阿部信行 日本史トリビア

結論:阿部信行は「陸軍の支持で首相になり、140日で行き詰まった」軍人政治家

阿部信行(あべ のぶゆき)は、石川県出身の陸軍大将です。予備役にあった1939年(昭和14年)8月30日に第36代内閣総理大臣に就任しました。就任は63歳のときです。

内閣は1940年(昭和15年)1月16日に総辞職し、在任は140日でした。行政の経験がなく、短命が予想されていた内閣だったと Wikipedia にあります。

首相をやめたあとも活動は続きました。翼賛政治会の初代総裁、第9代朝鮮総督を務め、朝鮮総督としては日本の敗戦を迎えています。戦後はA級戦犯容疑で逮捕されながら、東京裁判の起訴予定者から外されました。これが「謎」の一つとされています。

基本情報

  • 生没年:1875年(明治8年)11月24日〜1953年(昭和28年)9月7日(77歳)
  • 出身:石川県金沢
  • 時代:明治〜昭和時代
  • 立場:陸軍大将、政治家。第36代内閣総理大臣、第9代朝鮮総督
  • 首相在任:1939年8月30日〜1940年1月16日(140日)
  • 死因:狭心症
  • 墓所:京都の大徳寺芳春院、金沢野町の全昌寺

阿部信行の経歴と内閣発足の背景

砲兵将校から陸軍次官へ

阿部は陸軍士官学校の第9期を出て砲兵将校になりました。陸軍大学校は第19期で、1907年11月30日に卒業しています。席次は3位で、恩賜の軍刀を受けました。

その後は、1923年に参謀本部総務部長、1926年に陸軍省軍務局長を務めました。1928年8月10日には陸軍次官になっています。1930年6月から12月までは陸軍大臣の臨時代理でした。さらに第4師団長、台湾軍司令官を経て、1933年6月に陸軍大将へ進みます。

予備役編入のきっかけは二・二六事件後の粛軍

1936年3月、二・二六事件のあとの粛軍で、大将7人が予備役に編入されました。この人事は阿部の発案で、阿部自身もその一人になりました。現役を離れていた阿部が、3年後に首相に選ばれたことになります。

平沼内閣の総辞職と、陸軍に推された後継

1939年8月、平沼騏一郎内閣は独ソ不可侵条約を受けて総辞職しました。後継に阿部が選ばれた経緯について、Wikipedia の阿部内閣のページは次のように書いています。

  • 陸軍が阿部を推し、西園寺公望と内大臣の湯浅倉平も賛成した
  • 陸軍省軍務課長の有末精三が阿部を担いだとされる
  • 昭和天皇はこうした動きに不快感を示したとされる

阿部は8月30日に首相に就任しました。

陸軍大臣には畑俊六が就きました。天皇は梅津美治郎か畑俊六を希望しましたが、陸軍は畑を推挙し、梅津は選ばれませんでした。外務大臣には海軍大将の野村吉三郎が任じられ、英米協調の希望に沿った人事とされます。それまでは、阿部自身が外務大臣を兼ねました(9月25日まで)。立憲民政党と立憲政友会からも、それぞれ1人が入閣しています。

同郷の石川県出身者が多かったため、この内閣は「阿部一族」「石川内閣」とも呼ばれました。

阿部内閣は何をしたのか:不介入声明と総辞職

就任2日後に始まった第二次世界大戦

首相就任のわずか2日後の1939年9月1日、第二次世界大戦が始まりました。阿部内閣は9月4日に声明を出しています。内容は、ヨーロッパの戦争には介入せず、日中戦争(当時の呼び名は「支那事変」)の処理に専念するというものです。

阿部は、ドイツとの軍事同盟が米英との対立を招くと考えていたと伝えられています。ただし外相の野村吉三郎が進めた英米との関係調整は、実を結びませんでした。

中国での新政権づくり

1940年1月8日には、中国に新しい中央政府を作る方針が閣議決定されました。内閣が最後にまとめた大きな方針の一つです。

政党への協力要請と、不信任案

基盤が弱い内閣は、政党の力を借りようとしました。1939年11月には、民政党の党首・町田忠治に入閣を求めましたが、断られています。年末の第75回帝国議会の召集に合わせて、民政党が内閣不信任を突きつけました。

阿部は衆議院の解散も考えました。しかし軍が反対し、1940年1月16日に総辞職しました。在任140日は、官邸のページにも記録されています。

なお、旧来の記述でよく挙がる価格統制や日米通商航海条約の失効などは、今回確かめた資料の範囲では阿部内閣の業績として確認できなかったため、ここでは取り上げません。

阿部信行をめぐる謎と晩年:朝鮮総督から東京裁判まで

首相退任後の役職

退任後の1940年4月から12月まで、阿部は中華民国特派大使を務めました。1942年には翼賛政治体制協議会の会長(2月23日〜5月5日)になり、5月20日に成立した翼賛政治会の初代総裁として1944年8月14日まで務めました。貴族院の勅選議員でもあり、在任は1942年5月18日から1946年2月22日までです。

第9代朝鮮総督として迎えた終戦

1944年7月24日、阿部は小磯國昭の後任として第9代朝鮮総督に就きました。1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾すると、朝鮮では呂運亨らが朝鮮建国準備委員会を作りました。8月21日にソ連軍が平壌に進駐し、25日にはアメリカ軍が仁川に上陸しています。

9月7日、アメリカ極東軍司令部が朝鮮での軍政を宣言しました。9月9日に総督府は降伏文書に調印し、阿部も降伏調印式に出席したとされます。阿部は9月19日に朝鮮を発ち、飛行機で帰国しました。総督府の廃止は、事実上は1945年9月12日、法規上は1949年6月1日とされています。

「謎」とされる東京裁判の起訴予定者からの除外

戦後、阿部はA級戦犯容疑で逮捕されました。しかし、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれる直前に、起訴予定者から外されたとされています。その理由は、はっきりしていません。Wikipedia はこれを、東京裁判の謎の一つと紹介しています。理由を断定できる材料は、今回確かめた資料にはありません。

1946年10月に公職追放となり、東京の自宅で謹慎して過ごしました。追放は1952年3月に解除されましたが、このころ阿部は脳軟化症で自宅療養中でした。1953年9月7日、狭心症で亡くなっています。死去の時点で、首相経験者のなかで最年長かつ最古参でした。天皇・皇后からは、侍従の徳川義寛を通じて祭粢料と花が贈られています。

どんな人物と評されたか

阿部は、軍事の将軍というより「処世の将軍」と評されたことがあります。一方で、陸軍内では人情味のある人物として慕われたとも伝わります。縁のない部下の遺族を経済的に援助し、葬儀まで世話したことが美談になっています。田中義一の命日には、毎年墓参りをしたとも言われます。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 金沢(石川県):阿部の生まれた地です。墓所の一つ、野町の全昌寺があります。
  • 大徳寺芳春院(京都):もう一つの墓所です。

関連する人物

  • 野村吉三郎:阿部内閣の外務大臣を務めた海軍大将。
  • 畑俊六:阿部内閣の陸軍大臣。
  • 井上成美:海軍大将。阿部とは相婿の関係にあります。
  • 稲田正純:陸軍中将。阿部の長女・和子の夫で、阿部の娘婿にあたります。
  • 阿部信弘:阿部の二男で陸軍少佐。1944年10月19日、爆装機でニコバル諸島付近のイギリス艦隊に突入して戦死し、中尉から二階級特進しました。

よくある質問

阿部信行はなぜ首相に選ばれたのですか?

1939年8月に平沼内閣が総辞職した際、陸軍が阿部を推し、西園寺公望と内大臣の湯浅倉平も賛成したためです。昭和天皇はこの動きに不快感を示したとされます。

阿部内閣はなぜ140日で終わったのですか?

政党の協力が得られず、年末の議会の召集に合わせて民政党が内閣不信任を突きつけました。衆議院の解散を考えましたが、軍が反対し、1940年1月16日に総辞職しました。

阿部内閣は第二次世界大戦にどう対応しましたか?

1939年9月4日に声明を出し、ヨーロッパの戦争には介入せず、日中戦争の処理に専念する方針を示しました。

阿部信行は戦後、裁かれたのですか?

A級戦犯容疑で逮捕されましたが、東京裁判の開廷直前に起訴予定者から外されたとされます。1946年10月に公職追放となり、1952年3月に解除されました。

阿部信行は何歳で、何が原因で亡くなりましたか?

1953年9月7日、77歳で、狭心症のため亡くなりました。