結論:『草枕』は「非人情」の旅を描いた、筋よりも芸術論が主役の小説
『草枕』は、夏目漱石が1906年(明治39年)に雑誌『新小説』で発表した小説です。30歳の洋画家が山中の温泉宿に泊まり、宿の出戻りの女性・那美と知り合う、というのが大筋です。
書き出しは「山路を登りながら、こう考えた。」で、続いて「智に働けば角が立つ。」「とかくに人の世は住みにくい。」と人の世の窮屈さが語られます。主人公が求めるのは、利害や損得から離れた心持ち、つまり「非人情」の境地です。
舞台の「那古井温泉」は、熊本県玉名市の小天温泉がモデルです。漱石は熊本の第五高等学校の教師だった1897年(明治30年)の大晦日に、友人とこの温泉を訪れており、その体験が小説のもとになりました。
基本情報
- 作者:夏目漱石(1867年2月9日〜1916年12月9日。慶応3年〜大正5年)
- 時代:明治時代
- 発表:1906年(明治39年)、雑誌『新小説』
- 執筆:1906年7月26日に書き始め、8月9日に脱稿
- 単行本:1907年に短編集『鶉籠』に収録。1914年12月には春陽堂から単行本として刊行
- 主人公:30歳の洋画家
- 舞台:那古井温泉(モデルは熊本県玉名市の小天温泉)
- 英訳題:The Three-Cornered World(訳者はアラン・ターニー)
草枕のあらすじと登場人物|非人情の旅とは
冒頭の「智に働けば角が立つ」
物語は、山道を登る主人公の独白から始まります。「智に働けば角が立つ。」「とかくに人の世は住みにくい。」という冒頭は、漱石の作品の中でもとりわけよく知られた一節です。
理屈で押せば他人とぶつかり、感情に寄り添えば流されてしまう。そう考える主人公は、住みにくい人の世から離れ、利害や損得を抜きにして物事を眺める「非人情」の旅に出ます。小説の入り口が、そのまま主人公の旅の目的の宣言になっています。
あらすじ:画家、那美、駅の別れ
時は日露戦争のころ。30歳の洋画家は、山中の温泉宿に泊まります。そこで出会うのが、宿の若い奥様の那美です。那美は出戻りの女性で、画家に自分の絵を描いてほしいと頼みます。
ところが画家は、那美の顔には描くのに必要な何かが欠けていると感じ、筆を取りません。物語の終わりは駅の場面です。那美の従兄弟の久一が、再び満州の戦地へ向かうことになり、見送りに行きます。そこへ、別れた夫が満州行きの金を求めて現れます。汽車が動き出し、窓越しに元夫と那美が見つめ合ったとき、那美の表情に哀れみが浮かびます。画家はそれを見て、これで絵になると感じます。
大事件が続く小説ではなく、画家の目に映る風景と、彼の考えたことが中心に置かれています。
登場人物のまとめ
- 画家(主人公):30歳の洋画家。非人情の旅をしている
- 那美:宿の若い奥様。出戻りで、画家に自分の絵を頼む
- 久一:那美の従兄弟。満州の戦線へ再び向かう
- 別れた夫:満州行きの金を那美に求めて駅に現れる
- 志保田の隠居:那美の父
夏目漱石が草枕で描いた「非人情」の意味
非人情とは何か
「非人情」は、冷たく振る舞うという意味ではありません。作中では、利害や損得から離れた心持ちを指します。人間関係の義理や得失を一度脇に置き、目の前のものを一枚の絵のように見る態度です。
この小説は、西洋の詩と東洋の詩歌を対比する議論も含んでいます。西洋の詩は人間関係や利害から逃れられないものとして論じられ、東洋の詩歌は俗世を超えた境地を示すものとして語られます。非人情は、この東洋の詩歌の境地を、小説の中で試みたものだと読めます。
画家の目が変わる瞬間
非人情の見方で那美を眺める画家は、絵にならないと感じ続けていました。変化が訪れるのは、先に述べた駅の場面です。那美の顔にあらわれた哀れみを見たとき、画家は初めて絵になると感じます。
距離をとって眺めるという態度を貫いてきた主人公が、人の感情が動く一瞬に美を見出して終わる。この結びは、非人情の旅の行き着く先として読めます。私は、この終わり方こそ、筋を追うだけでは見落としやすい本作の核心だと考えています。
漱石はいつ、この作品を書いたのか
漱石は松山、熊本での教師生活を経て、1900年に文部省からイギリス留学を命じられ、1903年1月に帰国しました。帰国後は第一高等学校と東京帝国大学で教え、1905年の『吾輩は猫である』で小説の執筆を始めます。『草枕』はその翌年、1906年の作品です。同じ1906年には『坊っちゃん』も発表されています。
1907年には朝日新聞社に入り、専業の作家になりました。『草枕』は、教師と作家の二足のわらじを履いていた時期の作品にあたります。
草枕の舞台とモデル|小天温泉と熊本での体験
1897年の大晦日、小天へ
漱石は1896年に熊本の第五高等学校の英語教師となり、同じ年に教授になっています。その熊本時代の1897年(明治30年)の大晦日、友人の山川信次郎とともに小天温泉を訪れました。この旅が、約9年後に書かれた『草枕』のもとになります。執筆自体は1906年7月26日に始まり、8月9日に終わっています。
モデルになった前田家の人々
作中の「志保田の隠居」は、前田案山子(1828〜1904)がモデルです。案山子は肥後国玉名郡小天村の生まれで、自由民権運動に関わった政治家です。1890年の第1回衆議院議員総選挙で熊本県第1区から当選しました。
案山子は1878年に小天山のふもとで温泉を見つけ、そこに別邸を建てています。自由民権運動の活動家たちが訪れた場所でもあり、のちに漱石がここに泊まり、小説の舞台にしました。那美のモデルについては、案山子の娘とされています。ただし、娘の名前の書き方は、参照したページによって一致していません。ここでは名前には立ち入りません。
那古井温泉は実在の地名ではない
作中の舞台「那古井温泉」は小説の中の名前で、モデルは熊本県玉名市の小天温泉です。小説の風景と現地を重ねて読むことはできますが、作中の描写がそのまま実際の様子を写したものだと断定する材料は、今回確かめた資料にはありません。訪ねる場合は、自治体や観光協会の最新の案内を確認してください。
草枕が後世に与えた影響|英訳とグレン・グールド
英訳題『The Three-Cornered World』
『草枕』の英訳はアラン・ターニーによるもので、題は『The Three-Cornered World』(三角の世界)です。直訳の『The Grass Pillow』では意味が通りにくいと考え、作中の一節を踏まえて題を付けたと、ターニー自身が序文で述べているとされています。
原題をそのまま直訳しても意味が通じにくいため、翻訳者が題を作り直した、という点に、この作品の翻訳の難しさがうかがえます。
グレン・グールドが愛読した
カナダのピアニスト、グレン・グールドは『草枕』を愛読しました。自分で編集したものをラジオで朗読し、20世紀の最高の小説の一つだと語ったとされます。異なる訳者の版を4冊持ち、死の床にも書き込みだらけの本があったと伝えられています。
この話は、日本の小説が海外の芸術家に深く受け止められた例として、しばしば紹介されます。なぜ惹かれたのかについて、この記事で確かめた資料に断定できる記述はありません。
『草枕』を読む入口
『草枕』は青空文庫で公開されています。冒頭の数ページを読むだけでも、作品の調子はつかめます。筋を急いで追うより、画家の見方を味わうつもりで読むのが向いています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 小天温泉(熊本県玉名市):『草枕』の那古井温泉のモデル。漱石は1897年の大晦日に訪れた
- 前田家別邸:前田案山子が小天に建てた別邸。漱石が宿泊し、小説の舞台のモデルになった
- 雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区):漱石の墓所
関連する人物
- 前田案山子:志保田の隠居のモデル。自由民権運動家で、第1回衆議院議員
- 山川信次郎:1897年の小天行きに同行した友人
- アラン・ターニー:英訳『The Three-Cornered World』の訳者
- グレン・グールド:『草枕』を愛読したカナダのピアニスト
よくある質問
『草枕』の冒頭の言葉は?
「山路を登りながら、こう考えた。」で始まり、「智に働けば角が立つ。」「とかくに人の世は住みにくい。」と続きます。
「非人情」とはどういう意味ですか?
冷淡さではなく、利害や損得から離れた心持ちのことです。主人公の画家が旅の中で求める境地として描かれています。
『草枕』の舞台はどこですか?
作中では「那古井温泉」という名前ですが、モデルは熊本県玉名市の小天温泉です。漱石は1897年の大晦日に、友人とここを訪れています。
英訳題が『The Three-Cornered World』なのはなぜですか?
訳者のアラン・ターニーが、直訳の『The Grass Pillow』では意味が通りにくいため、作中の一節を踏まえて題を付けたと序文で述べているとされています。
グレン・グールドはどう関わっていますか?
グールドはこの小説の愛読者で、自分で編集したものをラジオで朗読しました。異なる訳者の版を4冊持っていたとされています。




