足利義政は何代目か、と聞かれると答えは一つに見える。ところが史料や本によって数字が違うように書かれ、戸惑う人が多い。数字の違いは誤りとは限らない。結論だけ暗記すると混乱する。
室町幕府の征夷大将軍を初代足利尊氏から数えるのか、将軍家の家督の継承だけを数えるのか。さらに在職の年を何年までと区切るかで、年号表記にも違いが出やすい。足利将軍は十五代まで続くため、途中の整理が大切だ。
基準をそろえると結論は明快だ。義政は室町幕府の第八代征夷大将軍で、十五世紀の1449年に就き、1473年に譲ったとされる。父は六代義教で、兄の義勝の死後に将軍となった。のちに東山殿とも呼ばれる。
義政の名は、応仁の乱の発端となった後継問題と結び付けて語られる一方、銀閣に象徴される東山文化の中心人物としても知られる。乱世のただ中でも文化は積み重なり、書院造や庭園、茶の湯の美意識が整う流れが生まれた。
足利義政は何代目かの結論
結論は室町幕府の八代将軍
足利義政は、室町幕府の第八代征夷大将軍である。将軍の代数は、初代の足利尊氏から数えるのが一般的で、義政はその八番目に位置する。
前の将軍は七代の足利義勝で、次の将軍は九代の足利義尚である。系図の流れを押さえると、義政の立ち位置が見えやすい。
在職は1449年に始まり、1473年に将軍職を譲ったとされる。年の区切りをめぐり、表記が1年ほど違う場合もあるが、八代である点は動かない。
義政は六代将軍義教の子で、兄の義勝が早くに亡くなったため、幼少で家督を継いだ。政治の主導権は管領や有力守護に傾きやすく、将軍の統制力が試される時期だった。
征夷大将軍は朝廷から任じられる官職で、代数はその就任者を順に並べたものになる。だから「室町幕府の将軍として何代目か」と問うなら、答えは八代で確定する。この基準が最も広く使われる。
将軍職を退いた後も影響力を保ったため、在任年だけで人物像を測れない点が、ややこしさの源でもある。
何を数えると何代目になるのか
「何代目」は、同じ家の中で役職や立場をどう数えるかで意味が変わる。足利義政の場合、もっとも一般的なのは「室町幕府の征夷大将軍」を初代尊氏から順に数える用法だ。
一方で、足利将軍家の「家督を継いだ順」を強調して語られることもある。将軍に就いていない人物が後継として立てられたり、途中で退いたりすると、数え方の説明が必要になる。
また、将軍職の在任年と、実際に政務へ関わった期間は一致しないことがある。義政は将軍職を譲った後も、後継問題や人事に影響を与え続けたためだ。だから「何代目」と同時に「いつまで将軍だったか」も話題になりやすい。
さらに、年号の換算や当時の儀礼の手続きで、就任日や改名の時期が別に語られる場合もある。数字の差を見かけたら、基準が何かを確かめると整理しやすい。
室町幕府の将軍は十五代まで続く。義政はその中盤に当たり、前後に大きな転換が起きた。結論として「足利義政は何代目」と問うなら、まず八代将軍という答えを置き、必要に応じて別の基準を添えるのが安全である。
将軍の代数を簡単に並べる
足利将軍の代数を頭に入れると、「八代」がどこに当たるかが直感で分かる。初代は尊氏、二代は義詮、三代は義満、四代は義持、五代は義量、六代は義教、七代が義勝、そして八代が義政だ。
この並びは、室町幕府の将軍を征夷大将軍として数える標準的な整理である。義政はその中盤に当たり、幕府が力を保ちつつも、内部のゆらぎが表に出てくる頃に立つ。
義政の直前は幼くして亡くなった義勝で、義政も若年で将軍となった。ここまでの流れは比較的すっきりしており、「義政は八代」という答えがぶれにくい。
混乱が増えるのは九代以降である。義尚の後、将軍が交代し、同じ人物が改名したり、政権の事情で将軍職が入れ替わったりする時期が続く。後半を読む時は、名前だけでなく時期もセットで覚えるのがコツだ。
逆に言えば、義政の位置づけは整理しやすい。尊氏から数えて八番目、義勝の次で義尚の前。さらに1449年就任、1473年譲位という骨格を添えれば、代数と年代の両方で迷いが消える。
足利義政は何代目が揺れる理由
在職年の書き方が二通りある
足利義政の「在職年」は、書き方が揺れやすい。理由は、家督を継いだ年と、征夷大将軍として任じられた年が一致しないためだ。
兄の義勝が亡くなった後、義政は幼い段階で将軍家の中心に置かれた。これを実質的な継承として数え、在職の始まりを早めに書く例がある。政治の現場では、周囲の補佐を受けながら将軍家が動き出す。
一方で、公式の官職としての征夷大将軍は、成人の儀礼を経て任じられる。義政の場合、将軍職の始まりを1449年とする整理は、この「任官」を基準にしている。学校や辞典の多くも、この形式を採る。
終わりについては、義政が1473年に将軍職を義尚へ譲った点は共通する。だが、その出来事を年末の出来事として1473年に収めるか、年号の扱いで翌年側に寄せるかで表記がずれることがある。
さらに、譲った後も義政が政局に影響を与え続けたため、「いつまで将軍だったか」と「いつまで政治に関わったか」が混ざりやすい。年の違いを見かけたら、家督、任官、譲位のどれを基準にした数字かを確かめたい。
兄・義勝の扱いと空白の年
「足利義政は何代目」を読み解く際、七代義勝の存在が鍵になる。義勝は幼い将軍で、短い期間で亡くなったため、次の義政とのつながりが見えにくいからだ。
義勝の死後、義政は将軍家の後継として立てられたが、すぐに征夷大将軍として任じられたわけではない。年齢の問題に加え、将軍任官には朝廷での儀礼や官位の整備が伴い、手続きにも時間がかかる。
この間、幕府の運営は有力者の合議色が強まり、将軍家の意思が前に出にくい状況になる。将軍の権威は保たれていても、政治の主導権は周囲へ流れやすかった。
この「間」をどう扱うかで、年表の見え方が変わる。将軍職が空いた期間として整理するものもあれば、義政の実質的な継承として在職の始まりを早めに置くものもある。
ただし、代数そのものは動かない。七代が義勝、八代が義政という並びは保たれたまま、年の付け方だけが揺れる形である。違いを見たら、空白の扱いの差だと考えると理解しやすい。
数字だけで比べず、基準を読む姿勢が役に立つ。
将軍職と実権のズレ
「何代目」を混乱させるもう一つの理由は、将軍職の肩書と実際の影響力がずれやすい点にある。室町後期の政治は、有力守護や側近の力関係で動き、将軍の意志がそのまま通りにくかった。
義政は1473年に将軍職を譲った後、表向きは隠居の立場へ移る。のちに剃髪して入道となり、東山殿とも呼ばれたが、後継争いの火種は残った。
将軍家の人事や調停に義政の存在が影を落とし続けたため、「退いたのに中心にいる」ように見える場面がある。ここで代数と実権を混ぜると、数字がぶれる原因になる。
さらに、義政が東山の山荘に拠点を移してからも、京の政局と無縁になったわけではない。文化の保護や造営は政治とも結び付き、周囲が義政の名を利用する場面も生まれた。
義尚が若くして亡くなった後、義政が再び政務に関わったとされる点も、誤解を呼びやすい。肩書としての「将軍」はすでに譲っており、再び八代になるわけではないが、実際の力学は単純ではなかった。
だから「足利義政は何代目」を整理するなら、代数は八代で固定し、影響力の長さは別の軸で語るのが分かりやすい。
足利義政は何代目と時代背景
後継問題が大乱の火種に
義政の時代を語るうえで外せないのが、応仁の乱である。大乱の直接の火種の一つは、将軍家の後継をめぐる対立だった。
義政は当初、実子がいない状況で弟の義視を後継に据える動きを見せた。弟は一時、僧籍にいたとも伝わり、還俗して後継候補となった経緯がある。ところがのちに実子の義尚が生まれ、後継をどちらにするかが政治問題へ変わっていく。
継承問題は、将軍家の内輪の話にとどまらない。将軍の周囲で権力を握る勢力は、次の将軍が誰かで立場が変わるため、争いが拡大しやすい。義尚の母である日野富子の動きも、対立の構図に影響した。
この対立は、細川氏や山名氏など有力勢力の争いとも結び付き、京を戦場にする大規模な内戦へ発展した。応仁の乱は1467年に始まり、長期化して京都の荒廃を招いた。
義政自身は争いを抑え切れず、将軍としての統制力が問われた。乱ののち、幕府の権威は弱まり、各地の自立が進む流れが強まったと考えられている。
「足利義政は何代目」という問いは、単なる数合わせでは終わらない。八代という位置に、継承の揺れと戦乱の入口が重なっていたからである。
退いた後の東山殿と銀閣
義政は将軍職を譲った後、京都東山に山荘を営み、のちに東山殿と呼ばれる拠点を持った。政治の混乱が続く中で、義政はここで文化的な営みを深めていく。
東山殿の一角は、死後に慈照寺となり、世に「銀閣寺」として知られる。銀閣と呼ばれる建物は観音殿で、東求堂とともに当時の遺構として伝わる。禅宗寺院としては相国寺の塔頭に位置づけられる点も押さえたい。
造営の時期は、山荘づくりの開始と、建物の完成とで段階がある。東山に山荘を整える動きは十五世紀後半に進み、銀閣そのものは1489年に上棟したとされる。着手の年を1482年とする説明もよく見られる。
同じく将軍が造営した金閣が、三代義満の時代を象徴するのに対し、銀閣は八代義政の時代を象徴する。二つを並べると、幕府の勢いと、美意識の変化がよく分かる。
銀閣が象徴するのは、派手さよりも落ち着いた美意識である。乱世のさなかに整えられた空間は、後の日本文化の型をつくる土台になった。義政の「何代目」を確かめることは、その文化の出発点にも触れることになる。
東山文化が残したもの
義政の名が今も広く知られる理由の一つが、東山文化である。東山文化は、義政が築いた東山殿を中心に、武家・公家・禅僧などの文化が交わりながら形になったとされる。
特徴は、豪華さよりも余白や静けさを味わう感覚にある。能の発展、連歌の広がり、庭園や建築の洗練などが重なり、後の日本文化に続く型が整っていった。
建築では書院造の成立が語られ、室内の飾り方や道具の置き方が工夫された。銀閣や東求堂に見られる空間づくりは、その象徴として語られることが多い。
茶の湯もこの時代に大きく進み、のちの「わび」の美意識へつながる流れが強まる。絵画では水墨画が広がり、趣味としての収集や鑑賞も洗練されていった。
応仁の乱で京が荒れた一方、文化人が地方へ移り、文化が各地へ広がる契機にもなった。戦乱が文化を止めるとは限らず、むしろ形を変えて伝わっていく。
足利義政は何代目かという問いは、八代将軍という答えで終わりではない。その八代の時代に、政治の混乱と文化の成熟が同時に進んだことが、義政の評価を複雑にしている。
まとめ
- 足利義政は室町幕府の第八代征夷大将軍である。
- 代数は初代足利尊氏から順に数えるのが一般的だ。
- 前の将軍は七代義勝、次の将軍は九代義尚である。
- 在職は1449年開始、1473年譲位と捉える整理が広く使われる。
- 家督を継いだ年と将軍任官の年がずれるため、年表表記が揺れる。
- 義勝の死後に生じた空白の扱いが、混乱の大きな原因になる。
- 将軍職を退いた後も影響力が残り、肩書と実態が一致しにくい。
- 後継をめぐる義視と義尚の対立が、応仁の乱の火種の一つとなった。
- 東山殿の造営が進み、死後は慈照寺として銀閣が伝わる。
- 東山文化は建築・庭園・芸能などを洗練させ、後代の美意識に続いた。






