結論:記念館と生家は佐賀市水ヶ江にあり、大隈重信の生涯を「生まれた家」と「資料」の両方でたどれる
大隈重信記念館は、佐賀市水ヶ江にある大隈重信の顕彰施設です。1967年(昭和42年)10月に、大隈の誕生125年を記念して開館しました。隣には、1838年(天保9年)に大隈が生まれた家(旧宅)が残り、国の史跡に指定されています。
大隈は佐賀藩出身で、「佐賀の七賢人」の一人に数えられます。明治政府で財政や外交に関わり、早稲田大学の前身・東京専門学校を創設し、2度、内閣総理大臣を務めました。記念館には、その生涯を伝える資料のほか、1889年の遭難事件で右脚を失った後に使った義足も保存されています。
基本情報
- 人物:大隈重信(おおくま しげのぶ)
- 生没年:1838年3月11日(天保9年2月16日)〜1922年(大正11年)1月10日、83歳
- 時代:江戸末期〜明治・大正
- 立場:佐賀藩士の長男として生まれ、のちに政治家・教育者。内閣総理大臣を2度務めた(1898年、1914〜1916年)
- 記念館の所在地:佐賀市水ヶ江二丁目11番11号
- 開館時間:午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
- 休館日:毎週月曜日(月曜が祝日の場合は翌平日)、12月29日〜1月3日。臨時休館もある
- 観覧料(佐賀市の案内):大人330円、こども160円。20人以上の団体は大人220円、こども110円。障がい者手帳などによる減免がある
- 駐車場:50台
開館時間や料金は変わることがあります。出かける前に、佐賀市の公式ページで最新の案内を確かめてください。
大隈重信記念館と生家の歴史:何があり、どう生まれたのか
国の史跡になっている旧宅(生家)
旧宅は、大隈が1838年に生まれた家です。佐賀市の案内によると、天保より前の武家屋敷の面影を残しており、平屋の茅葺きに、一部が二階建ての瓦葺きの部分が加わった造りです。庭には、政治家の波多野敬直による「大隈重信侯の誕生地」の記念碑があります。
生まれた場所は、記録では佐賀城下の会所小路で、現在の佐賀市水ヶ江町にあたります。大隈家は家禄400石の家で、父は大隈信保、母は三井子です。
生誕125年を記念した記念館の建築
記念館は1966年に竣工し、翌1967年に開館しました。文化遺産オンラインによると、設計は今井兼次、鉄筋コンクリート造の2階建てで、建築面積は223平方メートルです。設計では曲面を多く使い、佐賀県の木である楠の根幹と大隈の身体を表現したとされ、室内にはステンドグラスが用いられています。旧宅の東方に、北向きで建っています。
この建物は、2017年6月28日に登録有形文化財(建造物)に登録されました。1984年と2015年に改修があったと記録されています。
見学のしかたとアクセス
公共交通なら、佐賀駅バスセンターから片田江方面行きのバスに乗り、「大隈重信記念館入口」で降りて徒歩で向かいます。車なら佐賀大和インターチェンジから約25分です。史跡の生家と記念館は隣り合っているので、続けて見学できます。
大隈重信とは?記念館の展示につながる生涯と業績
佐賀の七賢人と若き日の大隈
「佐賀の七賢人」は、鍋島直正、島義勇、佐野常民、大木喬任、副島種臣、江藤新平、大隈重信の7人を指す呼び名で、幕末から明治にかけて活躍した佐賀藩出身者です。
大隈は1854年(安政元年)に、藩校・弘道館の朱子学中心の教育に反発して改革を訴え、1855年に南北騒動をきっかけに退学しました。のち1861年には、蘭学寮を合併した弘道館に教授として着任しています。長崎では英学を学び、1867年には致遠館でグイド・フルベッキに学びました。同じ年、副島種臣と徳川慶喜に大政奉還を勧める計画を立てて脱藩しましたが、捕らえられて佐賀に送り返され、1か月の謹慎となりました。
維新後の財政・鉄道・通貨
1868年には長崎に赴き、浦上四番崩れの交渉でパークスと渡り合いました。1869年(明治2年)1月に参与となり、同年7月から大蔵大輔を務めます。1873年から1880年までは大蔵卿でした。
鉄道では、1869年に東京〜京都の幹線と東京〜横浜線の敷設が廟議で決まりました。1872年6月に品川〜横浜間で仮営業が始まり、同年10月14日に開業しています。軌間は1,067ミリの狭軌で、大隈は後に、これを「一世一代の失策」と語ったと伝わります。通貨では、新貨条例の制定などに関わり、「円」を単位とする制度づくりに携わりました。
早稲田大学の創設と2度の首相
1881年(明治14年)の政変で大隈は罷免され、10月12日に辞任が公表されました。翌1882年4月に立憲改進党の総理となり、同年10月21日には東京専門学校を創設します。これが現在の早稲田大学で、大隈は初代総長を務め、「大隈老侯」と呼ばれました。
1898年6月30日には、板垣退助との連立で内閣を組織しました。日本初の政党内閣とされる、いわゆる隈板内閣です。大隈は首相と外務大臣を兼ね、同年10月31日に辞表を提出しました。2度目は1914年(大正3年)4月16日から1916年10月9日までの第2次大隈内閣で、組閣時は76歳でした。退任時は78歳6か月で、歴代首相の最高齢記録とされています。
記念館で知りたい逸話:義足、125歳説、妻・綾子
遭難事件と義足
1889年(明治22年)10月18日、外務大臣として条約改正交渉を進めていた大隈は、玄洋社の来島恒喜が投げた爆弾で襲われました。命は助かりましたが、右脚を大腿の下3分の1で切断しています。以後、大隈は義足を着けるようになり、その義足は佐賀市の大隈記念館に保存されています。
切除された右脚は、1999年に佐賀市の龍泰寺に安置されました。龍泰寺は大隈家の菩提寺です。早稲田大学のキャンパスにある立像は、右足を失った後の姿で杖をついており、高さは289センチです。
「人生125歳説」
大隈は、人間は25年を5回生きる能力を持つ、という説を唱えました。これが「人生125歳説」です。早稲田大学の大隈講堂の時計台は125尺(約37.9メートル)で、2007年には創立125周年の式典が開かれています。記念館の開館が「誕生125年」に合わせられたことと重なる数字です。
演説の録音
1915年(大正4年)の総選挙の応援演説が、蝋管に録音されていました。この音声は2007年に東京大学先端科学技術研究センターにより公開されています。
妻・綾子
後妻の綾子(1850〜1923年)は、旗本・三枝七四郎の次女で、1869年(明治2年)に20歳で大隈と結婚しました。大隈にとっては再婚で、前妻は美登です。明治14年の政変の後の苦しい時期には、節約や土地の売却で夫を支えたとされます。大隈から「うちの番頭」と呼ばれて信頼され、邸宅は客を迎える場として「世界の客間」と呼ばれました。江藤新平の遺児・新作を育てたことでも知られます。綾子は大隈の死の翌年、1923年4月28日に亡くなりました。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 大隈重信旧宅(生家):佐賀市水ヶ江。国の史跡で、記念館の隣にある。庭に誕生地の記念碑がある
- 龍泰寺(佐賀市):大隈家の菩提寺。大隈の墓所があり、切除された右脚も安置されている
- 護国寺(東京都文京区):大隈の墓所がある
- 早稲田大学(東京都新宿区):東京専門学校を前身とする。大隈講堂や立像がある
関連する人物
- 鍋島直正・島義勇・佐野常民・大木喬任・副島種臣・江藤新平:ともに「佐賀の七賢人」に数えられる
- 副島種臣:1867年、大隈とともに大政奉還の勧めを計画した
- グイド・フルベッキ:致遠館で大隈に英学を教えた
- 板垣退助:1898年、隈板内閣で大隈と連立した
よくある質問
大隈重信記念館はいつ開館しましたか?
1967年(昭和42年)10月です。大隈の誕生125年を記念して建てられ、のちに1984年と2015年に改修されています。
生家は見学できますか?
記念館の隣に旧宅があり、国の史跡に指定されています。茅葺きの武家屋敷の面影を残す建物で、庭には誕生地の記念碑があります。
義足はどこで見られますか?
佐賀市の大隈記念館に保存されています。右脚を切断した1889年の遭難事件の後に使われたものです。
「七賢人」とは誰のことですか?
鍋島直正、島義勇、佐野常民、大木喬任、副島種臣、江藤新平、大隈重信の7人を指す、佐賀藩出身者の呼び名です。
休館日と開館時間は?
午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)で、毎週月曜日と12月29日〜1月3日が休館です。月曜が祝日の場合は翌平日が休みになります。





