室町幕府を開いた足利尊氏は、戦乱のただ中で政権を形にした人物だ。ところが最期は合戦で倒れたのではなく、京都で病に伏して亡くなったと語られてきた。死の場面は政権の行方を左右した。
気になるのは、その「病」が何だったのかだ。軍記物語には癰瘡という腫れ物が現れ、別の記録では単に病気とだけ記すこともある。言い回しの差が、原因の想像を広げやすい。日付まで一致しないこともある。
中世の病名は現代医学の診断名と一致しない。腫れ物が原因でも、感染の広がりや体力の低下が重なれば急に悪化する。史料の言葉をそのまま受け止め、可能性の幅を残す読み方が安全だ。医療の限界も大きかった。
尊氏の死因には「蚊に刺された」「矢傷がもと」などの話も混ざりやすい。面白い逸話ほど広まりやすいが、史料の記述と照らすと距離が見える。年代と場所、弔いの動きまで追うと輪郭が整う。現代の推測は最後に扱う。
足利尊氏の死因を語る史料の筋道
同時代の記録は何を残したか
尊氏の死は、同時代の記録でも「病」を前提に語られることが多い。戦死や暗殺といった形で確定する材料は見当たりにくい。
ただし記録の種類で言葉が変わる。公家の日記類は短く事実を写し、軍記物語は場面をふくらませて描く。どちらも医学記録ではない点を押さえたい。
年代は延文三年、年齢は五十四歳とする伝えが広い。場所は京都で、将軍の最期として都の空気が一気に重くなったと想像される。
一方で、旧暦と時刻の扱いの違いから、命日が一日ずれる形で伝わる場合もある。数字だけを追うより、前後の経過をつなげて読む方が混乱しにくい。
後世の伝記や解説は、この「病死」を土台にしつつ、腫れ物や傷の逸話を付け足すことがある。まずは最も古い層の記述を優先するのが基本だ。
結論を一語で言うなら「病死」が最も安全である。そこから先は、どの史料を根に置くかで見え方が変わる。
『太平記』が描く癰瘡と治療
軍記物語『太平記』は、尊氏の最期を比較的くわしく描く。延文三年四月二十日、背に癰瘡が出て具合が悪くなったという筋立てだ。
医師が集められ、薬も試されるが効かない。さらに陰陽師や高僧による祈りが重ねられ、当時の人びとが頼れる手段を総動員した様子が見える。
記述には本道に加えて外科や外経という語が現れる写本もある。腫れ物を切開して膿を出す発想が、言葉として意識されていた可能性がある。
それでも病は日ごとに重くなり、身体が衰えていく。『太平記』は、近習が寝食を忘れるほどの緊張感まで書き込み、権力者の急変が周囲を揺らしたことを示す。
同書では、二十九日の寅刻に五十四歳で亡くなったとし、中一日おいて衣笠山の麓の等持院に葬ったと続く。葬送の中心に禅僧が並ぶ点も、幕府と禅宗の近さを思わせる。
ただし『太平記』は軍記であり、事実と物語が混ざる。癰瘡の一語をそのまま現代病名に直結させず、当時の「腫れ物」表現として受け止めるのが無難だ。
亡くなった日付が揺れる理由
尊氏の命日は、旧暦の四月末として語られるが、日付が一日ずれる形で紹介されることがある。『太平記』の本文では四月二十九日と読める写しがある。
一方、年表や人物辞典では四月三十日とする記述が広く流通している。どちらが正しいかを断定するより、表記の仕組みを理解する方が役に立つ。
当時は旧暦で日を数え、さらに「寅刻」など時刻の区切りも現代と違う。夜明け前後をどの日に含めるかで、同じ出来事でも日付が変わり得る。
また、後世の編集や写本の違いで数字が揺れることもある。複数の情報が並ぶ場合は、年号・季節・経過を合わせて矛盾がないかを見るのがコツだ。
西暦換算は採用する換算法で差が出る場合もあるが、一般には1358年の初夏に当たるとされる。季節感をつかむ補助として使う程度がよい。
実務上は「延文三年(1358)四月末に京都で病死」とまとめると誤解が少ない。必要なら旧暦と西暦換算を併記し、言い切りを避けるのが安全だ。
葬送と菩提寺に見える扱い
尊氏の弔いは、死因と同じくらい「将軍の終わり方」を物語る。『太平記』は、衣笠山の麓の等持院に葬ったと書き、禅僧が儀式を担ったことも述べる。
等持院は足利氏の菩提寺として知られ、尊氏の墓所として今も名が挙がる。政治権力が寺院の格式を支え、寺院が権威の記憶装置になる関係が見える。
一方、鎌倉には長寿寺があり、尊氏ゆかりの寺として伝承が残る。関東側での法名を「長寿寺殿」と称したという説明もあり、京都と鎌倉に記憶が分かれている。
こうした弔いの広がりは、尊氏が京都政権の長であると同時に、武家の棟梁として各地に影響を持っていたことを示す。死因が病であっても、政治的な死は全国の問題だった。
墓や法名の話は、史料と現地の伝承が交差しやすい分野である。寺の由緒や公的な案内を手がかりにしつつ、断定の言い方は控えると整合がとりやすい。
足利尊氏の死因とされる病名の読み替え
癰瘡はどんな病気を指す言葉か
『太平記』に出る癰瘡は、いまの感覚でいえば「化膿した腫れ物」に近い。背中にできたとされる点も、毛穴の多い部位という意味では不自然ではない。
現代医学では、癰は複数の毛包がまとまって感染し、深く化膿する病変を指すことが多い。強い痛みや発熱を伴い、治療が遅れると全身に影響が出ることもある。
一方で、中世の文章の癰瘡は、厳密な診断名というより外見を表す言葉として使われた可能性がある。同じ語でも、膿瘍、蜂窩織炎、腫瘍性の腫れなどを広く含み得る。
だから「尊氏は癰で死んだ」と言い切るより、「癰瘡と呼ばれた腫れ物が出て重篤化した」と段階を踏む方が誤解が少ない。ここに断定の余地が残る。
語の意味を整理すると、逸話の派手さよりも、当時の医療と身体の限界が見えてくる。腫れ物が命取りになる世界観を前提に読めば、記述は現実味を持つ。
腫れ物から命に関わる経過はあり得るか
腫れ物が命に関わるのか、と疑問に思う人は多い。だが抗菌薬がない時代には、皮膚の感染が深部へ進み、全身に波及することが現実に起こり得た。
癰は複数の病変がつながって深く化膿し、発熱や強い倦怠感を伴うとされる。膿が体内に広がれば、いまなら敗血症と呼ぶ状態に近づく可能性がある。
『太平記』が薬と祈りを重ねても効かなかったと書くのは、手段が尽きるほどの重症感を示している。外科的処置を試みても、感染を抑える決め手が乏しかった。
また、体力の落ちた人ほど悪化しやすい。長年の戦や政務で睡眠や食事が乱れれば、回復力が下がるのは自然な想像だ。
さらに、感染だけでなく脱水や栄養不良、他の持病が重なると急変は早い。史料が原因を一つに絞らないのは、こうした複合要因のためかもしれない。
病名を現代語に置き換える場合は慎重さが要る。それでも「背の腫れ物が悪化し、短期間で衰弱して亡くなった」という筋だけなら、史料の言葉と矛盾しにくい。
糖尿病など体質説はどこまで言えるか
近年は「尊氏の癰瘡は、糖尿病などの体質が背景にあったのでは」といった推測も見かける。癰が免疫低下や体質の影響で重症化しやすい、という医学的知見は確かにある。
ただし中世人物に現代の病名を当てるには限界がある。数値の記録もなく、症状の細部も残らない以上、診断はできないと考えるべきだ。
言えるのは、腫れ物が悪化しやすい状態だった可能性がある、という程度である。長い戦と政務は心身に負担をかけ、回復力を落とす条件になり得る。
また、癰瘡という言葉が腫瘍性の腫れまで含んだ可能性も否定できない。だがそれも、史料の一語から断定することはできない。
医療史の観点から考える試みは、史料の外に出る議論だと意識して読むと、混乱しにくい。
推測が役立つのは、当時の死のリアリティを想像する助けになる点だ。結論としては「病死」であり、具体病名は複数の可能性にとどめるのが誠実だ。
傷・蚊刺され・怨霊説をどう扱うか
尊氏の死因には「蚊に刺された背中が腫れた」「古傷がもとで膿んだ」といった話が広まりやすい。癰瘡が背中に出た、という記述があるため、想像が一本の物語になりやすい。
しかし史料が語るのは、腫れ物が出て具合が悪くなり、医師や祈りを尽くしても回復しなかった、という骨格である。虫刺されかどうか、傷が原因かどうかまでは書き切られない。
怨霊や天罰のような説明も、当時の人びとの世界観としては自然だ。だからといって、そのまま原因説明として受け取ると、史料の層が混ざってしまう。
整理の手順は単純で、まず「いつ・どこで・どんな症状が書かれたか」を確かめる。次に、その後に付け足された語りを、逸話として切り分ける。
逸話を完全に否定する必要はない。史料の言葉を中心に置いたうえで、「そう語られることがある」と距離を保つ書き方なら、読み物としても歴史としても両立する。
足利尊氏の死因が政治に残した余波
後継将軍義詮と体制の移り目
尊氏が亡くなると、嫡男の足利義詮が家督を継ぐ流れが明確になる。すでに尊氏の名代として軍事や政務に関わっていたため、継承自体は唐突ではない。
ただ、草創期の幕府は安定していたわけではない。南北朝の対立が続き、内部でも有力者の対立が尾を引いていた。将軍が病死すると、求心力は一気に試される。
義詮は尊氏の死後、将軍職に就いたとされるが、任命の時期は年末と説明されることが多い。父の死と将軍就任の間に手続きの時間がある点も、政治の現実を示す。
義詮は当時まだ若年で、周囲の守護や奉公衆との調整が欠かせなかった。尊氏の死は、個人の力量だけでなく組織の持久力を問う事件でもあった。
ここで重要なのは、死因が戦死ではないことだ。外敵に倒されたのではなく、体調の崩れで政権が引き継がれたため、体制の正当性を儀礼で支える必要が増した。
尊氏の死因を丁寧に読むことは、人物評だけでなく、幕府の継承メカニズムを理解する近道になる。病が政治を動かす例として、室町初期は示唆に富む。
南北朝の戦局と和睦への道
尊氏が病で亡くなっても、南北朝の対立がすぐ終わるわけではない。都の権力の中心が揺れるほど、地方では立場の入れ替わりが起こりやすくなる。
尊氏の時代には、一時的に南朝が唯一の朝廷となる局面もあった。皇統が一本化したかに見えたが、短期間で崩れる。
この流れは、政権が人の力だけで動いていたことを示す。尊氏の死因が戦死でないからこそ、敵に勝った負けたでは決着がつかず、政治交渉と軍事が並走し続けた。
義詮・義満へと将軍が代を重ねるなかで、南北朝合一は1392年に実現する。尊氏の死はその出発点の一つで、草創期の不安定さを象徴する出来事だった。
だから死因を読むときは、個人の最期だけでなく、時間の長い政治過程も同時に見る必要がある。病死は静かな終わりに見えて、実際には長い混乱の一局面である。
京都の等持院と鎌倉の長寿寺殿
尊氏の死後、名は寺と結びついて残った。京都では等持院が足利氏の菩提寺として位置づけられ、尊氏の墓所としての記憶が集まっていく。
鎌倉の長寿寺でも、尊氏に関わる伝えが語られる。案内では、京都で没した尊氏を「等持院殿」、関東では「長寿寺殿」と称したと説明され、同じ人物が地域ごとに違う呼び名で敬われたことがわかる。
これは単なる呼称の違いではない。室町政権は京都を中心にしつつ、関東の武士社会とも緊張関係を抱えていた。弔いの場を複数に持つことは、広い支持基盤を示す役割も果たす。
病死という最期は、戦死よりも「静かな威厳」を作りやすい。寺院の空間で語られることで、尊氏は武力の人であると同時に、秩序を立てた開祖として記憶される。
現地の伝承は、史料の字面だけでは見えない歴史の受け取られ方を教える。だからこそ、死因の話も寺院の由緒と合わせて読むと、人物像が立体的になる。
尊氏像の評価が死因で変わる理由
死因の語られ方は、尊氏像の作り方に直結する。戦死なら英雄譚になりやすく、暗殺なら陰謀の物語になる。病死はそのどちらでもなく、人間の弱さを前面に出す。
『太平記』の癰瘡は、武将が身体の痛みに耐える場面として読まれ、尊氏を「戦うだけの人」から引き戻す効果がある。天下人でも病には勝てない、という普遍的な感情が入り込む。
一方で、病死は政治的な解釈にも使われる。天命が尽きた、怨みが祟った、といった語りが加わると、死因は評価の道具になってしまう。
大切なのは、史料が確かに言える範囲と、後の語りが膨らませた部分を分けることだ。前者だけなら「病で亡くなった」が核で、具体病名は一つに決められない。
また、尊氏の死が急変として語られるほど、当時の政権が個人の健康に依存していたことも見えてくる。人物評にとどまらず、制度史の視点も開ける。
この線引きを守れば、尊氏を礼賛も断罪もしない読み方ができる。死因をめぐる揺れ自体が、中世史料の読み方を学ぶ入口にもなる。
まとめ
- 足利尊氏の死因は戦死ではなく、病死とみるのが最も安全だ。
- 史料の種類で表現が変わり、軍記物語は描写が豊かになる。
- 『太平記』は背の癰瘡を起点に悪化した経過を語る。
- 命日は旧暦四月末で、二十九日・三十日の揺れが生じやすい。
- 癰瘡は化膿した腫れ物を指し、現代の病名と一対一ではない。
- 抗菌薬のない時代は、皮膚感染が全身に及び命取りになり得る。
- 体質説は推測にとどめ、診断はしないのが誠実だ。
- 蚊刺されや古傷の話は逸話として距離を置くと混乱が減る。
- 尊氏の死は義詮への継承と草創期の不安定さを浮かび上がらせる。
- 寺院の記憶と合わせて読むと、尊氏像が立体的になる。






