太宰治

日本文学史に名を刻む太宰治と芥川龍之介の間には、単なる作家同士という枠を超えた深い因縁が存在する。太宰にとって芥川は神のような存在であり、その文学的影響は計り知れない。しかし、二人が生きて言葉を交わすことは一度もなかった。それにもかかわらず、太宰の人生は芥川の影を追いかけ続けたと言っても過言ではないだろう。

太宰治が文学の道を志した頃、芥川龍之介はすでに文壇の寵児として輝かしい地位を築いていた。太宰はその才能と生き様に強烈に惹かれ、自身の創作活動の指針としたのである。特に太宰の青年期における芥川への傾倒ぶりは凄まじく、彼の行動や外見に至るまで、その影響は色濃く表れている。

しかし、その純粋な憧れは、やがて「芥川賞」という文学賞を巡る泥沼の騒動へと発展していくことになる。第一回芥川賞の候補となった太宰は、この賞を渇望するあまり、選考委員に対して常軌を逸した行動をとってしまった。この事件は、太宰の作家としてのプライドと人間的な弱さが露呈した象徴的な出来事として語り継がれている。

本記事では、太宰治が抱いた芥川龍之介への異常なまでの執着と、それが引き起こした数々のドラマについて詳しく掘り下げていく。二人の間に横たわる運命的なつながりや、作品に込められた共通の苦悩を知ることで、彼らの文学がより深く心に響くようになるはずだ。二人の天才の魂が交錯した軌跡を追っていく。

太宰治と芥川龍之介の接点と憧れの正体

直接の面識はあったのかという事実

結論から言えば、太宰治と芥川龍之介が直接顔を合わせたり、言葉を交わしたりした事実は存在しない。二人の活動時期はずれており、すれ違いの運命にあったからだ。芥川龍之介が35歳の若さで自ら命を絶ったのは1927年のことであり、当時の太宰はまだ青森の高校生であった。太宰が本格的に作家として東京で活動を始めるのは、芥川の死後数年が経過してからのことである。

もし二人が同時代に作家として活動していたなら、どのような対話が生まれただろうかと想像する読者は多い。しかし現実には、太宰にとって芥川は永遠に手の届かない「不在の師」であり続けた。会うことが叶わなかったからこそ、太宰の中で芥川の存在は神格化され、欠落感を埋めるようにその背中を追いかけることになったのかもしれない。生身の人間としての交流がなかったことが、かえって太宰の幻想を肥大化させたと言えるだろう。

この「会えなかった」という事実は、太宰の文学における喪失感の原点の一つとも考えられる。憧れの対象がすでにこの世にいないという絶望は、太宰の作品に通底する虚無感や、死への親和性に少なからず影響を与えたはずだ。彼にとって芥川は、現実の先輩作家というよりも、精神的な支柱であり、到達すべき理想の象徴だったのである。

ノートに書き綴られた名前の数々

太宰治の芥川龍之介への心酔ぶりを物語る有名なエピソードとして、学生時代のノートの存在が挙げられる。旧制弘前高等学校時代の太宰のノートには、「芥川龍之介」という名前がびっしりと書き連ねられている箇所があるのだ。授業中の余白に無意識に書いたものか、あるいは強い念を込めて記したものかは定かではないが、その執着の強さは一目瞭然である。

当時の太宰にとって、芥川の名前を書くという行為は、単なるファン心理を超えた一種の儀式だったのかもしれない。自らのアイデンティティを模索する多感な時期に、芥川という存在は太宰の精神の一部を占拠していた。ノートの筆跡からは、憧れの作家に少しでも近づきたいという渇望と、自分も同じ高みに上り詰めたいという野心が透けて見えるようだ。

また、単に名前を書くだけでなく、太宰は芥川の作品を読み漁り、その文体や思考回路を自身に取り込もうとしていた。ノートへの落書きは、そうした没入の深さを可視化した証拠と言える。この時期に培われた芥川への強烈な意識は、後の太宰の作家活動において、良くも悪くも大きな原動力となっていったことは間違いない。

写真のポーズを真似る心理

太宰治の写真として最も有名なものの一つに、頬に手を当てて斜め横を向いているポーズがある。実はこのポーズは、芥川龍之介の代表的な写真を意識して真似たものだと言われている。太宰は自身のビジュアルイメージを構築する際にも、敬愛する芥川の姿を重ね合わせていたのである。これは単なる模倣ではなく、自分こそが芥川の精神的後継者であるという強烈な自負の表れとも受け取れる。

人は憧れの対象と同じ格好をすることで、その力や才能にあやかりたいと願うものだ。太宰の場合、その思いは病的なほどに純粋で、かつ切実だった。彼は自分の外見を芥川に寄せることで、内面においても彼に近づこうとしたのだろう。写真に残されたそのポーズからは、太宰がどれほど深く芥川に同一化しようとしていたかが痛いほど伝わってくる。

さらに興味深いのは、太宰がこのポーズをとった写真が、彼の代表的な肖像として後世に定着したことだ。結果として、太宰は視覚的にも「芥川の影」をまとうことに成功したと言える。しかし、そのポーズの裏には、偉大な先達への憧れと同時に、それを超えられない自身の無力感や、演じることへの哀愁も漂っているように感じられる。

芥川の死が太宰に与えた衝撃

1927年7月24日、芥川龍之介が服毒自殺を遂げたというニュースは、当時高校生だった太宰治に激震を走らせた。その衝撃は計り知れず、太宰はこの出来事をきっかけに部屋に閉じこもり、学業への意欲を失ってしまったと伝えられている。彼にとって芥川の死は、単なる有名作家の訃報ではなく、自らの精神的支柱が崩れ去るような体験だったに違いない。

芥川の自殺は、太宰自身の「死」に対する考え方を決定づける要因の一つとなった可能性がある。太宰自身も生涯で何度も自殺未遂を繰り返しており、その根底には芥川の最期への共感や模倣願望があったとも推測される。天才と崇めた人物が自ら命を絶ったという事実は、太宰にとって「文学への献身」と「破滅」がセットであることを強烈に印象付けたのかもしれない。

この衝撃的な出来事の後、太宰の生活は荒れ始め、花柳界への出入りや義太夫への熱中など、退廃的な行動が目立つようになる。これは芥川を失った喪失感を埋めるための逃避行動であったとも解釈できる。芥川の死は、太宰治という一人の文学青年を、我々が知る「無頼派」の作家へと変貌させる決定的な転換点となったのである。

太宰治と芥川龍之介を巡る芥川賞の騒動

第一回芥川賞への並々ならぬ執念

1935年に創設された「芥川龍之介賞」に対し、太宰治が抱いた執着は尋常なものではなかった。敬愛する芥川の名を冠したこの賞の第一回受賞者になることは、太宰にとって作家としての地位を確立するだけでなく、芥川の後継者として認められるための悲願であった。当時の太宰は借金や薬物中毒に苦しんでおり、賞金と名誉を喉から手が出るほど欲していたという現実的な事情もあった。

太宰は候補作として『逆行』や『道化の華』を含む作品群で挑んだが、結果は石川達三に敗れ、次席に終わった。この落選を知った時の太宰の落胆ぶりは激しく、その後の行動に大きな影を落とすことになる。彼は単に賞が欲しかっただけではなく、「芥川龍之介」という名のついた勲章を誰よりも求めていたのだ。自分こそがその名にふさわしいという自負があったからこそ、敗北は許しがたい屈辱となった。

この第一回芥川賞を巡る太宰の必死な姿は、文学史における有名なエピソードとして語られている。彼は選考委員に対して事前に働きかけを行うなど、なりふり構わぬ行動に出ていた。その必死さは、当時の彼がいかに追い詰められ、そしていかに芥川賞を「救い」として求めていたかを物語っている。この執念こそが、彼の人間臭さであり、作品の迫力につながる要素でもあった。

川端康成との激しい論争

第一回芥川賞の選考において、選考委員であった川端康成は太宰の作品を評価しつつも、「作者、目下の生活に厭な雲あり」と評して受賞を見送った。これは太宰の私生活の乱れや薬物中毒を指した批判であったが、これに対して太宰は激怒した。彼は文芸誌上で「川端康成へ」と題した文章を発表し、公然と反論を行ったのである。

その反論の中で太宰は、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と川端の生活態度を皮肉り、「刺す」という過激な言葉まで使って怒りを露わにした。このやり取りは、文壇の大御所に対する新人の反乱として大きな注目を集めた。太宰にとって、自身の文学の本質ではなく、私生活を理由に落選させられたことは到底納得できるものではなかったのだろう。

しかし、この激昂の裏には、川端に認められたかったという裏返しの感情もあったのかもしれない。尊敬する選考委員からの拒絶は、太宰のプライドを深く傷つけた。この騒動は、太宰の感情的な激しさと、文学に対する真剣な姿勢を世に知らしめる結果となった。二人の対立は、純文学における「芸術と実生活」の関係を問いかける重要な論争として記録されている。

佐藤春夫への泣き落としの手紙

第一回での落選後、太宰は第二回の芥川賞受賞を目指して、選考委員の一人である佐藤春夫に猛烈なアプローチを開始した。彼は佐藤を師と仰ぎ、長さ4メートルにも及ぶ巻紙の手紙を送りつけたと言われている。その内容は「芥川賞をください」「佐藤さん、私を忘れないで」といった、懇願とも哀願とも取れる切実なものであった。

この「泣き落とし」とも言える手紙には、太宰の弱さと計算高さが同居している。彼は自分の苦境を訴え、同情を誘うことで賞を獲得しようとしたのだ。なりふり構わず師匠にすがる姿は、滑稽であると同時に、彼の追い詰められた精神状態を痛々しいほどに伝えている。太宰にとって芥川賞は、単なる名誉ではなく、生き延びるための蜘蛛の糸だったのかもしれない。

しかし、結果として第二回芥川賞は「該当作なし」となり、太宰の願いは再び叶わなかった。佐藤春夫も太宰の才能は認めていたが、賞を与えることには慎重にならざるを得なかったのだろう。この一連の経緯は、太宰と佐藤の関係にも微妙な亀裂を生じさせたが、同時に太宰の人間的な未熟さと愛嬌を伝えるエピソードとして、多くの読者の記憶に残ることとなった。

落選後の太宰の生活と変化

芥川賞への度重なる挑戦と失敗は、太宰治の心身に深い傷を残した。特に第三回候補になった際には、過去に候補になった作家は対象外という新規定により選考から外されるという不運にも見舞われた。この頃の太宰はパビナール中毒が悪化し、精神病院への入院を余儀なくされるなど、人生のどん底を味わっていた。賞への執着が、皮肉にも彼を破滅へと近づけてしまったのである。

しかし、この苦難の時期を経て、太宰の文学は新たな深みを獲得していくことになる。自身の弱さや醜さをさらけ出す作風はより研ぎ澄まされ、『富嶽百景』や『走れメロス』といった名作が生まれる土壌となっていった。芥川賞という世俗的な栄誉を得られなかったことで、彼は「無冠の帝王」として、独自の文学的地位を確立する覚悟を決めたのかもしれない。

芥川賞騒動から離れた後の太宰は、結婚を経て一時的に精神的な安定を得る時期もあった。あの時の狂気じみた執着は鳴りを潜め、より内省的で円熟した作品を発表するようになる。芥川龍之介の背中を追うだけでなく、自分自身の言葉で時代と向き合う作家へと成長を遂げたのである。落選の挫折は、結果として太宰を「太宰治」という唯一無二の作家にするための試練だったと言えるだろう。

太宰治と芥川龍之介の作風と共通点

生い立ちと孤独感の類似性

太宰治と芥川龍之介の文学を比較する際、二人の生い立ちに共通する「孤独」は見逃せない要素である。芥川は生後間もなく母が精神を病み、伯母に育てられるという複雑な家庭環境で育った。一方の太宰も、津軽の富豪の家に生まれながら、家族の中での疎外感や封建的な家制度への反発を抱き続けていた。両者とも、幼少期から「居場所のなさ」を敏感に感じ取っていた点が共通している。

この根源的な孤独感は、二人の作品世界に色濃く反映されている。彼らの描く主人公たちは、常に周囲との違和感に苦しみ、自意識の檻の中でもがいていることが多い。社会にうまく適合できない自分自身を見つめ、それを文学へと昇華させる姿勢は、二人に共通する創作の原点と言えるだろう。読者は彼らの作品を通して、自身の抱える孤独を代弁してもらっているように感じるのだ。

また、二人とも高い知性と教養を持ちながら、それを誇示するのではなく、むしろその知性がもたらす苦悩を描いた点も似ている。考えすぎてしまうがゆえに生きづらさを感じる「知識人の悲哀」は、太宰と芥川を結ぶ重要なキーワードである。彼らの作品が時代を超えて共感を呼ぶのは、この普遍的な孤独の描写が秀逸だからに他ならない。

自殺という最期の共通点

太宰治と芥川龍之介を語る上で避けて通れないのが、両者が自ら命を絶つという最期を選んだ事実である。芥川は35歳で「ぼんやりした不安」を動機として服毒自殺し、太宰は38歳で愛人とともに入水自殺を遂げた。二人の死は、それぞれの時代の空気を反映しつつ、文学者の業のようなものを感じさせる事件として社会に衝撃を与えた。

彼らの自殺は、突発的なものではなく、長い時間をかけて醸成された死生観の帰結であったように見える。作品の中で何度も死について言及し、死を身近なものとして捉えていた彼らにとって、自死はある種の必然だったのかもしれない。太宰が芥川の死に強い衝撃を受け、その後を追うように死を意識し続けたことは、二人の魂が深い部分で共鳴していた証左とも言える。

しかし、その死の意味合いには違いもある。芥川の死が理性的で静謐な絶望の果てにあるとすれば、太宰の死はより演劇的で、最後まで生への執着を引きずった上での決断だったように感じられる。それでも、早すぎる死によって彼らの物語が完結したことは、二人の作家像を神話化し、永遠の青春性を付与することになったのは間違いない。

「道化」としての生き方

太宰治と芥川龍之介の作品には、自分を偽って周囲に合わせようとする「道化」の精神が見え隠れする。太宰の『人間失格』における主人公が、他人との関係を築くために道化を演じる姿はあまりにも有名だ。しかし、芥川もまた、短編『大道寺信輔の半生』などで見られるように、自意識過剰な自分を客観視し、一種の演技者として社会と対峙していた側面がある。

この「道化」という態度は、繊細すぎる神経を守るための鎧のようなものだったのだろう。本心を隠し、おどけて見せることでしか他人と繋がれない不器用さは、二人の作家に共通する人間的な魅力でもある。彼らは自分自身の滑稽さを作品の中で露悪的に描くことで、読者との間に共犯関係のような親密さを築くことに成功している。

道化を演じることの疲弊と悲しみは、彼らの文学の重要なテーマとなっている。笑いの裏にある涙や、明るく振る舞う仮面の下にある絶望。そうした二面性を巧みに描き出したからこそ、彼らの作品は単なる暗い私小説にとどまらず、深みのある人間ドラマとして成立しているのだ。二人は「道化」を通して、人間の弱さを肯定しようとしたのかもしれない。

現代でも読まれ続ける理由

太宰治と芥川龍之介の作品が、死後数十年を経てもなお多くの読者に愛され続けているのはなぜだろうか。それは、彼らの描く苦悩や不安が、現代社会に生きる我々の感情と痛いほどリンクするからである。人間関係の煩わしさ、将来への漠然とした不安、自己承認欲求と自己嫌悪の板挟みといったテーマは、時代が変わっても色褪せることがない。

特に若い世代にとって、彼らの作品は「自分の気持ちを分かってくれる」教科書のような存在となり得る。学校や社会での生きづらさを感じたとき、太宰や芥川の言葉は救いとなり、避難場所となるのだ。彼らが内面をさらけ出して書いてくれたおかげで、読者は自分だけが苦しいのではないと勇気づけられるのである。

また、二人の文章の美しさや完成度の高さも、読み継がれる大きな理由である。芥川の理知的で切れ味鋭い文体と、太宰の語りかけるような親しみやすい文体。それぞれのスタイルは異なりますが、日本語の表現力を極限まで高めた名文であることに変わりはない。普遍的なテーマと卓越した表現力を兼ね備えた彼らの作品は、これからも日本文学の至宝として読み継がれていくことだろう。

まとめ

本記事では、太宰治と芥川龍之介の多層的な関係について解説してきた。太宰にとって芥川は、直接会うことこそ叶わなかったものの、生涯を通じて追い続けた偉大な師であった。学生時代からノートに名を書き、写真のポーズを真似るほどの強烈な憧れは、やがて第一回芥川賞を巡る執念や川端康成との論争といった劇的なドラマを生み出した。

二人の間には、孤独な生い立ちや自死という最期、そして道化として生きる苦悩など、驚くべき共通点が存在する。しかし、太宰は単なる模倣者には終わらず、落選の挫折を糧にして独自の文学世界を確立した。芥川龍之介という存在は、太宰治という作家を形成する上で欠かせない触媒であり、同時に超えるべき壁でもあったのだ。

今日、我々が二人の作品を読んで心を揺さぶられるのは、そこに普遍的な人間の弱さと真実が描かれているからである。太宰と芥川、二人の天才が織りなす魂の共鳴を知ることで、彼らの残した物語はより一層の色彩を帯びて我々に語りかけてくるだろう。