後醍醐天皇 日本史トリビア

結論:後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治「建武の新政」を始めたが、約2年半で崩れた

後醍醐天皇は、1318年に31歳で即位した大覚寺統の天皇です。1324年の正中の変と1331年の元弘の変という二度の倒幕計画を経て、1333年に鎌倉幕府を滅ぼしました。幕府の滅亡後は、天皇が自ら政治を行う「建武の新政」を始めます。

ところが、新政は足利尊氏との対立で行き詰まり、1336年の湊川の戦いの後に崩壊しました。天皇は吉野に朝廷を開いて抵抗を続け、1339年に吉野の行宮で亡くなっています。

この人物の評価は研究者の間でも分かれています。「急進的な独裁者」とみる見方がある一方、制度面を鎌倉時代の制度の集大成として再評価する見方もあります。この記事では、出来事を日付つきで追いながら、評価が割れる点を分けて紹介します。

基本情報

  • 生没年:正応元年(1288年)11月2日(西暦11月26日)〜延元4年(1339年)8月16日(西暦9月19日)。没年齢は数えで52歳
  • 名前:諱は尊治(たかはる)。足利尊氏の「尊」の字は、後醍醐天皇から与えられたもの
  • 時代:鎌倉時代末期〜南北朝時代
  • 立場:第96代天皇。父は後宇多天皇、祖父は亀山天皇。大覚寺統に属する
  • 即位:文保2年(1318年)2月26日(西暦3月29日)に31歳で即位
  • 主な出来事:正中の変(1324年)、元弘の変(1331年)、隠岐配流(1332年)、鎌倉幕府の滅亡(1333年)、建武の新政、吉野遷幸
  • 崩御の地:吉野行宮(奈良県)
  • 陵:塔尾陵(とうのおのみささぎ)

後醍醐天皇は何した?倒幕計画から鎌倉幕府の滅亡まで

正中の変(1324年):疑われたが天皇は罪に問われなかった

1324年、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとしているという疑いが持ち上がりました。幕府の出先機関である六波羅探題は、側近の日野資朝を処罰します。ただし幕府の結論では、天皇本人に罪はないとされました。

『太平記』は天皇を計画の中心として描いていますが、河内祥輔はこの事件を冤罪とみています。計画があったのか、どこまで天皇が関わったのかは、いまも見方が分かれる点です。

同じ年の「無礼講」についても説があります。この無礼講で開かれた飲茶会が、「闘茶」だったのではないかと推測されています。

元弘の変(1331年):笠置山で捕らえられ、隠岐へ

1331年、吉田定房の密告によって計画が発覚しました。後醍醐天皇は三種の神器を持って京都を出て、兵を挙げます。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山でも敗れて捕らえられました。

幕府は天皇を退位させ、持明院統の光厳天皇を立てます。笠置山の陥落は元弘元年9月、楠木正成が守った下赤坂城が焼かれて姿を消したのは同年10月のことでした。

翌1332年、後醍醐天皇は隠岐へ流されます。島根県の知夫村には、上陸の地や古海坊の跡など、このときの伝承が残っています。

隠岐からの脱出と鎌倉幕府の滅亡(1333年)

1333年閏2月24日(西暦4月9日)、天皇は名和長年の助けを受けて隠岐を脱出し、伯耆国の船上山で兵を挙げました。

流れを変えたのは幕府側の武将の離反です。同年5月7日、足利高氏(のちの尊氏)が六波羅探題を攻め落とします。関東では新田義貞が鎌倉を攻め、5月22日には北条高時が東勝寺で自害しました。このとき約800人が運命をともにしたと伝えられています。鎌倉幕府はこうして滅びました。

後醍醐天皇が京都に戻ったのは6月5日(西暦7月17日)です。

参考:日本語版Wikipedia「後醍醐天皇」「元弘の乱」

建武の新政は何を目指し、なぜ崩れたのか

新政の政策:幕府も摂政・関白もない体制

建武の新政では、幕府と摂政・関白が廃止されました。皇統も大覚寺統にまとめられます。天皇のもとには、記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所といった機関が置かれました。雑訴決断所は土地をめぐる訴えを扱う機関で、1333年9月ごろに設けられています。

元号は1334年1月29日(西暦3月5日)に「建武」へ改められました。名は、後漢の光武帝が用いた年号にならったものです。

地方には、陸奥将軍府と鎌倉将軍府が置かれ、前者には北畠顕家、後者には足利直義がつきました。

綸旨が万能だったのか:評価の分かれ目

1333年6月15日の命令で、新たに土地の権利を得たり訴えを起こしたりするには、天皇の命令書である綸旨が必要とされました。ところが7月には「諸国平均安堵令」が出され、この命令の内容は大きく改められています。

この点について、佐藤進一は後醍醐天皇を、綸旨に頼る独裁者とみました。一方、伊藤喜良は1998年の論文以降、建武政権の法制度を鎌倉時代の制度の集大成として再評価する流れを作りました。急進的で混乱を招いたとみるか、制度面を再評価するかで、同じ政策の見え方が変わります。

乾坤通宝と内裏造営:大きな計画と未完の部分

1334年3月28日には、新しい銅銭「乾坤通宝」と紙幣「楮幣」の発行が命じられました。ただし乾坤通宝は、現存する実物が確認されていないとされています。

1335年には内裏の造営も始まり、6月15日に造大内裏行事所が動き出しました。戦乱の直後にこれだけの計画を進めたことは、新政の大きな特徴です。

二条河原の落書:新政への風刺

建武年間の京都に掲げられたとされる「二条河原の落書」は、新政期の混乱を皮肉った史料です。『建武年間記』に載り、七五調で88節にわたります。

書き出しは「此頃都ニハヤル物」で始まり、「夜討、強盗、謀にせ綸旨」と、世にはびこる悪事を並べています。成立は建武元年(1334年)8月とする説が有力ですが、建武2年(1335年)8月とする説もあり、確定はしていません。

足利尊氏との対立と吉野への遷幸

中先代の乱と尊氏の離反

1335年7月14日、北条高時の遺児・北条時行が鎌倉で挙兵しました。中先代の乱です。足利尊氏は天皇の許可を得ないままこれを鎮め、8月19日に鎌倉を取り戻します。

尊氏は鎌倉で自分に従った者に恩賞を与えました。後醍醐天皇はこれを新政からの離反とみなし、新田義貞に尊氏追討を命じます。

湊川の戦いと楠木正成の死

1335年12月には箱根・竹ノ下の戦いで足利方が勝ち、その後、足利軍は京都に入ります。5月25日(西暦7月4日)の湊川の戦いでは、新田・楠木の軍が敗れ、楠木正成が戦死しました。新田義貞は京都に退きます。建武の新政は約2年半で崩壊しました。

吉野の朝廷と崩御(1339年)

足利軍が京都に入ると、後醍醐天皇は比叡山に移り、のちに神器を渡します。その後、幽閉先を抜け出して吉野に朝廷を開き、南北朝時代が始まりました。この間の細かい日付は、参照した資料からは確かめられません。

1339年8月15日、天皇は義良親王(のちの後村上天皇)に譲位し、翌16日に亡くなりました。「後醍醐院」の追号が贈られたのは10月11日です。

遺言として知られるのが、「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」という言葉です。ただしこれは『太平記』に書かれたもので、天皇自身の言葉がそのまま伝わっているとは限りません。『太平記』は遺言どおり火葬せず土葬にしたとも記しますが、土葬を裏づける史料はないという指摘もあります。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 塔尾陵(奈良県吉野郡吉野町・如意輪寺内):後醍醐天皇の陵とされ、北向きに造られています。京都への思いを表すと説明されます
  • 吉野神宮(吉野山):1889年に建てられ、後醍醐天皇を祀っています
  • 知夫村(島根県・隠岐):上陸の地、古海坊の跡、天皇が腰掛けたと伝わる石など、配流の伝承が残ります
  • 船上山(伯耆国):隠岐から脱出した天皇が兵を挙げた場所です

関連する人物

  • 足利尊氏:倒幕の功臣で、のちに天皇と対立した。「尊」の字は後醍醐天皇の名から受けた
  • 楠木正成:元弘の変で下赤坂城に拠り、湊川の戦いで戦死した
  • 新田義貞:鎌倉を攻めて幕府を滅ぼし、湊川の戦いでは敗れて京都に退いた
  • 名和長年:隠岐を出た天皇の脱出を助けた
  • 後村上天皇:天皇の死の前日に譲位を受けた、南朝の次の天皇

よくある質問

後醍醐天皇は何をした人ですか?

二度の倒幕計画の末、1333年に鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政を始めた天皇です。新政が崩れたあとは吉野に朝廷を開き、南北朝時代のきっかけを作りました。

建武の新政はなぜ失敗したのですか?

足利尊氏との対立が決定的な原因です。政策の面でも、綸旨をめぐる命令の変更や大規模な造営計画などが混乱を招いたと評されます。ただし、制度面を再評価する研究もあります。

後醍醐天皇はどこで亡くなりましたか?

1339年8月16日(西暦9月19日)、吉野の行宮で亡くなりました。陵の塔尾陵は、吉野山の如意輪寺の中にあります。

「玉骨は…」の遺言は本当ですか?

この言葉は『太平記』に書かれたものです。天皇自身の言葉が正確に伝わったかどうかは、確かめられていません。