
徳川綱吉と聞いて、あなたはどんなイメージを持つだろうか。「犬公方(いぬくぼう)」というあだ名や「生類憐れみの令」という法律を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、その法律が実は単なる「犬を大切にするためのもの」ではなかったことはご存じだろうか。彼の治世は、現代にも通じる社会の変革を目指したものであり、その評価は時代と共に大きく変化している。
この記事では、第五代将軍徳川綱吉がしたことや、悪法として知られる生類憐れみの令の意外な真実を、多角的な視点からわかりやすく解説していく。この記事を読み終える頃には、あなたの徳川綱吉に対するイメージは大きく変わっているはずだ。
- 徳川綱吉は、戦国時代の武力による政治から、学問や道徳を重んじる「文治政治」へと日本を変えた。
- 生類憐れみの令は、犬だけでなく、人間を含むあらゆる生き物の命を大切にするための法律だった。
- 将軍が戌年生まれだったから犬を大切にした、という話は俗説であり、当時の社会問題への対策という側面も持っていた。
- 厳しすぎる罰則から「天下の悪法」と呼ばれたが、捨て子をなくすなど人道的な目的も含まれていた。
- 徳川綱吉の死後、生類憐れみの令は廃止されたが、弱者を守るための部分は引き継がれた。
徳川綱吉の治世:文治政治への大転換
徳川綱吉(1646-1709年)は、1680年から約29年間、江戸幕府の第五代将軍として日本を治めた人物だ。彼の時代は、戦国時代からの武力で支配する「武断政治」から、儒教の教えに基づき、法律や道徳によって社会を治める「文治政治」へと、日本の政治のあり方が大きく変わった象徴的な時代だった。この変化は、平和な世の中を長く続けるためにとても大切なことだった。
儒学の教えを政治の基本に
徳川綱吉は、父である三代将軍徳川家光の命令で儒学を深く学んだ。将軍になってからも、彼は儒教、特に「朱子学」という学問を幕府の政治の基本に据えた。朱子学は、目上の人を敬い、親孝行を重んじるなど、身分秩序を大切にする教えだ。綱吉は、この教えを広めることで、戦国時代のように力で争うのではなく、道徳や礼儀を重んじる平和な社会をつくろうとした。
例えば、彼は湯島聖堂という学問所を整備し、林鳳岡のような優秀な学者を育てた。さらに、武士たちが守るべきルールを定めた「武家諸法度」にも、礼儀や親孝行の精神を盛り込んだ。綱吉自身も、母である桂昌院を心から大切にし、女性としては最高の位である「従一位」を朝廷から贈られるよう手配するなど、儒教の「孝」の精神を自ら実践しようとした。これらの政策は、武力ではなく、道徳や教養で社会を治めるという綱吉の強い信念の表れだった。
財政難を救うための経済政策
徳川綱吉が将軍になった頃、幕府の財政はすでにかなり苦しかった。度重なる寺社の建て直しや、朝廷との関係を良くするための行事にお金を使いすぎたため、その苦しさはさらに増した。この財政難を乗り越えるため、幕府は勘定奉行の荻原重秀の案を受け入れ、「貨幣改鋳」という政策を行った。これは、今までの金貨の金の量を減らして、混ぜ物を増やすことで、見かけ上の貨幣の量を増やすというものだった。この政策によって、幕府の金蔵は一時的に潤った。
しかし、この政策には大きな問題があった。貨幣の価値が下がったことで物価が上がり、インフレーション(物価が上がってお金の価値が下がること)が起きてしまったのだ。江戸では物が不足して物価が上がり、庶民の生活は苦しくなった。その一方で、このインフレは「元禄バブル」と呼ばれる好景気も生み、紀伊国屋文左衛門のような大金持ちの商人も現れた。
この時代、綱吉は現在の会計監査にあたる「勘定吟味役」を設置し、お金の流れを厳しくチェックした。また、太閤検地以来80年も行われていなかった土地の調査(検地)も実施し、税金をきちんと集められるようにした。
「生類憐れみの令」の多角的な真実
徳川綱吉の代名詞ともいえる「生類憐れみの令」。この法律は、1685年から綱吉が亡くなるまでの約25年間にわたって何度も出された一連の法律をまとめたものだ。この法律は、現代ではしばしば「天下の悪法」として語られるが、その内容と背景には、単なる動物愛護を超えた、より深い意味が隠されていた。
動物だけでなく人間も対象だった法令
生類憐れみの令と聞くと、「犬を大切にする法律」というイメージが強い。しかし、この法律の対象は犬だけではなかった。魚、猿、鳥、亀、蛇、虫、さらにはハエや蚊まで、あらゆる生き物の殺生が禁じられた。鷹狩りや釣り、ウナギやドジョウの売買まで禁止されたため、人々の生活に大きな影響を与えた。
さらに注目すべきは、この法令が人間に対しても人道的な側面を持っていたことだ。病気の人や酔っぱらいを道に放置してはいけないという決まりや、病気の牛や馬を捨ててはいけないという通達もあった。特に重要なのは、「捨て子」を禁止する法令が出されたことだ。この法令によって、7歳までの子どもを届け出させる制度が作られ、子どもの命を大切にする社会へと変わっていくきっかけになった。
このように、生類憐れみの令は、犬だけでなく、人間を含む「生きとし生けるものすべて」を対象とした、とても広範囲な法律だった。一般的なイメージとは異なり、この法律は生き物の命を尊重する倫理観を社会に広めようとする、綱吉の強い意志の現れだったと言える。
厳罰化が招いた「天下の悪法」という悪評
生類憐れみの令は、その極端な内容と厳しすぎる罰則のため、「天下の悪法」と庶民から酷評された。この法律に違反すると、非常に重い罰が科せられた。犬を殺しただけで、死罪(斬罪)になったり、遠い島へ流される(遠島)ことがあった。
例えば、将軍の行列に犬が出ないように、門前にいた数十匹の犬を俵に詰めて川に沈めた浅草観音のお寺の役人は、遠島という重い罪に処された。さらに、頬にとまった蚊を殺しただけで、家に閉じこもる謹慎処分になったり、井戸に落ちて死んだ猫のために、台所の責任者が流刑になったりするほどの厳しさだった。
これらの事例から、当時の人々にとって、この法律がどれほど生活を苦しめるものだったかがわかる。しかし、この厳罰は、戦国時代の「殺伐とした価値観」をなくし、命を大切にする新しい道徳観を強制的に社会に広めようとする幕府の強い意志の表れでもあった。この法律は、現代の私たちが持つ「命を大切にする」という考え方のルーツの一つになったのかもしれない。
なぜ犬が特別に保護されたのか?
徳川綱吉が「犬公方」と呼ばれたのは、生類憐れみの令の中でも特に犬の保護に力を入れたからだ。綱吉自身が戌年生まれだったからという俗説が有名だが、当時の江戸では、野犬が大量に増えて社会問題になっていたという事実がある。人間を噛んだり、捨て子を食べるなどの問題が頻繁に起きていたのだ。
生類憐れみの令によって犬を殺せなくなった幕府は、野犬を収容するために、江戸の郊外に巨大な犬小屋(御囲)をいくつも作った。中でも中野犬小屋は、約29万坪(東京ドーム約20個分)という広大な敷地を誇った。これらの犬小屋の維持には莫大なお金がかかり、その費用は「御犬上げ金」として庶民から集められた。この莫大な費用と、犬を傷つけるだけで厳しく罰せられる状況が、庶民の不満を大いに高めた。
しかし、この犬保護政策には、人間社会の安全を守るための「実用性」という側面もあった。野犬を収容することで、町を安全に保とうという目的があったのだ。綱吉の治世は、個人的な思想と社会問題への対策が複雑に絡み合っていたと言える。
綱吉の死後、法令は廃止へ
徳川綱吉が亡くなると、生類憐れみの令のほとんどはすぐに廃止された。綱吉の死後に出されたお触れには、「生き物のことは、これからは気にしなくてよい。しかし、憐れむべきものは憐れみなさい」と書かれていた。これにより、庶民の生活は元に戻り、鳥や魚介類の売買も再び自由になった。
この廃止は、綱吉の跡を継いだ将軍を補佐した新井白石の財政改革の一環として行われた。生類憐れみの令にかかっていた莫大な費用をなくすことで、幕府の財政を立て直そうとしたのだ。
捨て子禁止令はなぜ継続された?
しかし、生類憐れみの令のすべてが廃止されたわけではなかった。重要なのは、人間に対する「捨て子禁止令」が、綱吉の死後も継続されたことだ。この事実は、この法令が単なる動物愛護ではなく、人間という弱者の命を大切にするという、より人道的な目的を持っていたことを示している。
捨て子禁止令が継続されたことで、子どもを捨てることが許されない社会へと日本が大きく変わるきっかけになった。このことは、生類憐れみの令全体を「悪法」と単純に片づけるのではなく、その中に含まれていた社会にとって本当に必要な部分が、新井白石によって見極められ、引き継がれたことを意味している。
FAQ
Q1: 徳川綱吉はなぜ「犬公方」と呼ばれたの?
A1: 「犬公方」は、綱吉が特に犬の保護に力を入れたことから、庶民に皮肉を込めてつけられたあだ名だ。綱吉自身が戌年生まれだったという俗説も、そのあだ名が広まる一因となった。
Q2: 徳川綱吉がしたことは何ですか?
A2: 徳川綱吉は、武力による政治から、学問や道徳を重んじる「文治政治」へと転換を推し進めた。また、生類憐れみの令を発布し、生き物の命を大切にする社会を目指した。その他にも、元禄文化が栄える基盤を作り、財政改革にも取り組んだ。
Q3: 生類憐れみの令はいつ出された法律ですか?
A3: 生類憐れみの令は、1685年(貞享2年)から綱吉が亡くなる1709年まで、約25年間にわたって何度も出された法令の総称だ。
Q4: 生類憐れみの令で、犬以外にどんな生き物が保護されましたか?
A4: 犬だけでなく、牛、馬、鳥、魚、亀、蛇、虫、さらにはハエや蚊まで、ほとんどの生き物が保護の対象だった。
Q5: 徳川綱吉の治世は、なぜ元禄文化の繁栄に繋がったのですか?
A5: 綱吉が文治政治を推し進め、学問や芸術を奨励したこと、そして経済が発展したことが元禄文化の基盤となった。商業が栄え、町人が力をつけたことで、近松門左衛門の浄瑠璃や松尾芭蕉の俳句、浮世絵といった新しい文化が花開いた。
Q6: 生類憐れみの令が現代に与えた影響はありますか?
A6: 生類憐れみの令の人道的な側面、特に捨て子禁止令は綱吉の死後も続き、弱者の命を守るという意識を日本社会に根付かせた。現代の動物愛護や人道主義の考え方のルーツの一つとして再評価されている。
結論
徳川綱吉は、戦国時代からの殺伐とした価値観を一掃し、学問と道徳で平和な社会を築こうとした、強い信念を持った将軍だった。その治世は、文治政治への転換、元禄文化の繁栄、そして社会に大きな変化をもたらした「生類憐れみの令」など、多岐にわたる功績を残した。
特に「生類憐れみの令」は、その厳しさから「天下の悪法」と批判された一方で、動物だけでなく、捨て子や病人を守るという人道的な側面も持っていた。この法令が綱吉の死後も一部引き継がれたことは、その真の目的が単なる動物愛護ではなかったことを物語っている。
彼の治世と政策を多角的に見つめ直すことで、歴史は単純な善悪で判断できるものではないということがわかる。ぜひこの機会に、徳川綱吉という人物について、さらに深く調べてみてほしい。