三島由紀夫

昭和の文化史において、ひときわ異彩を放つ二人の天才、三島由紀夫と美輪明宏。この二人の名前が並ぶとき、多くの人々はそこに耽美で妖艶な物語を想像するだろう。中でも「キス」という言葉は、彼らの関係性を象徴するミステリアスなキーワードとして語り継がれている。

実際、二人の間には映画のスクリーン上で行われた「演技としての口づけ」と、実生活における「幻の口づけ」という二つのエピソードが存在する。これらは単なるゴシップの枠を超え、互いの才能を認め合った芸術家同士の魂の交流を示すものだ。

三島由紀夫が美輪明宏に抱いていたのは、単なる恋愛感情だけではない。それは自らの美学を体現する存在への憧れであり、また同時に、自分にはない圧倒的な美しさに対するコンプレックスでもあったと言われている。

映画『黒蜥蜴』に残された有名なシーンの裏話から、酒場での知られざる求愛の逸話、そして死を超えて続く二人の精神的な絆。伝説の裏に隠された真実を知ることで、彼らが駆け抜けた時代の熱量が鮮明に見えてくるはずだ。

映画『黒蜥蜴』で見せた三島由紀夫と美輪明宏のキスシーン

三島由紀夫が熱望した映画出演と人間像という役柄

三島由紀夫と美輪明宏の「キス」を語るうえで欠かせないのが、1968年に公開された映画『黒蜥蜴』である。江戸川乱歩の小説を元に三島が執筆した戯曲は、美輪明宏(当時は丸山明宏)の主演で舞台化され大成功を収めていた。

その映画化にあたり、原作者である三島は、ある意外な役での出演を熱望したという。それが、生きたまま剥製にされた「人間像」という役どころであった。世界的作家である三島が、セリフもほとんどない端役を自ら買って出たことは、当時の世間を大いに驚かせた。

しかし、これには三島なりの強いこだわりがあった。彼は自身が鍛え上げた肉体をスクリーンに残すことに執着しており、また美輪明宏という圧倒的な美のカリスマと同じ画面に収まることを誰よりも望んでいたのである。

撮影現場での三島は、自身の筋肉がいかに美しく映るかをカメラマンと真剣に議論し、この映画出演を至福の遊び時間として楽しんでいたと伝えられている。

スクリーンに刻まれた妖艶なキスシーンの真実

映画『黒蜥蜴』のクライマックス近く、美輪明宏演じる女賊・黒蜥蜴が、コレクションとして飾られた人間像に近づくシーンがある。ここで黒蜥蜴は、剥製となった男(三島由紀夫)の唇に、うっとりとした表情で口づけを落とす。

これこそが、映像として記録された唯一の「三島由紀夫と美輪明宏のキス」である。このシーンは、映画のストーリー上では冷酷な女賊の異常愛を示す場面だが、現実の二人の関係を知る者にとっては、非常に象徴的な意味を持って映る。

動くことの許されない「物」となった三島に対し、美の化身である美輪が一方的に愛を注ぐという構図は、二人の力関係を暗示しているようで興味深い。撮影時、三島はこのシーンの撮影を心待ちにしていたという。

実際に美輪の唇が触れた瞬間、役柄としての無表情を保ちながらも、内心では歓喜していたという証言も残っている。このキスシーンは、単なる演技を超え、三島のナルシシズムと美輪への崇拝が入り混じった、映画史に残る名場面として今も語り草となっている。

撮影現場での三島の高揚と美輪の冷静な視線

撮影現場における二人の様子は、まさに対照的であったといわれている。三島由紀夫は自身の出番が来ると、念入りにボディビルで筋肉をパンプアップさせ、全身にオイルを塗って準備を整えた。

彼は「人間像」として美しくあるために全力を注ぎ、その姿は周囲のスタッフを圧倒するほどの熱気にあふれていた。彼にとってこの映画は、自らの肉体美を永遠に保存するための装置でもあったのだ。

一方、主演の美輪明宏は、そんな三島の様子を冷静かつ温かい目で見守っていた。美輪にとって三島は、尊敬する兄のような存在であると同時に、どこか手のかかる弟のような愛らしさを持つ人物でもあった。

キスシーンの撮影においても、美輪はプロの俳優として完璧に役に入り込んでいたが、三島はその状況自体を心から楽しんでいた。撮影後、三島は周囲に「あの丸山(美輪)にキスされたんだぞ」と嬉々として自慢したとも言われており、その無邪気な態度は、彼が抱いていた美輪への純粋な憧れを物語っている。

映画の成功と二人の「美の共犯関係」の確立

映画『黒蜥蜴』は公開と同時に大きな話題を呼び、カルト的な人気を博した。特に三島由紀夫と美輪明宏の共演シーンは、当時のアングラ文化や耽美派のファン層を熱狂させた。

この作品を通じて、二人の関係は単なる作家と俳優という枠を超え、世間に対して「美の共犯者」としての強烈な印象を植え付けることに成功したのである。三島が描いた退廃的で美しい世界観を、美輪がその身一つで具現化するという奇跡的なコラボレーションであった。

この映画におけるキスシーンは、フィクションの世界での出来事ではあるが、二人が共有していた美意識の極致を示している。三島は美輪の中に、自身が小説で描こうとした理想の人間像を見出し、美輪は三島の期待に応えることでその才能を開花させた。

映画という虚構の中で交わされたキスは、現実世界でお互いに抱いていた尊敬と畏怖、そして言葉にできない深い情愛が結晶化した瞬間だったと言えるだろう。

実生活における三島由紀夫と美輪明宏のキスと愛の逸話

伝説の対話と「95%の長所」の真意

三島由紀夫と美輪明宏の関係を語る上で欠かせないのが、二人の間で交わされた知的な応酬である。ある時、三島は美輪に対して「君には95%の長所がある」と切り出した。

しかし続けて「残りの5%の短所が、その長所をすべて吹き飛ばしてしまうほど致命的だ」と言い放ったという。美輪がその短所とは何かを尋ねると、三島は「俺に惚れないことだ」と答えたとされている。

このエピソードは、三島がいかに美輪に対して好意を抱いていたか、そして美輪がどれほど三島にとって「思い通りにならない存在」であったかを示している。美輪はこの言葉に対し、自分は尊敬できる相手や完璧な相手には恋愛感情を持てないと返したとも伝わる。

二人の関係は、単なる先輩後輩の上下関係ではなく、互いに知的な言葉の刃を交わし合う対等なライバル関係でもあった。この緊張感のあるやり取りこそが、後の深い信頼関係を築く土台となったのである。

「タイプじゃない」と拒絶された求愛の夜

二人の関係を語る上で最も有名なエピソードの一つが、ある夜のバーでの出来事である。酒に酔った三島由紀夫が、ダンスフロアで美輪明宏に身を寄せ、キスを迫ったという逸話だ。

当時の三島は肉体改造に励み、男性的な自信に満ち溢れていたが、美輪はその誘いをきっぱりと拒絶したと言われている。その断り文句は「尊敬はしていますが、お顔がタイプではありません」という、あまりにも直球なものであった。

普通の人間であれば激怒してもおかしくない場面だが、三島はこの拒絶をむしろ喜んだ節がある。彼は自分の思い通りにならない美輪の誇り高さに、さらなる魅力を感じたのだろう。

美輪もまた、三島の才能を心から愛していたが、恋愛対象として見ることはなかったと後に語っている。この「拒絶されたキス」のエピソードは、二人の間にあった越えられない一線と、それでも途切れることのなかった精神的な結びつきを象徴している。

美輪明宏が語る三島由紀夫の「少年のような心」

美輪明宏は後年、様々なメディアで三島由紀夫の素顔について語っている。その中で共通しているのは、三島が驚くほど純粋で、少年のような心を持っていたという証言である。

世間では厳格な愛国者や気難しい文豪というイメージが強かった三島だが、美輪の前では無防備な笑顔を見せ、冗談を言ってはしゃぐことも多かったという。美輪にとって三島は、守ってあげたくなるような愛すべき存在だったのだ。

例えば、三島が新しいスーツを仕立てた際、真っ先に美輪に見せに行き、感想を求めたという可愛らしいエピソードもある。美輪の美意識を絶対的に信頼していた三島は、彼に褒められることを何よりの喜びにしていた。

実生活でのキスは叶わなかったかもしれないが、そこには肉体的な接触を超えた、魂レベルでの甘やかな交流が存在していたことは間違いない。美輪の証言からは、偉大な作家の孤独を癒やす唯一の理解者としての自負が感じられる。

『禁色』の世界と現実が交差する関係性

三島由紀夫の代表作の一つに、同性愛をテーマにした小説『禁色』がある。この作品に登場する絶世の美青年は、当時の美輪明宏(丸山明宏)をイメージさせる人物として語られることが多い。

執筆時期と美輪のデビュー時期の関係から直接のモデルではないとされるが、三島自身が後に「君こそが禁色の世界を生きている」と美輪を評したことから、両者は不可分の関係として認識されるようになった。

三島は現実の美輪の中に、自らが小説で描こうとした理想の具現化を見ていた。そして美輪もまた、三島の作品世界を舞台上で演じることで、その期待に応え続けた。

現実世界での恋愛関係には発展しなかったものの、芸術という領域においては、二人は相思相愛のパートナーであったと言える。小説と現実、作者と演者という境界線が曖昧になるほどの濃密な関係性は、まさに彼ら二人にしか築けない特別な絆であった。

三島由紀夫と美輪明宏のキスが象徴する美的絆の正体

深紅のバラが意味した永遠の別れ

1970年、三島由紀夫が自決する少し前のことである。美輪明宏が主演する舞台の楽屋に、三島が抱えきれないほどの深紅のバラを持って現れたという有名な話がある。

普段の三島は、花を贈る際にも照れ隠しをするような性格だったが、その時ばかりは真剣な眼差しで「君を祝いに来た」と告げたという。このバラの花束は、これから死に向かう三島からの、美輪への最期の愛の告白であり、永遠の別れの挨拶であったと解釈されている。

美輪はこの時、三島の様子に不吉なものを感じ取ったが、言葉には出さなかった。バラの花言葉には「情熱」や「愛」という意味があるが、三島が贈った深紅のバラは、彼自身の命の赤さを象徴していたのかもしれない。

後に訃報を聞いた美輪は、そのバラが三島の血の色であったことを悟り、深い悲しみに暮れたという。このエピソードは、二人の関係が単なる友人関係を超え、互いの魂の深淵に触れ合うものであったことを静かに物語っている。

死後に美輪明宏が語り続ける「三島由紀夫」

三島由紀夫の死後、美輪明宏は長きにわたり、彼の作品を演じ、語り継ぐ語り部としての役割を担ってきた。特に自決直後の混乱期において、世間が三島を批判する中でも、美輪は一貫して彼の芸術性と純粋さを擁護し続けた。

美輪にとって三島は過去の人ではなく、今もなお自身の内側に生き続ける存在なのである。彼はインタビューなどで「三島さんはまだここにいる」と、あたかも隣にいるかのように語ることがある。

これは単なる回顧録ではなく、美輪による三島由紀夫への鎮魂歌であり、終わることのない対話なのだ。二人の間に肉体的な「キス」の事実はなかったとしても、魂のレベルでは誰よりも深く結ばれていた。

美輪が三島作品を演じるたび、舞台上には三島の精神が蘇り、二人は時空を超えて再会を果たしているのかもしれない。美輪の言葉の端々からは、先立った盟友への変わらぬ敬愛と、彼を理解し続けるという強い意志が感じられる。

現代人が二人のキスに惹かれる心理的理由

なぜ今なお、多くの人々が「三島由紀夫と美輪明宏のキス」というキーワードに関心を寄せるのだろうか。それは、現代社会が失いつつある「命がけの耽美」や「精神的な純愛」への憧れがあるからかもしれない。

SNSなどで簡単に繋がれる現代とは異なり、彼らの時代には、言葉一つ、視線一つに命を賭けるような重みがあった。二人の関係性に見られる、触れ合わないからこそ高まるエロティシズムは、現代人にとって新鮮で強烈な刺激となっている。

また、ジェンダーレスという言葉が定着する遥か昔に、既存の性別の枠を超えて魂で惹かれ合った二人の姿は、多様性を重んじる現代において、時代の先駆者としても再評価されている。

映画の中のキスシーンや、実生活でのプラトニックな愛の逸話は、型にはまらない愛の形のひとつの究極系として、私たちの心を捉えて離さない。彼らの物語は、愛や美とは何かという普遍的な問いを、今もなお私たちに投げかけているのである。

「キス」という言葉に集約された芸術的同志の絆

結局のところ、三島由紀夫と美輪明宏の間の「キス」とは、肉体的な行為の有無を超越した、強固なメタファーであると言える。それは、互いの才能を認め合い、高め合う芸術的同志の契約の証のようなものであった。

映画『黒蜥蜴』でのキスは、三島が美輪に捧げたオマージュであり、実生活で交わされることのなかったキスは、二人の関係を永遠に清らかなものとして封印するための儀式だったのかもしれない。

もし実生活でも二人が結ばれていたとしたら、これほど長く語り継がれる伝説にはならなかっただろう。触れ合わなかったからこそ、その緊張感は永遠のものとなり、二人の間に流れる空気は常に透明度を保ち続けた。

「キス」というキーワードを入り口にして二人の関係を深掘りするとき、私たちはそこに、肉欲を超えた芸術への献身と、人間同士のあまりにも純粋な魂の結びつきを発見するのである。

まとめ

三島由紀夫と美輪明宏の「キス」にまつわる物語は、映画『黒蜥蜴』における妖艶な名シーンと、実生活における深い信頼関係という二つの側面から語られるべきものである。映画の中でのキスは、三島の美学と美輪の魔性が融合した芸術の極致であり、見る者を圧倒する力を持っている。

一方で、現実世界においては、三島の求愛を美輪がかわすという形をとりながらも、互いに唯一無二の理解者として魂を寄せ合っていた。深紅のバラに込められた最期のメッセージや、死後も続く美輪による三島作品の上演は、二人の絆が時空を超えたものであることを証明している。

彼らの関係は、単なる恋愛や友情という言葉では定義できない、芸術家同士の魂の契約であった。現代の私たちがこの「キス」の伝説に惹かれるのは、そこに計算や妥協のない、純度100%の人間ドラマと美への執念が刻まれているからに他ならない。