清浦奎吾 日本史トリビア

結論:清浦奎吾は「警視総監」ではなく警保局長から上り詰めた法務・内務官僚だった

清浦奎吾(1850〜1942)は、熊本の寺の五男に生まれ、司法省の検事、内務省警保局長、司法大臣、枢密院議長を歴任して、1924年(大正13年)に第23代内閣総理大臣になった人物です。

「警視総監として都心の治安を担った」と紹介されることがありますが、日本語版Wikipediaの経歴に出てくる警察関係の要職は、1884年に34歳で就任した内務省の警保局長です。警視総監の就任は確認できませんでした。

首相としての清浦内閣は、1924年1月7日に発足し、同年6月11日に総辞職しました。在任は157日です。国務大臣の大半が貴族院から選ばれ、護憲三派などの倒閣運動を受けました。

基本情報

  • 生年:1850年3月27日(嘉永3年2月14日)
  • 没年:1942年(昭和17年)11月5日、熱海市の米寿庵で死去。満92歳
  • 出身:肥後国山鹿郡上御宇田村(現在の熊本県山鹿市)。明照寺住職・大久保了思の五男で、のちに清浦家の養子となる
  • 時代:江戸末期に生まれ、明治・大正・昭和を生きた
  • 立場:官僚、政治家。内閣総理大臣(第23代、1924年1月7日〜6月11日)
  • 主な経歴:司法省検事、内務省警保局長、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密院議長
  • 爵位:男爵(1902年)、子爵(1907年)、伯爵(1928年)
  • 墓所:横浜市の總持寺

清浦奎吾の生い立ちと官僚としての出世

寺の五男から咸宜園へ

清浦は1850年、現在の山鹿市にある明照寺の住職の五男に生まれました。家の暮らしは豊かではなく、熊本市の下駄屋に丁稚奉公に出されたとされます。

1865年(慶応元年)ごろからは、日田の広瀬淡窓が開いた私塾・咸宜園で学びました。留学は両親が最初は許さず、熱意に負けた母が父を説得したと伝えられます。同窓の横田国臣とは親友になりました。

子どもの頃の逸話として、馬子が手綱を緩めているのを咎めて従わせたという話も残ります。これは人柄を伝える逸話として語られるもので、詳しい状況までは確かめられません。

学校長から司法省の検事へ

1872年(明治5年)に上京した清浦は、埼玉県の風渡野学校で大教授(校長)を務めました。月給は約5円でした。翌1873年に埼玉県の権少属となり、1876年に中属となります。

同じ1876年8月11日に司法省へ出仕し、1877年に検事に任ぜられました。治罪法(今でいう刑事訴訟の法)の制定にも関わっています。治罪法を指導したお雇い外国人のボアソナードについて、清浦は後年、自分の法律の基礎を築いた人だと語ったとされます。

34歳の警保局長と、枢密院議長までの道

1884年2月25日、清浦は内務省警保局長に34歳で就任しました。山縣有朋の目にとまったことが背景にあるとされ、在任は7年に及びます。この時期は条約改正や国会開設を控えて警察制度の改革が求められた頃で、警官練習所や巡査練習所などの教育機関が設けられました。司法省時代の治罪法の講義録は、警察官に広く読まれたとされます。

1891年4月9日に貴族院の勅任議員となって警保局長を辞め、1892年に第2次伊藤内閣の司法次官、1896年に第2次松方内閣の司法大臣となります。司法大臣は通算5年6か月に及びました。その後、第1次桂内閣で農商務大臣(1903年)と内務大臣(1905年)を務め、1906年に枢密顧問官、1917年に枢密院副議長、1922年2月8日に枢密院議長に就きました。

清浦内閣は本当に「特権内閣」だったのか

「特権内閣」と呼ばれた顔ぶれ

清浦内閣は、第2次山本内閣が虎ノ門事件を受けて総辞職したあとの内閣です。次の総選挙を管理する内閣として組まれ、元老会議と内大臣の平田東助は、政党とは距離をとることを条件にしたとされます。

閣僚の顔ぶれは、外務大臣が松井慶四郎、内務大臣が水野錬太郎、大蔵大臣が勝田主計、陸軍大臣が宇垣一成、海軍大臣が村上格一、司法大臣が鈴木喜三郎、文部大臣が江木千之、農商務大臣が前田利定、逓信大臣が藤村義明、鉄道大臣が小松謙次郎です。内閣書記官長は小橋一太でした。

貴族院からは、研究会が3人、交友倶楽部が2人、茶話会が1人、公正会が1人入閣しました。国務大臣のうち貴族院出身が7名で、衆議院議員は0名です。研究会に偏った配分だったため、他の貴族院会派からも反発が出ました。衆議院の各党は「反清浦」で連携を強め、護憲三派(政友会・憲政会・革新倶楽部)の倒閣運動に進みます。

なお、「特権内閣」という呼び名は、今回確かめたWikipediaの清浦内閣・清浦奎吾のページ本文には出てこず、護憲三派がこの語で批判したかどうかは資料では確かめられません。「貴族院内閣」という語も出てきません。清浦内閣のページは、この内閣を与党のない「超然内閣」と位置づけています。

護憲三派の結成と懲罰解散

1924年1月18日、三浦梧楼の仲介で高橋是清、加藤高明、犬養毅が会合し、倒閣運動(第二次護憲運動)が本格化しました。

清浦内閣は1月31日に衆議院を解散します。この解散は「懲罰解散」と呼ばれ、各層の反感を買いました。政友会は内閣への対応をめぐって割れ、床次竹二郎らが政友本党を結成して清浦内閣を支えました。

総選挙の結果と総辞職

1924年5月10日の第15回衆議院議員総選挙(定数464)で、憲政会は151議席(48議席増)で第1党になり、政友本党は116議席(33議席減)で第2党に転落しました。護憲三派の合計は281議席です。

清浦内閣は6月11日に総辞職しました。在任157日は、当時の内閣としては最短だったとされます。なお、国務大臣の節に「6月7日総辞職」とする記述もあり、Wikipedia内で日付に食い違いがあります。清浦奎吾のページには「5月15日に総辞職」とする記述もあります。ここでは清浦内閣のページの概要の表と内閣の動きの節にある6月11日を採りました。

よくある誤解と「憲政の常道」との関係

誤解①:警視総監だった

冒頭のとおり、確認できる経歴は内務省警保局長です。警保局長は警察行政を全国的に担う内務省の役職で、東京の警察を率いる警視総監とは別の職です。両者は混同されやすいので、区別しておく必要があります。

誤解②:政党政治を頭から拒んだ人だった

清浦自身は、政党政治に否定的だったとは言い切れません。1922年に高橋内閣が倒れた際、清浦は元老の松方正義に、憲政の常道に従い第二党の加藤高明を首相にすべきだと伝えたとされます。ただし、この意見は元老の西園寺公望には容れられませんでした。

1924年の総辞職の際にも、清浦は第一党・憲政会の総裁である加藤高明を推したいと西園寺に伝えます。西園寺はこれを拒み、元老として自ら加藤を奏薦しました。一方で清浦は貴族院で、過渡期にこうした内閣が「憲政ノ常道」に背くとは思わないと答弁しています。

誤解③:組閣はすんなり決まった

清浦は一度、組閣に失敗した経験があります。第1次山本内閣の後を受けた際、海軍大臣の人選が難航しました。加藤友三郎は新造艦の費用について、内閣による責任支出か臨時議会の開催を求めましたが、清浦は憲法上、組閣前に約束はできないとして拒みます。斎藤実らに後継の海相を推薦してもらおうとしても断られ、組閣は不可能になって大命を拝辞しました。

「鰻香内閣」という呼び名は、このときの発言に由来するとされます。回想によれば、組閣の状況を尋ねられた清浦が、鰻重で知られた「大和田」の前を通っているようなもので、「匂ひだけはするが、御膳立てはなかなか来ないわい」と語ったことが元になりました。回想に基づく話なので、言い回しは伝承の範囲で受け取るのが安全です。

誤解④:首相退任後は表舞台から消えた

首相を退いたあとも、清浦は重臣として政局に関わりました。五・一五事件では挙国一致内閣の成立を推し、満州事変や斎藤内閣の崩壊、東條英機の擁立に至る重臣会議にも参加しています。1941年の会議には、車椅子と酸素吸入器を用意して上京しました。

民間の役職では、1925年から1942年まで新聞協会会長を務め、恩賜財団慶福会や中央社会事業協会の会長も務めています。1928年11月10日に伯爵となり、没時に従一位と大勲位菊花大綬章を受けました。1930年には、東海道本線の特急「燕」の一番列車に乗ったという逸話もあります。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 熊本県山鹿市:生誕地。1992年に生家近くの明照寺の隣に清浦記念館が建てられています。
  • 大分県日田市:学んだ咸宜園があった地です。
  • 東京都大田区(大森):私邸を構えて長く住んだ地です。2015年、邸宅跡の前の坂が大田区により「清浦さんの坂」と命名され、標識が建てられました。1939年設立の大森倶楽部では初代名誉会長を務めました。
  • 横浜市の總持寺:墓所です。

関連する人物

  • 山縣有朋:警保局長への抜擢の背景にあったとされる人物です。
  • ボアソナード:治罪法を指導したお雇い外国人。清浦が法律の基礎を築いた人と語ったとされます。
  • 加藤高明:1924年の総選挙で第1党となった憲政会の総裁で、清浦の後の首相です。
  • 西園寺公望:清浦の推薦を退け、自ら加藤を奏薦した元老です。

家としては、妻の清浦錬子(教育家)との間に複数の男子があり、三男の保恒から八男の末雄まで名が伝わります。

よくある質問

清浦奎吾は何をした人ですか?

司法省の検事として治罪法の制定に関わり、内務省警保局長として警察制度の整備期を担い、司法大臣、枢密院議長を経て、1924年に首相になった官僚出身の政治家です。

清浦内閣はなぜ短命に終わったのですか?

国務大臣の大半を貴族院から選び、衆議院議員の入閣者がいなかったため、護憲三派の倒閣運動を受けました。1月の衆議院解散後の総選挙で護憲三派が過半数を得て、6月11日に総辞職しました。在任は157日です。

清浦奎吾は何歳で亡くなりましたか?

1942年11月5日に熱海市で亡くなりました。生年月日の1850年3月27日から数えて満92歳です。

「鰻香内閣」とは何ですか?

清浦が一度組閣に失敗した際の、組閣の状況を尋ねられての発言に由来するとされる呼び名です。鰻重で知られた店の前を通っているようなもので、匂いだけはするが御膳立てはなかなか来ない、と語ったという回想が元です。