勝海舟と坂本龍馬、日本の未来を切り拓いた二人の巨星

幕末の日本を変えた勝海舟と坂本龍馬。異なる立場から出会い、日本の夜明けに多大な影響を与えた二人の関係性や、歴史を変えたエピソードを分かりやすく解説する。

身分も立場も全く違う二人が、どのように出会い、どんな関係を築き、日本の未来にどんな大きな影響を与えたのか。この記事では、勝海舟と坂本龍馬の運命的な出会いから、彼らが協力して成し遂げた偉業、そして現代の私たちにも通じる彼らのメッセージまでをひも解いていく。

二人の関係性や、知られざるエピソードを深く知ることで、歴史がもっと面白くなるはずだ。さあ、一緒に幕末の日本を旅してみよう。

この記事のポイント
  • 勝海舟と坂本龍馬は、身分や立場を超えて日本の未来のために協力した異色のコンビだった。
  • 龍馬が海舟を「暗殺しようとした」という伝説は、実は後世に作られたものかもしれない。
  • 海舟が作った神戸海軍操練所は、短命に終わったものの、維新を担う多くの人材を育てた。
  • 龍馬の「船中八策」は、その後の明治政府の考え方の土台になった。
  • 司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が、現代の龍馬のイメージを大きく作った。

勝海舟と坂本龍馬

幕末の二大巨星:勝海舟と坂本龍馬の異色の出会い

幕末の日本は、まさに「大激変」の時代だった。外国の船が日本にやってきて開国を迫り、国の中では「外国人を追い出せ!」という考えと「外国と仲良くしよう」という考えがぶつかり合っていた。幕府と天皇、そして各地の藩もそれぞれ対立し、国全体がバラバラになりそうな危機に直面していたのだ。

こんな中で、日本の未来を心配し、新しい国を作ろうと立ち上がったのが、勝海舟と坂本龍馬という二人の偉人だった。

勝海舟は、江戸幕府のトップクラスの役人だったが、外国の船に乗ってアメリカへ行った経験(咸臨丸での渡米)から、世界の状況を深く理解していた。彼は、日本を守るためには強い海軍が必要だと強く訴え、いつも世界に目を向けていたのだ。

一方の坂本龍馬は、土佐藩という地方の下級武士の出身だった。藩から抜け出して自由な身になった後、勝海舟に弟子入りし、その進んだ考え方と行動力に深く心を奪われた。

二人は全く違う立場だったが、「日本を強くしたい」「外国と対等な国にしたい」という同じ目標を持っていた。だからこそ、明治維新という大きな変革を成功させるために、とても重要な役割を果たしたのだ。彼らの関係性は、幕末の大きな変化を象徴していると言えるだろう。

龍馬が海舟を「暗殺しようとした」は本当?運命の出会いと師弟関係

勝海舟と坂本龍馬が出会ったのは、1862年(文久2年)12月9日のことだと言われている。この頃、龍馬は江戸にいて、各地の志士たちと交流を深めていた。

彼らの出会いには、「龍馬が勝海舟を殺そうとしていた」という劇的なエピソードが語り継がれている。しかし、この「暗殺説」は、勝海舟自身が28年後に書いた文章から広まったもので、最近では本当に龍馬に殺意があったのかどうか、疑問視されている。勝海舟には話を大げさに言う癖があったとも言われているからね。この話は、二人の関係の始まりを印象的にし、龍馬の「型破り」な性格を強調するために、後から付け加えられた可能性が高いと言えるだろう。特に、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が龍馬を英雄として描いたことで、このような劇的な出会いのエピソードはさらに強調されたのかもしれない。

実際のところ、龍馬は江戸で外国の黒船を直接見て、「刀では大砲には勝てない」と悟ったと言われている。だからこそ、海軍のトップだった勝海舟に直接会いにいったと考えられている。龍馬は勝海舟に「幕府は日本をどうするつもりですか?」と直接問いかけた。

勝海舟は、当時の日本がバラバラになっている状況を指摘し、「日本を一つにすること」の大切さを説いた。そして、自分がアメリカで見てきたことを踏まえ、「海軍を作って外国と対等な国にする」という壮大な計画を具体的に話したのだ。この話を聞いて、龍馬は勝海舟の進んだ考え方に深く感動し、その場で弟子入りを志願したと言われている。勝海舟も龍馬に会ってすぐに、彼が素晴らしい人物だと見抜き、弟子として迎え入れた。龍馬は勝海舟の知識の深さに驚き、家族への手紙にも「日本で一番の人物だ」と書いているほどだ。

勝海舟は、ただの幕府の役人ではなかった。日本の未来を見通す力を持っていただけでなく、若い志士たちに自分の考えを伝え、行動を促す、素晴らしい教育者でもあった。龍馬が勝海舟に「幕府は日本をどうするつもりか」と尋ねたことから、彼が日本の現状に強い危機感を持ち、具体的な解決策を求めていたことがわかる。勝海舟は、幕府の考えを説明するだけでなく、「日本を一つにする大切さ」や「海軍を作って外国と対等になる」という、当時の幕府の考えを超えた壮大な計画を語ったのだ。龍馬が勝海舟の考えに「魅了されて弟子になった」ことや、「日本で一番の人物」と評価したことは、勝海舟の考えが当時の若い志士たちにとって、どれほど魅力的で説得力があったかを示している。勝海舟は、知識があるだけでなく、自分の考えを人に深く共感させる力を持っていたのだ。

さらに、勝海舟は、龍馬のような藩を抜け出した浪人をためらうことなく弟子に迎え入れ、その才能を見抜いた。これは、彼が身分や生まれにとらわれず、本当に日本の未来を担える人材を見つけ、育てようとする強い気持ちと、人を見る目を持っていたことを意味する。勝海舟の指導がなければ、坂本龍馬の行動はこれほど明確な方向性を持たず、日本の近代化の進み方も大きく変わっていたかもしれない。

勝海舟は、西郷隆盛について龍馬が「西郷というやつは、よく分からないやつでした。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もしバカならとんでもない大バカ者で、賢いならとんでもない賢者でしょう」と話した時に、「龍馬もなかなか人を見る目があるな」と答え、龍馬の人間観察力を高く評価している。これは、勝海舟が龍馬を単なる弟子としてだけでなく、その見識を認め、対等に近い存在として信頼していたことを示している。龍馬は勝海舟との出会いをきっかけに多くの人と知り合い、日本を守るための新しい国づくりの形をはっきりとさせていった。勝海舟は龍馬にとって初めての先生であり、その後の龍馬の考え方や行動に決定的な影響を与えた。龍馬は勝海舟から自由な考え方を受け継ぎ、その後の柔軟な行動の土台を築いたのだ。

新時代への胎動:神戸海軍操練所と維新の担い手たち

外国の黒船が日本に来たことで、勝海舟は「国を守るためには海軍が必要だ!」と強く主張していた。彼はアメリカに行った経験も活かし、常に世界に目を向けていたのだ。1863年(文久3年)、外国人を追い出そうという考えが広まる中、大阪湾の防備が重要になり、幕府は兵庫や西宮に大砲を置く場所を作ることを決めた。その指導を任された勝海舟は、将軍・徳川家茂と一緒に大阪湾を巡視した際、現在の神戸の場所に海軍の練習所を作る許可を得たのだ。

勝海舟は、幕府や各藩の壁を越えて、日本全体が共有する「大きな海軍の拠点」を作り上げたいという壮大な夢を持っていた。神戸海軍操練所は、海軍の士官を育てる場所と、軍事工場という具体的な役割を持つ施設として、勝海舟が提案し、幕府によって1864年(元治元年)5月に完成した。現在の神戸市中央区新港町あたりにあり、広さは東京ドーム約1.2個分にも及ぶ大きな施設だった。

坂本龍馬は、勝海舟の右腕として大いに活躍した。神戸海軍操練所を作るためのお金が足りなかった時、龍馬は福井藩に出向いて、藩主の松平春嶽から運営資金を借りるなど、資金集めに奔走した。また、勝海舟が作った私塾「海軍塾」(神戸塾とも呼ばれる)では、龍馬が塾頭を務めた。龍馬は自分の故郷である土佐から、近藤長次郎ら約20名の仲間を呼び寄せ、この塾で学ばせたのだ。

しかし、神戸海軍操練所は1864年に完成したにもかかわらず、わずか1年後の1865年(慶応元年)に閉鎖されてしまう。その理由は、操練所で学んでいた訓練生の一部が、幕府に反抗する「禁門の変」という事件に参加してしまったことだ。さらに、土佐藩を抜け出した浪人や長州藩に同情的な考えを持つ生徒が多かったため、操練所は幕府の施設でありながら、幕府に反抗する色が強いと見なされてしまったのだ。勝海舟も、この事件の責任を問われて、軍艦奉行という役職を解かれてしまった。

神戸海軍操練所の閉鎖は、幕府の限界を示す出来事だったと言えるだろう。操練所は、勝海舟の壮大な夢(日本の「大きな共有の海軍拠点」)のもと、幕府が作った海軍の士官を育てる場所であり、これは幕府も近代化の必要性を感じていた証拠でもあった。しかし、たった1年で閉鎖されてしまったのは、訓練生の一部が幕府に反抗する事件に参加したことや、操練所自体が反幕府的な場所だと見なされたことが直接の原因だった。勝海舟自身も役職を解かれてしまった。

この閉鎖は、幕府が古いやり方にこだわり、勝海舟のような未来を見通す力を持った人物の考えを完全に理解し、支えきれなかったことを示している。幕府の中の古い考えを持つ人たちと、新しい考えを持つ人たちの対立、そして幕府の力が弱まっていたことの表れとも言える。この点では、操練所は幕府にとっての「失敗」だったと言えるだろう。

しかし、操練所は閉鎖されたが、そこで育った人材(坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨など)は、その後の明治維新でとても重要な役割を果たすことになる。特に、龍馬は操練所が閉鎖された後も、その考えを受け継ぐ形で亀山社中(後の海援隊)を作り、海軍を作ったり貿易を続けたりした。だから、神戸海軍操練所は、幕府の施設としては短命に終わった「失敗」だったが、日本の近代海軍の基礎を作り、維新の原動力となる人材を育てたという点では、長い目で見れば「成功」だったと言えるだろう。これは、短期的な結果が必ずしも長期的な影響を決めるわけではないという、歴史の複雑さを示しているエピソードだ。

操練所が閉鎖された後、勝海舟は給料が出なくなった塾生たちを西郷隆盛に預けた。薩摩藩は彼らを引き受け、「船も操れそうだから、会社でもやらせよう」と長崎で亀山社中を作らせた。ある時期からは、亀山社中は薩摩藩の子会社のようなものだったと言われている。亀山社中は後に土佐藩に属する「海援隊」と名前を変え、坂本龍馬はその隊長に就任したのだ。

龍馬は藩を抜け出した浪人として「指名手配中」の身だった。そんな中、1863年(文久3年)1月15日、龍馬を連れた海舟一行は、嵐で下田港に避難し、旅館に泊まっていた。同じ頃、土佐藩の殿様である山内容堂も、江戸から京都へ向かう途中で、同じく下田の宝福寺に泊まっていた。幕府の軍艦奉行だった勝海舟が港に入ったという知らせを聞いた容堂は、海舟を酒の席に招きたいと使いを出した。海舟はわずかな供を連れて宝福寺に現れ、殿様に会った。

海舟は容堂に、龍馬が藩を抜け出した罪を許し、自分に預けてほしいと強くお願いした。容堂は、海舟がお酒を飲めないことを知っていたにもかかわらず、「ならば、この酒を全部飲み干してみよ!」と言い返したが、海舟はためらうことなく大きな朱色の杯に入ったお酒を飲み干したのだ。さらに許しの証が欲しいと願う海舟に、容堂は自分の白い扇子を取り出し、「ひょうたん」の絵を描き、その中に「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」と書き記して海舟に渡した。この海舟の直接の交渉によって、龍馬はまもなく藩を抜け出した罪を許され、まさに維新という大きな動きの中で活躍を始めることができたと言われている。この会談の間、龍馬は遊郭で吉報を待っていたと伝えられている。

勝海舟の素晴らしい人間力と、坂本龍馬の才能を見抜く力、そして彼を助けるための強い行動は、龍馬がその後、歴史に残る活躍をすることができた決定的な要因だったと言えるだろう。坂本龍馬は「藩を抜け出した浪人」であり、「指名手配中」の身だった。当時の幕府のやり方では、これはとても重い罪で、普通なら捕まって罰せられる状況だった。龍馬の命運は風前の灯だったと言ってもいいだろう。勝海舟は、そんな龍馬の罪を許し、自分の元に預けるよう、土佐藩主・山内容堂に直接交渉した。これは、幕府の偉い人である勝海舟が、藩の最高権力者に対して、たかが一人の浪人のために頭を下げ、その身分を保証するという、前例のない行動だった。

山内容堂は、勝海舟がお酒を飲めないことを知っていながら大杯のお酒を飲み干すように求め、勝海舟はためらうことなくそれを実行した。この行動は、勝海舟の龍馬に対する強い信念と、目的を達成するための覚悟、そして相手の意表を突く度胸の表れだ。結果として、龍馬は藩を抜け出した罪を許され、その後の維新という大きな動きの中で活躍することができたのだ。もしこの許しがなければ、龍馬の歴史的な役割は大きく変わっていた可能性が高いだろう。このエピソードは、勝海舟が単なる軍事の知識や政治の腕だけでなく、相手の心を動かす「人間力」や「度胸」、そして状況を打開する「交渉力」に優れていたことをはっきりと示している。彼のこの能力が、日本の歴史の転換点において、個人の運命と国の進路を大きく変える要因となったのだ。

変革の推進者:薩長同盟と大政奉還の影に勝海舟と坂本龍馬

1866年(慶応2年)1月、京都の薩摩藩の屋敷で、坂本龍馬が間に入って、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)の間で薩長同盟が結ばれた。薩摩藩と長州藩はもともと犬猿の仲で、過去の事件(八月十八日の政変や禁門の変)でさらに敵対関係が深まっていた。このようなとても難しい状況の中で、龍馬は両藩を結びつけようと動いたのだ。

龍馬の交渉術は、とても巧みなものだった。彼はまず、両藩のプライドが話し合いの邪魔になっていることを理解し、「なぜできないのか」という理由を解決することから始めた。次に、両藩が同盟を結ぶことで得られる具体的なメリットをはっきりとさせた。薩摩と長州は対立していたが、共通の目的は徳川幕府を倒し、政治の権利を天皇に返す「大政奉還」を実現する点で一致していた。龍馬は、長州藩には「薩摩藩の名前で最新の銃を買い取って売る」ことを、薩摩藩には「足りない食料を長州藩から提供する」ことを持ちかけ、お互いの利益を結びつけたのだ。これは、ただの政治的な同盟ではなく、経済的なメリットを伴う、現実的な協力関係だったと言えるだろう。

さらに、龍馬は感情に訴えかける説得も上手にやった。桂が話し合いを諦めてその場を去ろうとした時、龍馬は西郷に対し、「西郷さん、桂は私にこう言っていましたよ。『もし長州が滅びたら、幕府を倒せるのは薩摩しかいない』と」と伝え、桂のプライドと西郷の器量を刺激した。最終的には、「最後まで俺が責任を持つ」という約束を形にし、自分の持っている鉄砲を使うことを許可するなど、後押しをした。これは、龍馬が相手の求めるものを調べ、分析して情報を集め、適切な言葉で説得する「交渉のプロ」だったことを示している。ただし、薩長同盟の成立は龍馬一人の手柄ではなく、ロンドンやパリで西洋の強い力を目の当たりにした薩摩・長州の密航者が、帰国後に薩摩と長州の間を取り持った結果でもあるという見方もある。龍馬は、彼らの努力をまとめ上げ、最終的な合意に導いた「まとめ役(コーディネーター)」としての役割が大きかったと言えるだろう。

坂本龍馬の歴史に残る偉業は、彼自身のオリジナルのアイデアというよりも、むしろ様々な考えや利益を持つ勢力間の対立を乗り越え、共通の目標に向かって調整し、実行する優れた「まとめ役(コーディネート)能力」にこそ真価があったと言えるだろう。薩長同盟も大政奉還も、そのアイデア自体は龍馬が一人で考え出したものではないと、複数の情報源が指摘している。特に大政奉還は、勝海舟や大久保一翁らが以前から提案していたものだ。これは、龍馬が「政策を作る人」というよりも、すでにあった素晴らしいアイデアを現実にする能力に長けていたことを示唆している。

しかし、龍馬は「仲立ち、交渉、説得」の才能に優れ、大きな事業を実行する「まとめ役(コーディネーター)」だったと評価されている。薩長同盟では、両藩の利益を一致させ(武器と米の交換)、感情に訴え、責任を形にする交渉術を使った。大政奉還では、後藤象二郎を通じて土佐藩の考えとし、将軍・慶喜を説得した。これらの行動は、単なるアイデアを伝える人ではなく、実行する人としての龍馬の真価を示している。

龍馬がこのような役割を果たすことができた背景には、彼が「特定の考え方にとらわれず、戦争を嫌い、内乱を望まなかった」、そして「徳川家を見捨てない」という柔軟な考え方を持っていたことがある。これは、彼が特定のグループや主義に固執せず、日本の全体的な利益と平和的な解決を最も大切にしていたことを意味する。この考え方は、先生である勝海舟から受け継いだ「自由な考え方」と、西郷隆盛や桂小五郎のような異なる立場の人物とも付き合い、バランス感覚を養った結果だ。彼の柔軟性とバランス感覚が、対立する勢力間の橋渡しを可能にしたのだ。龍馬の本当の偉業は、既存の対立構造を超え、様々な意見や利益を調整し、具体的な行動へと結びつける「実行力」と「調整能力」にあったと言えるだろう。これは、現代のリーダーシップにも通じる普遍的な能力であり、複雑な問題を解決する上で欠かせない資質だ。

勝海舟と薩摩藩の西郷隆盛は、お互いに初めて会った時から惹かれ合うものがあった。勝海舟は西郷を見て「天下で恐ろしいものを見た」と驚き、西郷は勝海舟を「一体どれだけ賢い方なのか、全く見当がつかない」と感心している。勝海舟の考えに刺激された西郷は、「幕府と一緒に長州藩を討つのではなく、むしろ長州藩と手を組んで幕府を倒す」という考えに一変したと言われている。勝海舟が西郷をとても高く評価していることに龍馬が興味を持ち、勝海舟に頼んで、龍馬と西郷の対面が実現した。初めて会った時の西郷の印象を、龍馬は勝海舟に「西郷というやつは、よく分からないやつでした。釣鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」と報告した。この龍馬の人物評に対して、勝海舟は「龍馬もなかなか人を見る目があるな」と答え、龍馬の人間観察力を認めている。龍馬と西郷の関係性はわずか3年という短いものだったが、二人の出会いと努力は明治という新しい時代へ向かう大きな原動力となった。龍馬の死を知った西郷は「土佐屋敷に入れておけばこんなことにならなかったのに」と残念がって泣いたと言われている。このエピソードは、西郷が龍馬に対して抱いていた深い信頼と友情を示している。

大政奉還は、1867年(慶応3年)に実現した龍馬の大きな功績の一つとされているが、そのアイデア自体は龍馬が一人で考えたものではなく、幕府の役人だった勝海舟や大久保一翁、松平春嶽、横井小楠といった開国を進める考えを持っていた人たちが以前から唱えていたものだ。龍馬は、天皇と幕府という二つの政府があることが混乱の原因だと考え、幕府が速やかに政治の権利を天皇に返し、天皇の下で新しい国を作るという計画を抱いていた。

龍馬が土佐藩の後藤象二郎に示したとされる「船中八策」は、この新しい国づくりの具体的な計画で、文書としては残っていないが、その内容は、政治の権利を天皇に返すこと、上下の議会を作って二院制にすること、外国との不平等な条約を改めること、憲法を作ること、海軍を強くすること、天皇を守る軍隊を作ること、お金の価値を外国と合わせることなど、8つの項目からなる。龍馬は戦争を嫌う平和主義者で、国内の戦争を避けるため、後藤象二郎を通じて幕府に大政奉還を促した。龍馬は「政治の権利を天皇に返せば、幕府を倒す理由がなくなる……すべてが平和に解決できる!」と考えていたのだ。龍馬は、徳川家も一番大きな大名として新しい政府に加える「大名たちの連合政権」を考えており、武力で幕府を倒そうとする薩摩藩とは考えが合わない部分もあった。龍馬と後藤象二郎は、将軍・慶喜に「大政奉還の後、あなたを初代総理にする」と伝え、小松帯刀もこれを後押ししたため、慶喜は自分だけの判断に近い形で大政奉還を行ったと言われている。これは、龍馬の「仲立ち、交渉、説得」の才能が発揮された例であり、彼は政策を作る人というよりも、大きな事業を実行する際の「まとめ役(コーディネーター)」だったと評価される。

「船中八策」の考えは、後に「新政府綱領八策」となり、明治政府の政策の基本となる「五箇条の御誓文」に受け継がれていくことになる。これは、龍馬の考えがただの理想論で終わらず、具体的な国づくりの指針となったことを示している。

戊辰戦争で、江戸城への総攻撃を目前にした1868年(慶応4年)3月13日、14日の二日間、薩摩藩の屋敷(高輪)と田町の蔵屋敷で、勝海舟と西郷隆盛の会談が行われ、歴史に残る「無血開城」が実現した。この「無血開城」が実現したことで、江戸の町が戦争で焼かれることを防ぎ、また、この混乱に乗じて日本に介入しようとする外国の勢力からも日本を守ることができたのだ。勝海舟は、幕府の役人でありながら広い視野を持ち、西郷隆盛らを育てた人物であり、幕府の外では自分の会社(幕府)の悪口を言ったり、外の人と積極的に交流したりするタイプだった。西郷、龍馬、桂小五郎など、広い人脈を持っていた。問題が起こると、勝海舟が出て行って解決したと言われている。

勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城の会談は、単なる敵同士の交渉ではなく、二人の間にあった深い理解と信頼関係に基づくものだった。勝海舟は幕府の代表であり、西郷隆盛は幕府を倒そうとする薩摩藩の主要人物だった。本来であれば、お互いに敵対する立場だ。二人の会談は、まさに古い政治の形と新しい政治の形、その運命をかけたものだった。しかし、二人はお互いに「初めて会った時から惹かれ合うものがあった」とされ、勝海舟は西郷を見て「天下で恐ろしいものを見た」と驚き、西郷は勝海舟を「一体どれだけ賢い方なのか、全く見当がつかない」と感心している。このお互いの深い敬意と信頼関係が、武力衝突を避け、平和的な政権の引き継ぎを可能にした江戸城無血開城という歴史的な決断を可能にしたのだ。

勝海舟は、幕府の代表として、また西郷隆盛は新しい政府軍の代表として、武力衝突を避け、平和的な政権の引き継ぎを実現させた。これは、単なる政治交渉を超え、個人の人間性や信頼が、国の運命を決める重要な場面で、どれほど大きな影響力を持つかを示している。勝海舟は、幕府が滅びることを予測しつつも、その中で最大限の責任を果たし、新しい時代への穏やかな移行を促した。西郷隆盛もまた、武力で幕府を倒すことを強く主張していたにもかかわらず、勝海舟の提案を受け入れる柔軟性を持っていた。彼らの会談は、古い政治から新しい政治への移行期において、暴力ではなく話し合いと信頼によって国の混乱を最小限に抑えることが可能だったという、歴史上貴重な教訓を与えてくれる。これは、激動の時代における理性と人間関係性の勝利だったと言えるだろう。

思想的潮流と影響:勝海舟と坂本龍馬、そして吉田松陰

吉田松陰の強い意志、特に「草莽崛起(そうもうくっき:役人ではない、民間の志を持った人が立ち上がって日本を変える)」という考え方は、松下村塾という塾で学んだ生徒たちに大きな影響を与え、坂本龍馬もその影響を受けたとされている。この考え方は、龍馬のような下級武士や藩を抜け出した浪人にとって、身分を超えて国の変革に貢献できる可能性を示唆した。龍馬が「天命(神様から与えられた使命)」を意識することが多かったのは、吉田松陰の考え方にかなり影響されていると、ある本には書かれている。これは、松陰が持っていた強い使命感が、龍馬の行動の根本にも深く根ざしていたことを示唆する。

龍馬は、1853年(嘉永6年)に剣術を学ぶため江戸へ行き、1854年(安政元年)に土佐へ帰った際、絵師の河田小龍から西洋の事情などについて学んだ。龍馬は河田小龍を通して、ジョン万次郎という人が外国で体験したことなどを聞いたのだ。ジョン万次郎から聞いたアメリカでの体験などは、その後の龍馬の考え方や行動に大きく影響を与えたとされている。これらの情報は、龍馬にこれまでの日本にはない、国際的な視点をもたらした。

龍馬の考え方が作られる上で、外国から入ってきた情報が決定的な役割を果たしたことは明らかだ。彼は、河田小龍を通じてジョン万次郎の外国での体験を聞き、その後の考え方や行動に大きく影響を受けた。これは、彼が直接海外に行ったことがなくても、間接的な情報源から国際的な状況を学び、自分の視野を広げたことを示している。また、黒船が日本に来るのを直接見たことで、「剣術では大砲には勝てない」という現実を突きつけられ、これまでの「外国人を追い出せ」という考え方や、武力で解決することの限界を痛感した。この経験は、彼が単なる「外国人を追い出せ派」や「幕府を倒せ派」といった既存の考え方にとらわれず、もっと現実的で国際的な視点から日本の未来を考えるきっかけとなった。

龍馬は幕末の志士としては、天皇を尊び外国人を追い出すという考え(イデオロギー)に酔って、安易に人を殺す志士たちを冷静に見ており、「人を斬り殺して幕府を倒せるのか、まだ時期ではない」と考えていた。池田屋事件の約2年前には、外国人を追い出す派から見れば敵となる幕府の役人である勝海舟に弟子入りしている。これは、彼が考え方よりも現実的な解決策を重視し、柔軟な思考を持っていたことを示している。龍馬の考え方は、儒学の一つである朱子学よりも、むしろ「老子」の考えに強く影響を受けていたとされている。彼のニックネーム「自然堂」や、妻のおりょうと暮らした家の名前が「自然堂」だったことからも、老子の考えの中心にある「道(タオ)」や「無為自然(何もしないで自然のままに任せる)」への傾倒がうかがえる。これは、彼が形式にとらわれない型破りな人物であり、既存のルールにとらわれない自由な発想の源だったことを示している。

勝海舟と吉田松陰は、直接会って話した記録は少ないが、大村益次郎や大鳥圭介といった人物が同じ時期に幕府の洋書を研究する場所(蕃書調所)にいて、お互いに交流があったことがわかっている。これは、間接的に考え方が影響し合った可能性があることを示唆する。考え方の共通点としては、二人とも日本の未来を心配し、国の力を強くしようと考えていた点が挙げられる。また、既存のやり方や習慣にとらわれず、変革が必要だと強く感じていた点も共通している。

しかし、その具体的な方向性には大きな違いがあった。吉田松陰は、「朝鮮や満州、中国を切り従えろ」と主張するような、強硬な外国に対する政策、つまり外国人を追い出す考えに傾倒していた。彼の思想は、後に大日本帝国を神の国とする極端な国家主義思想の源流となっていく側面がある。これに対し、勝海舟は1863年の日記に、日本・朝鮮・中国の東アジア三カ国が同盟して欧米の侵略に抵抗するという考えを記している。彼は欧米の近代文明のあり方にも批判的な目を向け、日本の役割は「西洋が間違ったことを仕掛けてきたら、きちんと説得して間違いを正し、正しい道を世界に広げなければならない」と、世界平和の大義を唱えていた。この思想は西郷隆盛にも共通するものであった。勝海舟は、西郷隆盛と横井小楠を「心底恐ろしいと思ったのはこの二人だよ」と評価しており、彼らが持つ「世界平和の大義」という思想に共感していたことがうかがえる。松陰の思想は「あまりにも時代を超えた進歩的な思想は、古い考えの人たちからは警戒され、また生活が大きく変わることが予想される普通の人たちを不安に陥れる」という側面も指摘されている。これは、松陰の思想が持つ急進性と、それゆえに社会との摩擦があったことを示唆している。

後世における評価の変遷と現代的意義:勝海舟と坂本龍馬は今、私たちに何を語りかけるか

勝海舟と坂本龍馬は、幕末から明治維新にかけて日本の近代化に大きな影響を与え、後世で高く評価される人物だ。しかし、その評価は時代とともに変わってきた。特に、司馬遼太郎の歴史小説『竜馬がゆく』は、坂本龍馬のイメージを形作る上で決定的な影響を与えた。

勝海舟の評価

勝海舟は、幕府の役人でありながら、アメリカへ行った経験で培った広い視野を持ち、坂本龍馬や西郷隆盛らを育てたことで知られている。特に、戊辰戦争での西郷隆盛との会談を通じて江戸城の無血開城に貢献したことは、戦争で江戸の町が焼かれることを防ぎ、日本の混乱を最小限に抑えた偉業として高く評価されている。明治維新後も、旧幕府の代表として新しい政府の役人となり、海軍の重要な役職を歴任し、伯爵という位を与えられた。

勝海舟は、その先を見通す力と決断力から、現代の日本にいたらもったいない、惜しいと言われる声も多く、「坂本龍馬も、勝海舟という人物がいたからこそ、と思うと余計に偉大さを感じます」と、龍馬の活躍の背景に勝海舟の存在を挙げる評価も少なくない。彼が残した深い意味を持つ言葉の数々は、現代にも通じる普遍的な教訓として受け止められている。また、ある評価では、勝海舟を「天下を泰山(安定した大きな山)のように、どっしりとゆるぎないものにする人」と記しており、その国を安定させる手腕が高く評価されている。

坂本龍馬の評価

坂本龍馬は、土佐の下級武士という出身ながら、幕末の混乱期において薩長同盟の成立や大政奉還の実現に深く関わり、日本の近代化に貢献した「風雲児」として広く知られている。わずか5年の間に、日本で最初の会社である亀山社中の結成や、不可能だと思われた薩長同盟の実現など、数々の偉業を成し遂げた。彼の「日本をもう一度、洗濯いたします!」という言葉に象徴される大胆な発想力と行動力は、多くの人々を魅了し続けている。

しかし、坂本龍馬の現代における英雄的なイメージの多くは、司馬遼太郎の長編時代小説『竜馬がゆく』によって作られた側面が強いとされている。この小説は、1962年から1966年にかけて連載・出版され、龍馬を「国のために行動し、私欲がなく」「平和を愛する先見の明がある人」「平等主義者」「明るく行動力がある」という要素を兼ね備えた英雄として描いた。司馬遼太郎は、龍馬が武力に頼らず「万国公法(国際法)」や大政奉還を提案した平和主義者であること、型破りで国際法を解決に用いるなど、時代の先駆者としての側面を強調した。また、人間は皆平等であるという考え方を龍馬の根本的な部分とし、それを実践しようとした人物として描いている。

一方で、史実と比較すると、司馬遼太郎の創作意図が指摘されることもある。例えば、龍馬が藩を抜け出した理由を「国のため」と広く解釈している点や、薩長同盟における中岡慎太郎の努力を無視し、龍馬の行動力だけを強調した点などが挙げられる。また、いろは丸事件の解決において「万国公法」が参考にされ、龍馬が平和的に解決しようとしたと描かれているが、歴史資料には龍馬の平和に関する記述は見当たらず、「万国公法」で解決した記録もないとされている。むしろ、司馬遼太郎自身が講演で龍馬が優先したのは紀州藩側の航海日誌を押さえることだったと述べているように、これは司馬遼太郎が先入観で龍馬の平和主義を強調するために、歴史資料から想像し、フィクションを加えたものと考えられている。

司馬遼太郎は、龍馬を「型破り」で「明るく陽気で珍しい変わり者」と評し、常識にこだわらず、決まりごとに縛られない人物、自由と平等、法に基づいて社会を運営する意識を持つ近代的な考え方の持ち主であったと評価した。さらに、龍馬が豊かな計画性を持ち、「船中八策」や「新官制擬定番(新しい役所の仕組みの案)」、「新政府綱領八策」を提出しただけでなく、経済についても計画を持っていたと述べている。司馬遼太郎は、龍馬の本質を「幕府を倒すとか、外国人を追い出すとか、そういった世界を突き抜けていた」と捉え、明治維新そのものが龍馬にとって「ついで」に過ぎなかったとまで述べている。このように、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』を通じて、坂本龍馬を理想的な英雄像として描き出し、その後の坂本龍馬のイメージ形成に決定的な影響を与えた。彼が描いた龍馬像は、歴史資料に基づきつつも、司馬遼太郎自身の思想や戦後の日本社会の状況を反映したものであり、多くの日本人にとっての「坂本龍馬」像を確立したと言えるだろう。

現代的意義

勝海舟と坂本龍馬の関係性と彼らの功績は、現代社会においても多くのことを教えてくれる。異なる立場や背景を持つ人々が、共通の目標に向かって協力することの大切さ、既存のやり方にとらわれず、未来を見据えたビジョンを持つことの価値、そして、難しい状況でも諦めずに交渉し、行動することの意味を彼らの人生は教えてくれる。特に、平和的な解決を目指し、話し合いと信頼を通じて国の危機を乗り越えようとした彼らの姿勢は、現代の国際社会における紛争解決や、様々な価値観が共存する社会を築く上でも、普遍的な教訓を与えてくれる。

よくある質問

Q1: 勝海舟と坂本龍馬は、具体的にどういう関係だったのですか?

A1: 勝海舟と坂本龍馬は、幕府の役人と脱藩浪人という全く異なる立場でありながら、日本の未来を憂う共通の志を持ち、師弟関係を結んだ。勝海舟が龍馬の師であり、龍馬は勝海舟の進んだ思想や海軍構想に深く影響を受けた。

Q2: 坂本龍馬が勝海舟を「暗殺しようとした」という話は本当ですか?

A2: 坂本龍馬が勝海舟を「暗殺しようとした」というエピソードは有名だが、これは勝海舟自身が後に記した文章から広まったものであり、近年ではその信憑性が疑問視されている。物語性を高めるために脚色された可能性が高いと考えられている。

Q3: 神戸海軍操練所はなぜ短期間で閉鎖されたのですか?

A3: 神戸海軍操練所は、幕府の施設でありながら、訓練生の一部が幕府に反抗する事件に参加したり、反幕府的な考えを持つ生徒が多かったりしたため、幕府に危険視され、わずか1年で閉鎖された。勝海舟も責任を問われ役職を解かれた。

Q4: 薩長同盟と大政奉還において、坂本龍馬の役割は何でしたか?

A4: 坂本龍馬は、薩摩藩と長州藩という敵対する勢力を仲介し、薩長同盟を成立させた。また、幕府が政治の権利を朝廷に返す大政奉還を後藤象二郎を通じて促した。彼は、アイデアマンというよりは、対立する勢力間の利害を調整し、平和的な解決に導く「コーディネーター」としての役割を大きく果たした。

Q5: 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は、坂本龍馬のイメージにどのような影響を与えましたか?

A5: 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は、坂本龍馬を「天下国家のための行動力と無私」「平和主義者」「平等主義者」など、理想的な英雄として描写した。この小説によって、現代の多くの人々が抱く坂本龍馬のイメージが確立されたが、一部には史実との乖離や創作的な要素も含まれることが指摘されている。

Q6: 勝海舟と西郷隆盛の無血開城は、日本の歴史にどう影響しましたか?

A6: 勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城の会談は、武力衝突を回避し、江戸の町が戦火に巻き込まれるのを防いだ。これにより、日本の混乱を最小限に抑え、平和的な政権移行を可能にした点で、日本の近代化において極めて重要な出来事だった。

Q7: 坂本龍馬の「船中八策」は、その後の日本にどう影響しましたか?

A7: 坂本龍馬の「船中八策」は、具体的な形では残っていないが、その内容は後の明治政府の基本方針となる「五箇条の御誓文」に受け継がれていった。これは、龍馬の構想が単なる理想論ではなく、新しい国家形成の具体的な指針となったことを示している。

まとめ

勝海舟と坂本龍馬は、幕末の混乱期に日本の未来を切り拓いた、まさに「二大巨星」だった。彼らの関係性は、単なる師弟関係を超え、身分や立場が違う人々が、共通の危機意識と未来へのビジョンによって結びつき、国を変える大きな力となった象徴的な出来事だった。

勝海舟は、その素晴らしい先見性と世界の情勢への深い理解に基づいて、日本の近代海軍の必要性を説き、神戸海軍操練所の設立に力を尽くした。この操練所は短命に終わったが、そこで育った人材、特に坂本龍馬は、その考えを受け継ぎ、日本の近代化に欠かせない役割を果たしていくことになる。勝海舟の人間力と、脱藩浪人である龍馬の才能を見抜く目、そして彼を助けるための強い行動は、龍馬がその後の歴史に残る活躍をすることができた決定的な要因だった。

坂本龍馬は、先生である勝海舟から受け継いだ自由な考え方と、ジョン万次郎から得た外国の情報によって培われた国際的な視野を土台に、特定の考え方にとらわれない柔軟な思考と行動力を発揮した。彼の本当の価値は、薩長同盟の仲介や大政奉還を進めたことに見られるように、対立する勢力間の利益を調整し、平和的な解決を目指す優れた「まとめ役(コーディネート)能力」にあった。彼が提案した「船中八策」は、後の明治新政府の基本的な考え方に影響を与えるなど、その構想は単なる理想論で終わらず、具体的な国づくりの指針となった。

また、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城の会談は、古い政治と新しい政治の間に平和的な橋を架け、国が破滅的な内戦になるのを避けた珍しい例であり、個人の人間性や信頼関係が歴史の転換点においてどれほど重要であるかを示している。吉田松陰の考え方は、龍馬の行動の根本に影響を与えたが、龍馬自身は松陰のような急進的な外国人排斥論ではなく、より現実的で平和的な国の姿を探し求めた。

後世において、特に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によって、坂本龍馬は理想的な英雄像として広く知られるようになった。その描写には創作的な部分も含まれるが、龍馬が持っていた行動力、先を見通す力、そして平和を願う気持ちというイメージは、多くの人々に影響を与え続けている。勝海舟もまた、その先見性と無血開血の功績により、日本の近代化における重要な人物として高く評価されている。

勝海舟と坂本龍馬の人生と彼らの協力は、激動の時代において、個人の能力、考え方、そして人とのつながりが、国の運命をどれほど左右するかを示す貴重な歴史の教訓を与えてくれる。彼らの功績は、現代社会においても、変化に対応すること、多様な考え方を受け入れること、そして話し合いを通じて問題を解決することの大切さを改めて教えてくれる。