結論:エリスのモデルは、鴎外の帰国直後に来日した実在のドイツ人女性とされる
『舞姫』のヒロイン・エリスには、モデルとされる実在の女性がいる。1888年(明治21年)9月、ドイツでの留学を終えた森鴎外が帰国した直後、あるドイツ人女性が来日し、約1か月滞在してから日本を離れた。この来日が『舞姫』の素材になったとされる。
女性の名は、1981年に横浜の英字新聞の船客リストから「Miss Elise Wiegert」と見つかった。エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(1866年シュチェチン生まれ、1953年没)をモデルとする説が唱えられているが、別の女性とする説もあり、決着はついていない。
注意したいのは、小説と現実の違いだ。作中のエリスは踊り子で、最後に発狂する。この発狂は実際の来日事件に基づくフィクションとされる。この記事では、史料で言えることと諸説の部分を分けて整理する。
基本情報
- 森鴎外(本名・森林太郎):1862年、石見国津和野(現在の島根県津和野町)に生まれ、1922年(大正11年)7月9日に満60歳で死去
- 時代:明治〜大正時代
- 立場:陸軍軍医。1907年10月に陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長に就任。作家としても活動した
- ドイツ留学:1884年8月24日に横浜を出国、1888年9月8日に横浜へ帰着
- 『舞姫』の発表:1890年(明治23年)1月、雑誌『国民之友』
- 来日した女性の滞在:1888年9月12日から10月17日まで、約1か月
鴎外とエリスのモデルの物語:ベルリン留学から来日事件まで
ドイツ留学の4年間とベルリン
鴎外は1884年8月24日に横浜港を出国し、同年10月7日にマルセイユへ着いた。留学は一か所ではなく、ライプツィヒ(1884〜85年)、ドレスデン(1885〜86年)、ミュンヘン(1886〜87年)、ベルリン(1887〜88年)と土地を移しながら進んだ。ライプツィヒでは兵食に関する論文を準備し、ドレスデンでは軍医学の講習会に参加した。ミュンヘンではペッテンコーファーに衛生学を学んでいる。
ベルリンでは北里柴三郎とともにコッホの衛生試験所に入った。1888年の赤十字国際会議では通訳を務めた。つまり鴎外の留学は、遊学というより、陸軍の命で衛生学を修める公務だった。『舞姫』の舞台であるベルリンは、その最後の滞在地にあたる。
1888年9月、帰国直後の来日
鴎外は1888年9月8日に横浜に着き、同日のうちに帰京した。その4日後の9月12日に、ドイツ人女性が来日した。彼女は10月17日に離日しており、日本での滞在は約1か月だった。
この女性が、『舞姫』のエリスのモデルの一つとされる。帰国までの経緯の細部は、確かめられる範囲では多くが分かっていない。
船客リストの発見(1981年)
この女性の名前が分かったのは、そう昔の話ではない。1981年に、中川浩一と沢護が、横浜の英字新聞に載った船客リストから「Miss Elise Wiegert」の名を見つけた。新聞での記載は、合計8回確認されている。
それまで、来日した女性の存在は語られていても、名前を示す記録がなかった。船客リストの発見により、「エリス」の現実のモデルに名前がついた形になる。
エリーゼとは誰か:モデルをめぐる諸説と『舞姫』の違い
エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト説
船客リストの「Elise Wiegert」が誰なのかについては、研究者のあいだで説が分かれている。有力な説の一つが、六草いちかの唱えたもので、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(1866年9月15日、シュチェチン生まれ、1953年8月4日没)をモデルとする。
この説に立つと、来日時は21歳(山崎一穎の算定)で、生涯は86歳まで続いたことになる。帰国後の1898〜1904年には、ベルリンで帽子制作者として暮らしていたとされる(山崎一穎の評価による)。ただし、結婚の相手や戦時中の暮らしなど、帰国後の人生の細部については、今回確かめた資料の範囲では確認できなかったため、ここでは触れない。
ほかの説:別の女性、あるいは妹
ほかに、アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(1872年生まれ、来日時15歳)とする説がある。また、エリーゼの妹のクララとする説もある。モデルの特定は、一つの説で確定した話ではなく、「有力とされる説がある」という段階だ。
ネット上では、モデルの後半生を細かく語る話も見かけるが、一次の記録で裏づけられているものと、推測が混ざっているものとが入り混じっている。名前が一致するのか、同一人物の経歴なのかは、慎重に見る必要がある。
小説の中のエリスは何が違うのか
『舞姫』は、帰国の船上にいる太田豊太郎が、過去を回想して書き記す形式をとる。豊太郎は、幼くして父を失い母に育てられた一人っ子で、学業は常に首位、大学法学部を卒業して某省に勤めた人物として描かれる。官命でドイツへ赴任した、という点で、鴎外自身と重なる部分が多い。軍医の武島務の生涯も投影されているという説があり、豊太郎という名は、武島の出身地(秩父郡太田村)と鴎外の本名の林太郎に由来するとされる。
物語では、豊太郎はベルリンの教会の前で泣いていた踊り子エリスと出会い、金銭的な援助をきっかけに親しくなる。同郷者の讒言で免官され、母の死も知らされる。友人の相沢謙吉の助言でいったんエリスと離れようとするが、関係は続き、エリスは身ごもる。その後、大臣の天方伯に随行してロシアへ行き、帰国の誘いを受け入れる。豊太郎が隠していた事情を知ったエリスは発狂し、豊太郎は帰国する。
現実の出来事で確かめられるのは、鴎外の帰国後に女性が来日し、約1か月で離日した、という点までだ。エリスの妊娠も発狂も、この来日事件に基づく創作とされる。小説の悲劇をそのまま現実の出来事と考えるのは誤りになる。
掘り下げ:鴎外のその後と『舞姫』が持つ意味
来日の翌年の結婚と離婚
鴎外は1889年に、海軍中将・赤松則良の長女の登志子と結婚した。3月には写真による婚約という形だったとされる。しかし、翌1890年に離婚した。『舞姫』が発表された1890年1月は、この結婚生活のさなかにあたる。再婚は1902年1月で、相手は荒木博臣の長女の志げだった。
こうして並べると、来日事件の直後から、鴎外の身辺は短い間に大きく動いていたことが分かる。ただし、結婚や離婚の理由が来日事件と結びつくかどうかを示す資料は、確かめた範囲にはなく、ここでは推測を書かない。
『舞姫』の発表と論争
『舞姫』は1890年(明治23年)1月に雑誌『国民之友』に発表された。ドイツを舞台に、日本人と外国人の恋愛を描いた作品で、読者に衝撃を与えたとされる。同年8月に『しがらみ草紙』に発表した『うたかたの記』とともに、石橋忍月との論争のきっかけになった。1891年1月には『文づかひ』が単行本として出ている。
『舞姫』は、『うたかたの記』『文づかひ』とあわせて「独逸三部作」と呼ばれ、留学体験を反映した作品群とされる。文体は格調高い文語で、内容は浪漫的と評される。
晩年と遺言
鴎外は1916年4月に医務局長を退き、予備役に編入された。医務局長としての在任は約8年半だった。1922年7月に亡くなる直前、7月6日付で遺言が残されている。賀古鶴所が代筆したもので、冒頭は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と始まる。
この遺言は、軍人としての肩書きや栄誉を墓にも残さないという意志を示す。墓碑には、遺言により「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれ、号や階級、位階、勲等は記されていない。この遺言がエリスの来日事件とどう結びつくかについては、確かめられる資料がなく、関連があるとはここでは書かない。
子の名前は何を示すのか
鴎外の子には、長男の於菟、長女の茉莉、次女の杏奴、二男の不律、三男の類がいる。西洋風の響きを持つ名前が多いのは確かだが、これらの名がエリーゼへの思いに由来するという話を裏づける資料は、確かめた範囲にはなかった。名前の響きだけで、事実のように語るのは避けたい。
ゆかりの地と関連する人物
観潮楼跡と文京区立森鴎外記念館(東京都文京区)
鴎外は1892年(明治25年)に東京・千駄木の家に移り、2階の書斎から東京湾が遠くに見えたので「観潮楼」と名づけた。1907年(明治40年)からは観潮楼歌会が催され、佐佐木信綱や石川啄木などが参会している。その跡地に、森鴎外生誕150年を記念して、2012年(平成24年)11月1日、文京区立森鴎外記念館が開館した。所在地は文京区千駄木1-23-4。
津和野と墓所
鴎外は1862年に石見国津和野町田村で生まれ、1872年に父とともに上京した。墓は、1922年に東京の弘福寺に埋葬されたあと、関東大震災の後に三鷹市の禅林寺と津和野町の永明寺に改葬された。
関連する人物
- 小金井良精・森篤次郎(三木竹二):鴎外の義弟(小金井)と弟(森篤次郎、号は三木竹二)。三木竹二は演劇雑誌『歌舞伎』を主宰し、1908年1月に死去した
- 北里柴三郎:ベルリンでコッホの衛生試験所に鴎外とともに入った
- 石橋忍月:『舞姫』『うたかたの記』をめぐって鴎外と論争した
- 賀古鶴所:鴎外の遺言を代筆した
よくある質問
エリスのモデルは誰ですか
鴎外の帰国直後に来日したドイツ人女性とされます。船客リストの「Miss Elise Wiegert」が手がかりで、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトとする説が有力視される一方、別の女性や妹とする説もあり、確定はしていません。
エリーゼは実際に日本に来たのですか
来ています。1888年9月12日に来日し、10月17日に離日しました。滞在は約1か月です。
『舞姫』のエリスが発狂する場面は事実ですか
事実ではありません。作中の発狂は、来日事件に基づくフィクションとされています。
『舞姫』はいつ発表された作品ですか
1890年(明治23年)1月、雑誌『国民之友』に発表されました。『うたかたの記』『文づかひ』とあわせて「独逸三部作」と呼ばれます。
鴎外の墓はどこにありますか
三鷹市の禅林寺と津和野町の永明寺にあります。墓碑には、遺言により「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれています。



