結論:「頼朝の肖像画」は頼朝と断定できず、足利直義を描いたとする説が出て論争が続いている
京都・神護寺に伝わる国宝の肖像画は、長く源頼朝の姿とされてきました。しかし1995年に美術史家の米倉迪夫が、描かれているのは室町幕府を開いた足利尊氏の弟・足利直義だとする説を発表し、論争になりました。歴史学では新説を支持する意見が多く、美術史では従来の説を支持する声も残っていて、決着はついていません。
この絵は「絹本著色伝源頼朝像」と呼ばれ、頭の「伝」は「頼朝と伝えられている」という意味です。2002年には東京書籍の小学校用教科書がこの絵を外し、その後、教科書では別の頼朝像に差し替える動きが進んでいます。
基本情報
- 作品名:絹本著色伝源頼朝像(神護寺三像のうちの一幅)。国宝
- 所蔵:京都・神護寺。京都国立博物館に寄託されている
- 形式:絹本著色の掛幅。縦143cm前後、横111〜113cmで、人物はほぼ等身大。複数の絹をつながず一枚絹に描かれている
- 像主をめぐる説:源頼朝説(通説)、足利直義説(1995年〜)
- 源頼朝:久安3年(1147年)生まれ、建久10年(1199年)没。鎌倉幕府の初代征夷大将軍で、1192年に任ぜられた
- 時代:鎌倉時代(絵の制作時期は13世紀前期から14世紀まで説が分かれる)
源頼朝の肖像画は別人?「伝源頼朝像」と足利直義説
神護寺三像とはどんな絵か
神護寺には、束帯姿の男性を描いた三幅の絵が伝わっています。「伝源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能像」で、三幅とも上畳に座って笏を持ち、太刀を佩いた姿です。袍の文様は、頼朝像が輪無唐草文、重盛像と光能像が轡唐草文と違いがあります。
日本中世の肖像画の代表作とされ、なかでも頼朝像は像主の強い意志が感じられると評価されています。1897年(明治30年)に旧国宝となり、そのときの名称は「源頼朝外三人肖像絹本著色掛幅(伝藤原隆信筆)四幅」でした。四幅目は文覚上人像で、1951年(昭和26年)に、三幅が国宝、文覚上人像が重要文化財に分けられました。
従来の通説:『神護寺略記』と藤原隆信
1950年の森暢の論文に代表される通説は、像主を源頼朝・平重盛・藤原光能、作者を藤原隆信とし、三像を鎌倉前期の作品と見ました。根拠は、南北朝期ごろの成立とされる『神護寺略記』の記述と、大英博物館にある頼朝像です。
これに早くから疑問も出ました。1954年に源豊宗が、装束の形式や畳の敷き方、絹の大きさなどから、鎌倉末から室町期に近いと論じています。1984年からは宮島新一が、『神護寺略記』と三像を結びつける通説に疑問を示し、13世紀前半の作と論じました。
1995年の足利直義説:何が根拠か
米倉迪夫は1995年、伝頼朝像は足利直義、伝重盛像は足利尊氏、伝光能像は足利義詮を描いたとする説を発表しました。主な論拠は次のとおりです。
- 冠の形式が、鎌倉末期以降に見られるものである
- 太刀の痕跡から、後醍醐天皇が尊氏に与えた桐紋の俵鋲をつけた太刀だった可能性がある
- これほど大きな絹は鎌倉後期以降に現れる
- 表現様式が、天龍寺妙智院蔵の夢窓疎石像に似ている
- 直義が康永4年(1345年)4月23日に神護寺へ奉納した願文に、尊氏と自身の影像を安置したとあることと対応する
つまり、神護寺に足利兄弟の肖像が納められたという記録があり、絵の細部も14世紀の特徴と合う、という組み立てです。
反論と論争の現在:なぜ「頼朝の顔」として定着したのか
新説を支持する研究、反対する研究
黒田日出男は、光能像を義詮像とする政治史的な解釈を示し、尊氏像に残る大きな欠損や折りジワを、義詮像の制作時に用済みとなった像が折り畳まれていた痕跡とみなしました。2011年の『源頼朝の真像』、2012年の『国宝神護寺三像とは何か』では、絹の検討から、鎌倉初期までの横幅1mを超える作品は祖師像に限られ、南北朝期に俗人肖像も現れると述べています。泉武夫は絹目の編年研究から三像の絹を14世紀のものと指摘し、伊藤大輔や高岸輝も14世紀の様式的特徴を論じました。
一方、辻惟雄や河野元昭は、夢窓疎石像との線質の差や、南北朝期にこの水準の肖像を描ける絵師は想定しにくいことを挙げて反発しています。有賀祥隆は13世紀半ばを想定し、近藤好和は衣装・武具の考証から、三像の成立は13世紀前期まで遡りうるとしています。神護寺も、宮島説などを援用して新説を否定する見解をウェブサイトに載せています。
大英博物館の頼朝像は決め手にならない
通説の根拠の一つだった大英博物館本の頼朝像は、黒田日出男と上横手雅敬が、賛文の内容などから江戸中期以降に作られたものだと論じています。この作品は1920年に山中商会から渡ったもので、それ以前の伝来は分かっていません。
教科書が定着させた「頼朝の顔」
神護寺の絵が頼朝像として広く知られるようになったのは、『集古十種』や、近代以降の教科書などによる面が大きいとされています。長く教科書の定番だったため、この顔で頼朝を覚えた人は多いはずです。ただし2002年に東京書籍の小学校用教科書が削除したのを皮切りに、東京国立博物館蔵の伝源頼朝坐像や、甲斐善光寺蔵の木像に差し替える流れが進んでいます。
なお、作者が藤原隆信かどうかも、像主が誰かという問題とあわせて揺れています。「伝藤原隆信筆」はあくまで伝承で、確定した事実ではありません。
ゆかりの地と関連する人物
頼朝の姿に近いとされる像と、見られる場所
- 神護寺(京都):三像の所蔵寺。伝源頼朝像と伝平重盛像は京都国立博物館、伝藤原光能像は東京国立博物館に寄託されている
- 甲斐善光寺(山梨県):木造源頼朝坐像を所蔵する。山梨県指定有形文化財で、現存最古の頼朝像とされ、胎内銘から北条政子の命で作られたと考えられている。2020年から2021年に修復された
- 東京国立博物館:狩衣姿の木造伝源頼朝像(重要文化財)がある。黒田日出男は、北条時頼像をもとに束帯姿へ改造された可能性を指摘している
『吾妻鏡』に記述のある絵像は現存していません。頼朝の容姿については、『玉葉』が「威勢厳粛」と記し、大山祇神社に奉納された甲冑から、身長は165cm前後と推定されています。
頼朝のゆかりの地
- 法華堂跡・白旗神社(鎌倉市):頼朝の墓所は、西御門の法華堂跡(白旗神社)と、鶴岡八幡宮境内の白旗神社の2か所が挙げられている
- 蛭ヶ小島(伊豆):1160年に流刑となった伊豆の配流地として知られる。頼朝が当初からここに住んだかは不明とされる
- 石橋山(相模国):1180年8月23日に大庭景親らと戦って敗れた地
関連する人物
- 足利直義:足利尊氏の弟。1345年の願文に、兄と自身の影像を神護寺に納めたとある
- 北条政子:頼朝の正室。甲斐善光寺の木像は、政子の命で作られたと考えられている
- 藤原隆信:絵の作者と伝えられてきた人物
よくある質問
教科書の頼朝の肖像画は、本当に別人なのですか。
断定はできません。足利直義を描いたとする説が1995年に出て、歴史学では支持が多い一方、頼朝像とする従来の説を支持する研究者もいて、論争が続いています。
「伝源頼朝像」の「伝」とはどういう意味ですか。
「頼朝を描いたものと伝えられている」という意味で、像主が頼朝だと確定していないことを表します。
頼朝の実際の顔に近いのはどの像ですか。
甲斐善光寺の木造源頼朝坐像が、現存最古の頼朝像とされています。胎内銘から北条政子の命で作られたと考えられていますが、これも実際の顔と同じかどうかまでは分かりません。
今の教科書にはどの像が載っていますか。
2002年に東京書籍の小学校用教科書が神護寺の絵を削除したのを皮切りに、東京国立博物館蔵の伝源頼朝坐像や甲斐善光寺蔵の木像に差し替える傾向が進んでいます。載せる像は教科書によって異なります。
神護寺三像の他の二幅は誰ですか。
従来は平重盛と藤原光能とされてきました。足利直義説では、重盛像は足利尊氏、光能像は足利義詮を描いたものと見ます。




