1932年5月15日、日本を揺るがす重大な事件が発生した。時の内閣総理大臣である犬養毅が、武装した海軍の青年将校らによって射殺されたのである。帝都の中心部で起きたこの凄惨な凶行は、近代日本の歩みを決定的に変えることとなった。
この惨劇は「五・一五事件」として歴史に深く刻まれている。当時、日本は深刻な経済不況と国際的な緊張の中にあり、社会全体に閉塞感が漂っていた。政治への不満は極限に達しており、暴力による国家改造を望む声が一部で強まっていたのである。
犬養毅は「憲政の神様」と称され、議会政治と対話を重んじる政治家であった。彼は言葉の力を信じ、銃口を前にしても説得を試みようとしたのである。しかし、その崇高な信念は無慈悲な凶弾によって砕かれ、平和的な政権交代の歴史は幕を閉じた。
本記事では、事件の背景にある社会の歪みから、官邸で起きた衝撃のやり取り、そして日本社会に与えた甚大な影響までを詳述する。かつての日本が歩んだ苦難の道を知ることで、現代の私たちが守るべき教訓を共に探っていこう。
犬養毅の暗殺事件が発生した歴史的背景とその当日の真相
深刻な不況が招いた農村の窮状と社会不安
1920年代末から始まった世界的な恐慌は、日本経済に壊滅的な打撃を与えた。特に農村の状況は目を覆うばかりで、主要な輸出品であった生糸の価格が暴落したことで農家は困窮した。借金に追われ、自らの子供を売るような悲劇が各地で日常的に見られたのである。
こうした惨状を目の当たりにした青年将校たちは、国民の苦しみを顧みない政党政治家や財閥に対して激しい憤りを覚えた。彼らは資本主義こそが諸悪の根源であり、国家の根本的な改造が必要だと確信したのである。農村の疲弊が、政治への不信感を爆発させる火種となった。
都市部では華やかな文化が広がる一方で、地方の農民たちは飢えに苦しんでいた。この極端な格差が、若者たちの間に急進的な思想を浸透させていった。彼らにとって議会での議論は時間の浪費に過ぎず、武力による直接行動こそが国を救う唯一の手段であると信じ込まれたのだ。
国家主義的な結社や思想家たちが、この閉塞感に乗じて維新の必要性を説いた。政治家が利権を争う間に国が滅びるという危機感は、やがて具体的な暗殺計画へと変質していく。国民の絶望は深い闇となり、一国の指導者の命を奪うという最悪の結末へと向かい始めたのである。
ロンドン軍縮条約への反発と統帥権干犯という火種
1930年に調印されたロンドン海軍軍縮条約は、軍部と政府の間に決定的な亀裂を生じさせた。時の政府が軍令部の反対を押し切って条約を結んだことが、天皇の指揮権を侵す統帥権の干犯であるとして激しく非難されたのである。この論理は、後の軍部独走を支える強力な根拠となった。
軍縮によって日本の国防が弱体化することを懸念した若手将校たちは、政党政治家に対する憎悪を募らせていった。彼らにとって、兵力の決定権は天皇に属する聖域であり、政治家が立ち入るべき領域ではないと考えられていたのである。この対立は、社会に暴力の影を落とすこととなった。
犬養毅は野党時代、この軍縮問題を政争の具として利用し政府を攻撃した経緯があった。しかし、首相に就任すると一転して軍部の暴走を抑えなければならない立場となったのである。この矛盾した状況が、軍部の過激派から裏切り者と見なされる要因の一つとなり、彼を標的に仕立て上げた。
外交上の妥協や国防をめぐる議論が、法的な理屈を超えて感情的な憎悪へと発展していった。青年将校たちは自分たちこそが真の愛国者であると自負し、腐敗した政治家を排除することが正義であると信じたのである。この歪んだ正義感が、一国の首相を襲うという凶行への動機となった。
官邸に響いた対話の拒絶と最期の瞬間の真実
1932年5月15日の夕刻、武装した将校たちは官邸に乱入した。犬養毅は逃げ隠れすることなく、彼らを迎え入れた。激高する若者たちに対し、犬養は靴を脱いで話を聞こうと極めて冷静に接したと伝えられている。彼は言葉の力を信じ、対話によって誤解を解けると考えていた。
犬養は憲政の神様としての誇りを持っており、たとえ銃口を向けられても、誠実に語り合えば正しい道へ導くことができると確信していたのである。彼は若者たちを座敷へ誘い、タバコを勧めるなど、対話の場を作ろうと心を砕いた。しかし、暴力に逸る若者たちにその真意は届かなかった。
将校の一人が放った問答無用という叫びとともに、複数の銃弾が放たれた。犬養は倒れ込み致命傷を負ったが、驚くべきことにすぐには絶命しなかった。彼は駆けつけた者たちに、今の若い者をもう一度呼んでこい、話して聞かせることがあると語り、死の直前まで対話を望んだのである。
この言葉は、単なる命乞いではない。暴力という手段を完全に否定し、民主主義の根幹である対話の可能性を最期まで信じ抜こうとした政治家の矜持であった。しかし、その声が若者たちに聞き届けられることはなく、言葉が力に屈した瞬間として、この場面は歴史に暗い影を落とした。
犬養毅の暗殺事件がもたらした衝撃と政党政治の崩壊過程
実行犯への同情と全国に広がった大規模な減刑運動
事件の犯人たちが逮捕され裁判が始まると、世論は驚くべき反応を見せた。凄惨な犯行に対する非難よりも、その動機に対する同情が社会を覆い尽くしたのである。貧しい農村を救うために立ち上がった純粋な青年たちというイメージが、報道などを通じて国民の間に浸透していった。
全国からは減刑を求める嘆願書が殺到し、その数は100万通を超えたとされている。自らの指を切り落として同封し、その誠意を示そうとした人々も現れた。こうした熱狂の背景には、既成の政党政治に対する国民の深い失望と、閉塞した現状を打開してくれる英雄を求める心理があった。
裁判においても、検察側が被告たちの精神には敬意を払うという異例の態度を見せた。最終的な判決では、死刑は一人も出ず、求刑に比べて極めて軽い処分が下されたのである。判決文には被告たちの憂国の志を称えるような文言さえ含まれており、司法がテロを公然と認める結果となった。
この寛大な処置は、軍部に対して目的が正しければ殺人も許されるという極端なメッセージを与えることになった。暴力が正義として肯定される空気の中で、政治家や言論人は萎縮し、自らの意見を自由に述べることは困難になっていく。世論の同情が、法治国家の土台を静かに崩していった。
憲政の常道の終焉と軍部台頭を招いた政治の変容
犬養毅の死は、大正時代から続いていた憲政の常道という政治慣行を根底から破壊した。これは選挙で多数を占めた政党の党首が首相となり内閣を組織するという、民主主義の基本ルールであった。しかし、この事件により、元老は政党内閣の継続を断念せざるを得なくなったのである。
再び政党内閣を組織すれば軍部のさらなる暴発を招くと危惧された。その結果、海軍出身の人物を首相とする挙国一致内閣が誕生したのである。これにより政党政治は事実上の終焉を迎え、軍部が政治の主導権を握る時代が始まった。国民が選んだ政治ではなく、力が支配する時代の到来だ。
政治家たちは自らの命を守るために軍部に妥協を繰り返すようになり、議会は軍事予算を承認するだけの機関へと変質していった。国民が選挙で意思を示す機会は形骸化し、国家の重要な決定は軍の意向によって左右されるようになったのである。民主主義の灯は、一発の銃弾によって消し止められた。
挙国一致という名の下で、軍部の発言力は決定的に強まった。政党間の争いが国民の支持を失っていたことも、軍部台頭を後押しする要因となった。この体制変更は、単なる首相の交代ではなく、日本の国家構造そのものが軍事優先へと大きく舵を切ったことを意味しており、悲劇の序章となった。
暴力が正義となった時代と二・二六事件への連鎖
犬養毅は暗殺される直前まで、独走する軍を抑え、満州事変を外交交渉で解決しようと苦闘していた。彼は国際社会との協調を重視し、性急な行動が日本を孤立させることを誰よりも理解していた。しかし、彼の死によって政府内から慎重論を唱える強力なリーダーがいなくなってしまった。
彼の死後、日本政府は軍部の圧力に抗しきれず、満州国の承認を強行した。これは国際社会への決別を意味し、やがて日本を国際連盟脱退へと導く致命的な一歩となった。暴力が一度成功体験として刻まれると、それはさらなる暴走を呼び、4年後の二・二六事件というさらなる惨劇へと繋がった。
二・二六事件では多くの重臣が殺害され、軍部の政治支配は盤石なものとなった。五・一五事件で芽生えた暴力の肯定が、ついに国家全体を飲み込む狂気へと成長したのである。言論による解決を放棄した日本は、他国との対話も失い、破滅へと向かう泥沼の戦争へと突き進んでいくことになった。
私たちは、この歴史から学ばなければならない。対話を拒絶し、暴力に頼る政治がいかに凄惨な未来を招くかを。犬養毅が最期まで守ろうとした言葉の力は、現代においても民主主義を支える唯一の砦である。彼の悲劇的な最期は、言葉を交わし続けることの重みを、今も私たちに問いかけている。
まとめ
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1932年5月15日に海軍の青年将校らが首相官邸を襲撃し犬養毅を殺害した
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事件の背景には世界恐慌による農村の疲弊と深刻な社会不安が存在した
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ロンドン海軍軍縮条約をめぐる軍部の政府への不信感が引き金となった
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実行犯らは話せばわかるという犬養の対話の提案を拒絶し銃撃した
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犬養は致命傷を負いながらも最期まで若者たちとの対話を望み続けた
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裁判では被告の動機を称賛する世論が広まり異例の軽い判決が下された
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全国から100万通を超える減刑嘆願書が寄せられテロを容認する空気が生じた
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この事件によって憲政の常道が崩壊し政党政治は事実上の終わりを迎えた
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犬養の死後、軍部が主導する挙国一致内閣が成立し軍国主義が加速した
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暴力が言論に勝利したこの事件は日本を国際的孤立と戦争へと導いた






