結論:頼朝は清和源氏・河内源氏の嫡流で、子の実朝の死により3代で男系が絶えた
源頼朝は、清和天皇の流れをくむ清和源氏のうち、河内源氏の源義朝の三男として生まれた。頼朝の家は、頼朝、頼家、実朝の3人の将軍で終わる。三代将軍の実朝には実子がなく、1219年(建保7年)1月27日に甥の公暁に討たれたことで、河内源氏の嫡流の血筋は途絶えた。
断絶の背景には、頼朝の兄弟や従兄弟が次々に命を落とし、頼朝の死後に若い将軍を支える源氏の有力者が残らなかったことがある。その一方で、妻・北条政子の実家である北条氏が政権の中心に入り込んだ。この記事では、父祖の系譜、兄弟、妻子の順に、確かめられた事実だけで家系図をたどる。
基本情報
- 人物:源頼朝(鎌倉幕府の初代将軍)
- 生年:1147年(久安3年)。尾張国熱田で生まれたとされ、京都生まれとする説もある
- 没年:1199年(建久10年)1月13日。享年53(満51歳)
- 時代:平安時代末期~鎌倉時代
- 家:清和源氏のうち河内源氏。父は源義朝、母は熱田大宮司家の藤原季範の娘(由良御前)
- 正室:北条政子(北条時政の娘)
- 子:大姫、頼家、三幡、実朝(ほかに妾の大進局との間に貞暁)
- 家の行方:実朝の死で源氏将軍は3代で絶えた
源頼朝の家系図:清和源氏から義朝までの流れ
清和天皇から河内源氏へ
頼朝の家系は、清和天皇から貞純親王、源経基、源満仲と続く。満仲の子のうち、長男の頼光は摂津源氏の祖、次男の頼親は大和源氏の祖、三男の頼信が河内源氏の祖とされる。頼信が河内国古市郡の壷井(現在の羽曳野市)を本拠にしたことから、河内源氏と呼ばれる。
頼光と頼親は藤原道長に仕えて京都を舞台に活動した。これに対して頼信は東国の受領を務め、収入が少なかったこともあって、河内源氏は京都ではなく坂東を拠点にしたと説明されている。頼朝が後に関東で挙兵する土台は、この東国との結びつきにある。
頼信から頼朝までの系譜
河内源氏の系譜は、頼信から頼義、義家、義親、為義、義朝、頼朝と続く。八幡太郎の名で知られる義家は頼朝の祖父・為義の祖父にあたり、為義は義家の次男・義親の子として位置づけられている。
- 源頼信(河内源氏の祖)
- 源頼義
- 源義家
- 源義親
- 源為義
- 源義朝(頼朝の父)
- 源頼朝
父・義朝:保元の乱と平治の乱
源義朝は1123年(保安4年)に生まれた。1156年の保元の乱では、崇徳院方についた父の為義や弟たちと分かれ、後白河天皇方として戦った。乱のあと、義朝は為義と弟たちを処刑している。このため世間から非難されたと伝えられる。
1159年の平治の乱では藤原信頼に味方して敗れ、都を落ちた。尾張国知多郡の野間で、家人だった長田忠致・景致の父子に裏切られ、入浴中に殺された。享年は38。このとき頼朝は捕らえられたが、平清盛の継母である池禅尼の嘆願で死罪を免れ、伊豆へ流された。
兄弟・従兄弟との関係:源氏の有力者はなぜ残らなかったか
頼朝の兄弟姉妹
義朝の子は多い。長男の義平と次男の朝長は異母兄で、頼朝は正室・由良御前の子として三男にあたる。同じ母の子には、早世したとされる義門、土佐国に流され頼朝の挙兵後に討たれた希義、姉妹の坊門姫がいる。異母弟には、範頼、阿野全成、義円、義経がいる。
この弟たちの多くは、頼朝より先に、あるいは頼朝の政権の中で命を落とした。義円は墨俣川の戦いで平氏軍に討たれ、全成は頼家に殺されたとされる。
弟・義経と範頼のゆくえ
義経は1159年生まれの義朝の九男で、母は常盤御前。1180年に頼朝が挙兵すると奥州から駆けつけ、黄瀬川で頼朝と対面した。木曽義仲を破り、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしたが、のち頼朝と対立して朝敵とされ、奥州に逃れた。1189年(文治5年)閏4月30日、藤原泰衡に攻められて衣川館で自害したとされる。対立の原因を無断任官とする見方(『吾妻鏡』)には、近年の研究で異論も出ている。
範頼は義朝の六男で、遠江国で育った。義仲追討や一ノ谷の戦いで軍の中心となり、のちに九州で平氏と戦った。1193年(建久4年)、曽我兄弟の仇討ちの際に頼朝が討たれたという誤報が流れ、範頼が政子に述べた言葉が頼朝側に不忠と受け取られたとされる(この話は『保暦間記』のみに見え、疑問視する研究者もいる)。起請文を送ったが頼朝は範頼が署名に「源」の姓を用いたことを問題にし、さらに家臣が頼朝の寝所の近くに潜んでいるのが見つかったため、同年8月17日に伊豆へ流した。その後の消息は『吾妻鏡』になく、殺害されたとする記述は14世紀以降の史料に見える。確かな同時代史料はない。
従兄弟・木曽義仲との関係
義仲(木曽義仲)の父は、義朝の弟の源義賢である。つまり義仲は頼朝の従兄弟にあたる。義賢は1155年(久寿2年)、為義の意向を受けた義朝の長男・義平に討たれた(大蔵合戦)。『平家物語』などによると、2歳だった義仲は畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国に逃れたとされる。
1183年、頼朝に追われた源行家らを義仲が庇護したことで、二人は衝突寸前になり、和議が結ばれた。義仲は嫡子の義高を人質として鎌倉に送った。しかし関係は破れ、1184年(寿永3年)に頼朝の命を受けた範頼・義経の軍が宇治川や瀬田で義仲軍に勝ち、義仲は近江国粟津で討たれた。義仲の死没日は、Wikipedia の本文で1月21日、略歴欄で1月20日と食い違っている。
平家との関係はどうか
頼朝と平家に直接の血縁があったことを示す記述は、Wikipedia の頼朝の項には見当たらない。両者の関わりとして確かめられるのは、先に述べたとおり、平治の乱後に清盛の継母・池禅尼の嘆願で頼朝が助けられたことである。
妻・北条政子と子どもたち:頼朝の血筋はどう消えたか
北条政子との結婚
政子は1157年(保元2年)に生まれ、北条時政の娘である。流人だった頼朝は、監視役の時政が大番役で京にいる間に政子と恋仲になった。結婚は1177年(治承元年)頃と推定され、時政は初め強く反対したが、のちに認めたとされる。山木兼隆との縁談にまつわる逸話は、物語上の創作とみるのが妥当とされている。
夫婦の仲は穏やかばかりではなかった。1182年(養和2年)11月、頼朝が寵愛した亀の前の邸を、政子の怒りを受けた牧宗親が打ち壊す事件が起きた。頼朝は宗親の髻を切って処罰し、これに怒った時政が一族を連れて伊豆に引き揚げる騒ぎにもなった。
長女・大姫
大姫は1178年(治承2年)の生まれとされる(1176年説もある)。1183年春、義仲の嫡子・義高(当時11歳)が人質として鎌倉に送られ、6歳の大姫の婿とされた。1184年に頼朝が義高の殺害を決めると、大姫は義高を女装させて逃がしたが、義高は入間河原で討たれた。大姫は深く嘆き、10年以上病んだとされる(『吾妻鏡』の記述は脚色の可能性があり、細部は確かめにくい)。
頼朝は大姫を朝廷に入内させようと動き、1195年には政子と大姫を連れて上京して工作したが、大姫は1197年(建久8年)に20歳で亡くなり、計画は止まった。次女の三幡の入内計画も実らなかった。
二代将軍・頼家
頼家は1182年(寿永元年)、頼朝と政子の子として生まれた。1199年1月に頼朝が亡くなると、18歳で家督を継いで第2代鎌倉殿となり、1202年(建仁2年)7月に征夷大将軍に任じられた。家督を継いで3か月後には十三人の合議制が成立した。従来はこれを将軍の親裁権を奪うものとみてきたが、近年は若い将軍を補う制度だったとする見方も出ている。
1203年(建仁3年)9月、北条時政が比企能員を謀殺して比企一族を滅ぼし、頼家の子・一幡も殺された。頼家は9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、弟の千幡(実朝)が後を継いだ。頼家は伊豆国修禅寺に幽閉され、1204年(元久元年)7月18日に北条氏の手の者に殺された。享年23(満21歳)。殺害の方法は、『愚管抄』は首を絞めたとし、『保暦間記』は入浴中に殺されたとする。
三代将軍・実朝と源氏将軍の断絶
実朝は1192年(建久3年)に生まれ、1203年9月に征夷大将軍となった(就任日は『吾妻鏡』と『猪隈関白記』で食い違う)。1204年12月に坊門信清の娘を正室に迎えたが、実子には恵まれなかった。1206年には兄・頼家の次男の善哉(のちの公暁)を猶子としている。家集『金槐和歌集』は、定家所伝本に663首を収める。
1219年1月27日夜、鶴岡八幡宮での拝賀の帰りに、実朝は公暁に襲われて亡くなった。享年28。公暁も同じ日に討手に討たれた。実朝に子がなかったため、幕府は摂関家から三寅(のちの藤原頼経)を迎えた。これにより、源氏将軍と河内源氏嫡流の血筋は途絶えた。
三寅はまだ2歳で、政子が後見して将軍の代行を務めた。政子が「尼将軍」と呼ばれるのはこのためである。政子は1225年(嘉禄元年)に68歳で亡くなった。
掘り下げ:北条氏との関係と、頼朝の家に関するよくある誤解
北条氏は頼朝の家とどう関わったか
頼朝と政子の結婚で、北条時政は頼朝の舅となった。頼朝の死後、時政は頼家の外祖父として幕府の政治に関わり、比企能員を滅ぼした。1205年の牧氏事件で時政が失脚し、義時が執権になった。実朝暗殺の後は、幕府が三寅を迎えた。頼朝の家が弱まる過程と北条氏が前に出る過程は、同じ時期に進んでいる。
実朝暗殺の黒幕説
実朝暗殺の黒幕としては、北条義時、三浦義村、北条・三浦らの共謀、後鳥羽上皇などの説が挙げられている。一方で、公暁個人の野心による単独犯行とみる研究者も多く、近年はこの見方が主流とされる。決め手になる史料は示されておらず、どの説も確定していない。
頼家の子と、頼朝のほかの子
頼家には4男1女がいたが、いずれも非業の死を遂げたとされる。一幡は比企能員の変で殺され、公暁は実朝暗殺の直後に討たれた。三男の栄実は1213年の泉親衡の乱で擁立され、翌年に自害に追い込まれた。四男の禅暁は1220年に京で殺された。女子の竹御所は1234年(天福2年)に出産時に亡くなった。頼朝には妾の大進局との間に貞暁もいたが、この系統が将軍家を継ぐことはなかった。
よくある誤解:足利氏・新田氏は頼朝の子孫か
足利氏や新田氏は、義家の子の義国の系統で、河内源氏の同族である。頼朝の子孫ではない。足利氏は義国の次男・義康、新田氏は長男・義重が祖とされ、足利尊氏は室町幕府を開いた。甲斐源氏の武田氏は、頼義の三男・義光の子孫である。いずれも頼朝の血を引くのではなく、頼朝と先祖を共有する分家筋にあたる。なお、河内源氏を称する諸氏には、仮冒(系譜を偽ること)も含まれると注記されている。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓):鎌倉市雪ノ下・西御門にある国の史跡。堂は現存せず、頼朝の墓といわれる石塔が建つ。頼朝墓の東隣の平坦地は北条義時の法華堂跡と推定されている
- 寿福寺(鎌倉市):北条政子の墓所。実朝の胴墓の隣にある
- 修禅寺(伊豆):頼家が幽閉された寺
- 鶴岡八幡宮(鎌倉市):実朝が公暁に襲われた場所
- 常楽寺(鎌倉市):大姫の墓と伝わる塚がある。ただし北条泰時の娘の墓の可能性もある
- 近江国粟津(現在の大津市):義仲が討たれた地
関連する人物
- 源義朝:父。保元の乱・平治の乱の当事者
- 北条政子・北条時政:妻と舅。幕府の実権が北条氏に移る流れの中心
- 源義経・源範頼:異母弟。頼朝の政権の中で命運が分かれた
- 木曽義仲:従兄弟。嫡子の義高は大姫の婿となった
- 公暁:頼家の次男で実朝の猶子。実朝を討った
よくある質問
源頼朝の家系図は、どの源氏の流れですか。
清和天皇から源経基、満仲と続く清和源氏のうち、満仲の三男・頼信を祖とする河内源氏です。頼信から頼義、義家、義親、為義、義朝を経て頼朝に至ります。
頼朝の子孫は現在も続いていますか。
将軍家としては続きませんでした。実朝に子がなく、実朝の死で源氏将軍と河内源氏嫡流の血筋は途絶えたとされています。頼家の子らも非業の死を遂げ、女子の竹御所は1234年に出産時に亡くなっています。
北条氏は源氏の血筋ですか。
北条政子は頼朝の妻で、北条時政の娘です。北条氏は頼朝の姻戚になりました。頼朝の子の頼家と実朝は、政子の子として北条氏と血縁があります。
木曽義仲は頼朝とどういう関係ですか。
従兄弟です。義仲の父・義賢は義朝の弟にあたります。義仲の嫡子・義高は大姫の婿として鎌倉に送られましたが、1184年に討たれました。
足利尊氏は頼朝の子孫ですか。
子孫ではありません。足利氏は義家の子・義国の系統で、頼朝と先祖を共有する河内源氏の同族です。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。





