発表され、新千円札は2024年7月3日に発行されました。





