堀尾吉晴

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった有名な武将たちの活躍が語られる戦国時代。その陰には、歴史の表舞台にはあまり登場しないものの、時代を動かした重要な人物がたくさんいた。その一人が「堀尾吉晴(ほりお よしはる)」である。

彼は、派手な活躍で知られる武将ではないかもしれないが、戦乱の世を生き抜き、平和な時代の礎を築いた、まさに「建築家」と呼ぶにふさわしい人物だった。普段はとても温厚で「仏の茂助(ほとけのもすけ)」と呼ばれるほどだったが、一度戦場に立てば「鬼の茂助(おにのもすけ)」と恐れられるほどの強さを見せたという。この二つの顔こそが、彼が激動の時代を乗り越え、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人から信頼される理由だった。

この記事では、一人の武将から、新しい時代の都市をデザインする統治者へと見事な変貌を遂げた堀尾吉晴の生涯と、彼が後世に残した偉大な功績について、詳しく解説していく。

豊臣秀吉の信頼を得た堀尾吉晴の出世物語

堀尾吉晴の人生は、豊臣秀吉との出会いによって大きく動き出した。一介の土豪の子から、秀吉の天下統一事業を支える重要な武将となり、ついには大名へと駆け上がっていく。その道のりは、彼の誠実な人柄と確かな実力に裏打ちされたものだった。

尾張の土豪に生まれた堀尾吉晴の若き日

堀尾吉晴は1543年、尾張国(現在の愛知県西部)の土豪の子として生まれた。彼が仕えていた主家は、織田信長との争いに敗れて滅亡。16歳にして主を失った吉晴は、浪人として苦しい日々を送ることになる。この若き日の苦労が、彼の謙虚で思いやりのある人間性を育んだのかもしれない。やがて吉晴は尾張を統一した織田信長に仕えるが、彼の運命を決定づけたのは、信長の家臣であった木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉の配下となったことだった。この出会いが、吉晴の人生を大きく飛躍させるきっかけとなる。

「仏の茂助」と「鬼の茂助」という二つの顔

堀尾吉晴の人柄を最もよく表すのが、「仏の茂助」と「鬼の茂助」という二つのあだ名だ。普段の彼は非常に温厚で謙虚な性格から「仏の茂助」と呼ばれていた。しかし、ひとたび戦場に出ると、鬼のように勇猛果敢に戦ったため、「鬼の茂助」とも呼ばれたのだ。豊臣秀吉も彼の戦いぶりを称賛したと伝えられている。この二面性は、ただ優しいだけでも、ただ厳しいだけでもない、彼の複雑な魅力とリーダーとしての資質を示している。普段は理性的で人々を思いやるが、いざという時や不正に対しては、誰が相手であろうと決して屈しない強い意志を持っていた。

豊臣秀吉のもとで立てた数々の手柄

秀吉の家臣となった吉晴は、その後の主要な戦のほとんどに参加し、次々と手柄を立てていく。1582年、本能寺の変で織田信長が討たれた後、秀吉が明智光秀と戦った山崎の戦いでは、鉄砲隊を率いて勝敗を分ける重要な拠点「天王山」をめぐる戦いで敵将を討ち取る大活躍を見せた。また、それに先立つ備中高松城攻めでは、降伏した敵将が切腹する際の検使役(立会人)という重要な役目も務めており、秀吉から深く信頼されていたことがわかる。

遠江国浜松城主への大出世

戦での功績を重ねるごとに、吉晴の領地(石高)は着実に増えていった。はじめはわずか150石ほどだったが、山崎の戦いの功績で丹波国で約6,300石、賤ヶ岳の戦いの後には若狭国で1万7,000石と、着実に大名への道を歩んでいく。そして1590年、秀吉が天下を統一した後、徳川家康が関東へ移ったことに伴い、その前の居城であった遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)と12万石という広大な領地を与えられた。今日の浜松城の基礎となる石垣を築いたのも吉晴であり、彼は武将としてだけでなく、領地を治める統治者としても優れた能力を発揮したのだ。

松江の基礎を築いた堀尾吉晴の晩年と功績

豊臣秀吉の死後、日本は再び大きな動乱の時代へと突入する。堀尾吉晴は、その中で巧みな政治判断とリーダーシップを発揮し、一族を守り抜いた。そして人生の最後に、彼の名を歴史に永遠に刻むことになる大事業、松江の街づくりにその情熱を注いだ。

豊臣政権を支えた三中老としての役割

1598年に秀吉が亡くなると、政治の中心には権力を持つ「五大老」と、行政を担当する「五奉行」が置かれたが、両者の対立は日に日に深まっていった。この一触即発の状況で、両者の間を取り持つ緩衝材として「三中老」という役職が設けられ、吉晴はその一人に選ばれた。これは、彼の公正で温厚な人柄が、対立する両派閥から信頼されていた証拠と言える。彼は政権の分裂を避けるため、危険な綱渡りをしながら調整役という重責を担ったのだ。

関ヶ原の戦いと堀尾家を襲った事件

秀吉亡き後の天下をめぐり、1600年に関ヶ原の戦いが起こると、吉晴は徳川家康の側につくことを決断した。しかし、戦いに向かう途中、三河国池鯉鮒(現在の愛知県知立市)の宿で、酒の席での口論から殺人事件に巻き込まれてしまう。吉晴は全身に17か所もの傷を負いながらも相手を討ち取ったが、この時の重傷が原因で、天下分け目の本戦に参加することはできなかった。父の代わりに息子の忠氏が東軍に参加して活躍し、戦後、堀尾家の忠誠心は家康に高く評価された。その結果、領地は大幅に加増され、出雲・隠岐両国(現在の島根県)24万石の大名となったのである。

孫のために築いた名城・松江城

新しい領地を得た堀尾家だったが、1604年に藩主の忠氏が28歳の若さで急死するという悲劇に見舞われる。跡を継いだ孫の忠晴はまだ6歳だった。すでに隠居していた61歳の吉晴は、幼い孫のために再び立ち上がり、後見人として藩の政治を担うことを決意する。彼の人生最後の情熱は、新しい時代の中心地として、松江に新しい城と城下町を建設することに注がれた。「城普請の名人」としても知られた吉晴は、その知識と経験のすべてを注ぎ込み、1607年から5年の歳月をかけて、現在の国宝・松江城と、その城下町を見事に完成させた。

堀尾吉晴が現代に残した偉大な遺産

堀尾吉晴が後世に残した最大の功績は、間違いなく松江の街そのものである。彼が築いた松江城の天守は、日本に12しか残っていない創建当時の姿をとどめる城の一つとして、国宝に指定されている。また、彼がデザインした城下町の基本的な構造は、現在の松江市の中心部にも引き継がれている。彼は単に戦が強い武将だっただけでなく、未来を見据えた都市計画家でもあった。松江の人々にとって、吉晴は今なお尊敬される「松江開府の祖」なのである。

わずか三代で終わりを迎えた堀尾家の血筋

吉晴が生涯をかけて守り、発展させた堀尾家だったが、その血筋は意外なほど早く途絶えてしまう。孫の忠晴が、跡継ぎのいないまま1633年に亡くなってしまったのだ。当時の江戸幕府には、藩主に跡継ぎがいない場合、その領地を没収するという厳しいルールがあった。そのため、堀尾家は取り潰しとなり、吉晴が築き上げた松江藩は幕府に没収されてしまった。一代で大名まで上り詰めた堀尾家は、わずか三代で歴史の表舞台から姿を消すことになった。

まとめ:堀尾吉晴とは

  • 堀尾吉晴は、戦国時代から江戸時代のはじめにかけて活躍した武将である。
  • 若い頃に主家を失い、浪人として苦労したが、のちに豊臣秀吉の家臣となった。
  • 普段は温厚で「仏の茂助」と呼ばれたが、戦場では「鬼の茂助」と恐れられる猛将だった。
  • 秀吉のもとで多くの戦に参加して手柄を立て、浜松城12万石の大名に出世した。
  • 秀吉の死後は、大名たちの対立を仲裁する「三中老」の一人として重要な役割を担った。
  • 関ヶ原の戦いでは徳川家康の味方となり、戦後に領地が出雲・隠岐24万石に加増された。
  • 藩主だった息子が若くして亡くなると、幼い孫の後見人となり、政治を行った。
  • 人生の最後に、5年の歳月をかけて国宝・松江城と城下町を建設した。
  • 彼が築いた松江城と街並みは、現代に残る最も偉大な遺産である。
  • しかし、堀尾家は孫の忠晴の代で跡継ぎがなくなり、三代で家が途絶えてしまった。