北条政子

結論:北条政子の墓は鎌倉の寿福寺にあると伝わる

北条政子の墓所として一般にあげられるのは、鎌倉市扇ガ谷の寿福寺です。境内裏手の墓地にある「やぐら」(岩壁を掘った横穴の墓所)が政子の墓と伝わり、息子の3代将軍・源実朝の墓も近くにあります。ただし「伝わる」であって、確定的に特定されたものではありません。

もう一つの名前が、大町の安養院です。こちらは政子の法号(戒名)が「安養院殿如実妙観大禅定尼」であり、その院号が寺名の由来になった寺です。政子が亡くなったのは嘉禄元年(1225年)、68歳のときでした。

この記事では、寿福寺と安養院それぞれで資料から確かめられること、確かめられないことを分けて書きます。訪ねる前に、拝観の範囲にも注意が必要です。

基本情報

  • 名前:北条政子(ほうじょう まさこ)
  • 生年:保元2年(1157年)、伊豆国の生まれ
  • 没年:嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)、鎌倉で死去。享年68
  • 時代:平安時代末期から鎌倉時代
  • 立場:源頼朝の妻。頼朝の死後に出家し、のちに「尼将軍」と呼ばれた
  • 家族:父は北条時政。子は頼家、実朝、大姫、三幡の4人
  • 法号:安養院殿如実妙観大禅定尼
  • 墓所:鎌倉市の寿福寺(やぐら)と伝わる

北条政子の墓はどこ?寿福寺・安養院の場所と行き方

寿福寺:やぐらの中に実朝と並ぶ

寿福寺は臨済宗建長寺派の寺で、鎌倉五山の第三位です。所在地は神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-17-7。JR鎌倉駅の西口から歩いて行けます。所要時間は、Wikipediaが徒歩15分、神奈川県の観光情報が約10分と、資料によって差があります。

墓地は寺の裏山のふもとにあります。中門を通るのではなく、いったん寺の外へ出て、横の道から坂と階段を上がる形です。途中に案内図があります。墓地の通路を奥へ進むと、まず北条政子の墓があり、さらに先に源実朝のやぐらがあって、中に五輪塔が立っています。実朝のやぐらの内壁には唐草模様が彩色されていて、かつては「唐草やぐら」と呼ばれていたようです。

Wikipediaの政子の項は、墓所を寿福寺とし、実朝の胴墓の隣にあるとしています。一方、寿福寺の項は、やぐらの中の五輪塔を政子と実朝の墓と「伝わる」ものとして書いています。実朝の項にも、寿福寺境内のやぐらの中に石塔があり、隣に母・政子の墓があると記されています。

寿福寺の拝観で気をつけること

寿福寺は、総門から中門までの参道と裏山の墓地が公開されています。中門から内側の境内は一般には公開されておらず、正月やゴールデンウイークなどの特別公開日に限って入れます。拝観料は通常は無料で、特別公開日は有料と案内されています。細かい条件は変わることがあるので、出かける前に寺や鎌倉市観光協会の最新の案内で確かめてください。

墓地には、俳人の高浜虚子、作家の大佛次郎、外交官・陸奥宗光の長男の墓などもあります。

安養院:政子の院号を名に持つ寺

安養院は鎌倉市大町3-1-22にある浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来です。アクセスは、JR鎌倉駅東口から京急バス(鎌31)で「大町四ツ角」下車、徒歩2分と案内されています。

この寺の前身の一つは長楽寺で、嘉禄元年(1225年)に政子が源頼朝の菩提を弔うために創建したと伝えられます。長楽寺は1333年の兵火で焼け、善導寺と統合されて安養院になりました。院号は政子の法号にちなみます。千手観音(田代観音)を安置し、坂東三十三観音と鎌倉三十三観音の第3番札所でもあります。

敷地には「安養院宝篋印塔」があります。1308年の建立とされる鎌倉時代後期の石塔で、国の重要文化財(1954年指定)です。Wikipediaでは、旧善導寺の唯一の遺構とされています。つまり、この塔は善導寺側の遺構として説明されており、政子の墓として紹介されているわけではありません。

Wikipediaの安養院の項には、境内の項目に「伝・北条政子の墓」があると記されています。ただし「伝」と付いており、どのような墓なのかの詳しい説明は、今回確かめた資料にはありません。そのため、この記事では「安養院は政子の墓所である」とは言い切りません。拝観時間や料金も、確かめられた資料に載っていなかったので、寺への確認をおすすめします。

2か所を回るときの目安

寿福寺は鎌倉駅の西口側、安養院は東口側にあります。両方を訪ねるなら、駅の東西を行き来する形になります。実朝のやぐらと並ぶ政子の墓を見たい場合は寿福寺、政子の名を冠した寺とその歴史を見たい場合は安養院、と目的を分けると回りやすくなります。

政子はなぜ寿福寺に?生涯と墓所をめぐる背景

夫の菩提を弔うために創建した寺

寿福寺は、頼朝の死の翌年にあたる正治2年(1200年)、妻の政子が開基となり、栄西を開山に招いて創りました。頼朝の死去は建久10年1月13日(1199年2月9日)です。

寺のある土地は源氏の父祖伝来の地とされ、頼朝の父・源義朝の旧邸があった場所でもあります。頼朝は当初ここに館を構えようとしましたが、堂宇が建てられていたことや土地の狭さから計画を変えたとされています。政子は自分が創った寺の山裾に眠っていると伝わるわけです。

実朝の墓が隣にある意味

実朝は建保7年1月27日(1219年2月13日)、鶴岡八幡宮で神拝を終えて退出する途中、公暁に襲われて亡くなりました。享年28です。実朝の項には、胴体は寿福寺のやぐらの中、首については諸説あると書かれています。『吾妻鏡』は勝長寿院に葬られたとし、首は見つからず代わりに髪を棺に入れたとします。『愚管抄』は首が雪の中から見つかったとします。秦野市には御首塚と五輪塔があるともされます。

このように実朝の墓所自体にも複数の伝えがあり、墓が一つに定まらないのは政子に限った話ではありません。政子の墓が実朝のやぐらの隣にあると伝わることは、息子を失った母が同じ山裾で眠るという見方もできますが、これは墓の位置関係からの私の読みで、史料に書かれた事実ではありません。

頼朝の墓とは別の場所

頼朝の墓所は、Wikipediaでは法華堂跡(鎌倉市西御門)と白旗神社(鶴岡八幡宮の境内)の2か所があげられています。政子の墓とされる寿福寺とは別の場所です。夫婦が同じ墓所に入っていない理由を説明する史料は、今回確かめた資料の中にはありません。

北条政子とはどんな人物か:尼将軍の生涯

伊豆の北条氏に生まれ、頼朝の妻に

政子は伊豆国で、北条時政の娘として生まれました。伊豆に流されていた源頼朝と結ばれたのは、治承元年(1177年)頃と推定されています。『吾妻鏡』によると、父の時政は婚姻に強く反対したものの、最終的には認めたとされます。頼朝との間に、頼家、実朝、大姫、三幡の4人の子がいました。

頼朝の死後、出家して幕府の実権に関わる

頼朝の死後、政子は落飾して尼御台と呼ばれました。2代将軍頼家、3代将軍実朝が相次いで暗殺されると、京から招いた幼い三寅(のちの藤原頼経)の後見となり、幕府の実権を握ったとされます。このことから「尼将軍」と呼ばれますが、この呼び名が生前から使われていたかどうかは、確実ではないと指摘されています。

承久の乱と晩年

承久3年(1221年)の承久の乱では、御家人に対し、頼朝の恩は「山よりも高く、海よりも深い」と述べたとされます。ただし『承久記』では政子自身が演説したとされる一方、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読したとされ、場面の細部は史料の書き方によります。

貞応3年(1224年)に弟の義時が急死したあとも、伊賀氏事件の処理や遺領の配分に関わりました。政子自身は嘉禄元年(1225年)に病の床につき、同年に亡くなっています。

ゆかりの地と関連する人物

  • 寿福寺(鎌倉市扇ガ谷):政子が開基となった寺。裏山の墓地に政子の墓と伝わるやぐらがあり、実朝のやぐらも近い。
  • 安養院(鎌倉市大町):政子の法号を院号に持つ寺。前身の長楽寺は、政子が頼朝の菩提を弔うために創建したと伝えられる。
  • 鶴岡八幡宮:実朝が暗殺された場所。
  • 法華堂跡・白旗神社(鎌倉市):頼朝の墓所とされる。
  • 源頼朝:政子の夫。鎌倉幕府を開いた初代将軍。
  • 源実朝:政子の子で3代将軍。寿福寺のやぐらに葬られたと伝わる。
  • 北条時政・北条義時:政子の父と弟。幕府の政治を担った。
  • 栄西:寿福寺の開山。

よくある質問

北条政子の墓は本当に寿福寺にあるのですか?

Wikipediaは墓所を寿福寺とし、実朝の胴墓の隣にあると記しています。ただし寿福寺の項では、やぐらの中の五輪塔は政子と実朝の墓と「伝わる」ものとして書かれており、確定した話ではありません。

安養院に政子の墓はありますか?

安養院は政子の法号にちなんだ院号を持つ寺で、前身の長楽寺は政子が創建したと伝わります。また、Wikipediaの安養院の項には、境内に「伝・北条政子の墓」があると記されています。ただし「伝」とされるもので、詳しい説明は確かめた資料にありません。現地の案内を確認してください。

寿福寺の墓にはいつでも参拝できますか?

墓地は通常から公開されていると案内されています。一方、中門から内側の境内は、正月やゴールデンウイークなどの特別公開日以外は入れません。墓地へは、寺の外に出て横の道から坂と階段を上がります。

政子と頼朝の墓は同じ場所ですか?

別の場所です。頼朝の墓所は法華堂跡と白旗神社があげられており、政子の墓と伝わる寿福寺とは離れています。

「尼将軍」は政子の生前からの呼び名ですか?

生前に使われたかどうかは確実ではないとされています。頼朝の死後に落飾して尼御台と呼ばれ、三寅の後見として幕府の実権を握ったことから、後にこの名で知られるようになりました。