
「島津義久」という名前に馴染みがない者もいるかもしれない。弟である義弘の方が、武勇に優れた武将として知られているかもしれない。しかし、義久こそが、戦国時代に九州の大部分を支配した島津家を真に強固なものとした当主である。彼は、戦場で際立つ武将ではなかったが、類稀なる統率力と大局的な戦略眼に優れていた。まるで、スポーツチームの監督や、企業の経営者のように、全体を俯瞰し指示を出す能力に長けていたのだ。
義久が誕生した頃の島津家は、未だ統一されておらず、一族間の争いが続く不安定な状態であった。そのような中で、彼はどのようにして勢力を拡大し、才能ある弟たちを統御して、九州の覇者へと上り詰めたのだろうか。そして、日本全体の統一を目指した豊臣秀吉や徳川家康といった天下人との対峙において、いかにして島津家を存続させたのだろうか。
この記事では、島津義久の波乱に満ちた生涯を、平易な言葉で解説する。戦国の世を生き抜き、島津家を江戸時代も続く有力な大名家とした義久の功績と秘密を、共に見ていこう。
島津義久の若年期の秘密に迫る!意外な性格と家族の絆
分裂した家を継いだ義久
義久が生まれた16世紀半ばの島津家は、現代の鹿児島県周辺を統一するどころか、一族内で争いが絶えなかった。父の貴久は、分家出身でありながら家督を継承し、ようやく家をまとめたばかりであった。したがって、義久が継承したのは、未だ脆弱な基盤の家であったと言える。この経験から、義久は「外部への拡張に先立ち、内部の結束が不可欠である」と強く認識するようになった。
島津四兄弟の驚くべき役割分担
そのような状況下で、義久には傑出した弟たちがいた。後に「島津四兄弟」と称される彼らは、それぞれ異なる才能を持っていた。
- 義久:長兄であり、総大将。全体戦略、政治、統率を担当した。
- 義弘:次男であり、勇猛果敢な野戦指揮官。武の象徴として活躍した。
- 歳久:三男であり、戦局全体を見通す参謀。兵站や政務も担当した。
- 家久:末弟であり、戦術の天才。特に奇襲や陽動戦術に長けていた。
通常、これほど才能豊かな兄弟がいれば、意見の衝突や後継者争いが生じやすいものだ。しかし、義久は弟たちとは異なり、常に温厚で思慮深い性格であった。彼は弟たちの活躍を心から称賛し、自らが前に出ることはなかった。そのため、弟たちは兄を心から信頼し、義久の指示には絶対的に従うという、完璧なチームワークが形成されたのだ。義久の最初にして最大の功績は、この比類なき兄弟を一つの機能的なチームとして統御したことにあると言えるだろう。
初陣と家督継承
義久は天文2年(1533年)に誕生した。天文23年(1554年)、父・貴久が岩剣城を攻めた際、弟たちと共に初陣を飾り、実戦経験を積んだ。そして永禄9年(1566年)、34歳になった義久は、父・貴久の隠居に伴い、正式に島津家第16代当主の座を継承した。これは、父が築き上げた安定基盤の上での円滑な家督継承であり、家中においても義久が次代の指導者であることは共通認識となっていた。
島津義久のリーダーシップが光る!九州統一から天下人との戦いまで
南九州を統一した戦い
当主となった義久の最初の目標は、島津家代々の悲願であった「三州統一」(薩摩・大隅・日向の完全支配)を達成することであった。この約10年間の戦いは、義久と四兄弟による「島津軍」が、最強の軍団へと変貌を遂げるための戦略的実験場となった。
まず、薩摩国内に残る敵対勢力を、弟たちの活躍と「釣り野伏せ」(偽りの敗走で敵をおびき寄せ、伏兵で包囲殲滅する戦術)という得意な戦法で制圧した。
次に、大隅国を支配していた肝付氏に対しては、軍事的な圧力だけでなく、巧みな調略や交渉も用いて、戦わずして降伏させた。
最後に残ったのは、日向国を支配していた伊東氏との決戦であった。ここでも弟の義弘が「釣り野伏せ」を駆使し、わずかな兵力で大軍を破るという劇的な勝利を収めた。この勝利がきっかけで、伊東氏の権威は失墜し、天正5年(1577年)末には伊東義祐が亡命。これにより、義久は長年の宿願であった「三州統一」を達成したのだ。この戦役を通じて、島津軍は後に九州全土を震撼させる軍事力を確立した。
九州の二大勢力を打ち破る
南九州を完全に掌握した義久は、次なる目標である九州全土の統一へと乗り出した。この時期、島津軍はその軍事力の絶頂期を迎え、九州の二大勢力を、伝説的な戦いで打ち破ることになる。
天正6年(1578年)、「耳川の戦い」で豊後(大分県)の大友氏という九州最大の勢力と対決した。大友軍は数において優位であったが、義久は大規模な「釣り野伏せ」を展開し、大友軍を耳川の対岸へおびき寄せ、一斉攻撃を仕掛けた。その結果、数千の将兵が討ち取られるか溺死するという壊滅的な大勝利を収め、大友氏は再起不能なほどの打撃を受けた。
次に戦ったのは、天正12年(1584年)の「沖田畷(おきたなわて)の戦い」である。「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が率いる龍造寺氏が相手であった。この時も、義久は末弟の家久に、兵力で劣る状況での戦いを命じた。家久は、敵の大軍の動きを封じる湿地帯の狭い地形「沖田畷」を選び、「釣り野伏せ」の応用戦術を展開。龍造寺隆信自身を討ち取るという大勝利を収めた。これにより、龍造寺氏は急速に勢力を失い、島津氏に降伏した。
義久の戦略は、敵を消耗戦に引き込むのではなく、自らが選んだ決戦場において、島津軍の戦術的優位性を最大限に発揮して敵主力軍を殲滅し、それによって敵対勢力の政治的崩壊を誘発するという、一貫したものであった。
天下人秀吉との決断
天正13年(1585年)までに、島津氏は九州の大部分をその支配下に収めた。しかし、この時期、中央で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉との衝突は避けられなくなった。秀吉は全国の大名に戦闘停止を命じる「惣無事令」を発したが、義久は島津家の由緒ある家柄と軍事力を背景に、九州の支配権は自らにあるとしてこれを無視した。
これに激怒した秀吉は、弟の豊臣秀長が率いる日向方面軍と、自身が率いる肥後方面軍、総勢20万を超える大軍で九州に侵攻した。島津軍は、この圧倒的な物量に対してなす術もなく、南へと撤退を余儀なくされた。
そして、日向の根白坂(ねじろざか)で最後の抵抗を試みたが、兵力も鉄砲の数も圧倒的に優位な豊臣軍の前には及ばず、甚大な被害を出して敗北した。これ以上の抗戦は一族の滅亡を招くだけであると冷静に判断した義久は、軍事的戦略から政治的戦略へと大きく舵を切った。
天正15年(1587年)、義久は剃髪して仏門に入り、「龍伯」と号した。そして、秀吉が本陣を置いていた川内の泰平寺へ赴いた。義久は、反抗的な武将としてではなく、罪を悔いる僧侶の姿で秀吉の前に現れることで、この降伏を「敗北」ではなく「悔悟」の儀式として演出した。この巧みな政治的パフォーマンスは、秀吉に面子を保ったまま「寛大な処置」を許す余地を与えた。結果、秀吉は義久の降伏を受け入れ、その命を助けると共に、島津氏が薩摩・大隅・日向の一部という中核的領土を安堵されることを認めた。全国規模の兵站と動員力を持つ天下人の前には軍事力だけでは抗し得なかったが、義久は一族の滅亡という最悪の事態を回避した。これは、彼の数多の軍事的勝利にも勝る、最大の戦略的成功であったと言えるだろう。
家康とのギリギリ交渉術
秀吉の死後、天下が徳川家康の東軍と石田三成の西軍に分裂した「関ヶ原の戦い」が勃発した。この時、弟の義弘は上方に滞在しており、不本意ながらも西軍に与することになった。
しかし、薩摩にいた義久と後継者の忠恒は、義弘からの再三にわたる援軍要請を黙殺した。その結果、義弘はわずか1,500名ほどの手勢で関ヶ原の決戦に臨むことになったのだ。西軍が総崩れとなる中、戦場で孤立した義弘の部隊は、東軍の正面を突破して撤退するという、前代未聞の「島津の退き口」を敢行し、多大な犠牲を払いながらも薩摩への生還を果たした。
関ヶ原の勝者となった家康は、西軍に与した島津家に対し、当然ながら領地没収を含む厳しい処分を要求した。しかし、義久はこれを拒否。国境を固めて全軍を動員し、徳川軍の侵攻に備えるという徹底抗戦の構えを見せた。そして、家康に対し「関ヶ原での参戦は義弘個人の判断であり、島津家としての公式な決定ではなかった」と主張しながら、2年間に及ぶ粘り強い外交交渉を展開した。
精強な島津軍との全面戦争という高い代償を払うことを厭うた家康は、最終的に譲歩した。慶長7年(1602年)、家康は島津家に対し「本領安堵」を認めた。これは、関ヶ原で西軍に属した主要大名の中で、唯一、所領を全く減らされなかったという、破格の待遇であった。
関ヶ原における島津家の行動は、一見すると無計画で矛盾しているように見える。しかし、それは義久が描いた、極めて高度なリスクヘッジ戦略であった。義弘を西軍に参加させることで西軍勝利の可能性に保険をかけつつ、主力部隊を送らないことで、東軍が勝利した場合の「義弘個人の行動であった」という弁明の余地と、交渉の切り札となる軍事力を温存したのだ。義久は、戦わずして家を守る道を選んだ。この決断こそが、義久の政治家としての最高傑作であり、島津家の近世における繁栄を決定づけたと言えるだろう。
隠居後の意外な暮らし
徳川政権下での所領安堵を勝ち取った後、義久は慶長7年(1602年)、正式に家督を甥であり婿でもある島津忠恒(後の家久)に譲った。しかし、隠居した龍伯(義久)と惟新(いしん、義弘)は依然として絶大な影響力を持ち続け、忠恒と合わせて「三殿体制」と呼ばれる三頭政治体制を敷き、若い当主を後見した。
慶長9年(1604年)、義久はそれまで居城としていた富隈城から、新たに築いた隠居城である国分城(舞鶴城)に移った。特筆すべきは、この城が天守を持たない「屋形造り」の平城であったことだ。これは、戦乱の時代が終わり、行政と統治の時代が始まったことを象徴していた。義久はここで「龍伯」として、和歌を詠むなど文化的な活動に勤しむ穏やかな晩年を過ごした。
しかし、その晩年は必ずしも平穏無事ではなかった。三殿の間には、特に忠恒が推し進めた琉球出兵を巡って意見の対立があったとされ、義久はこれに反対していたと伝わる。また、忠恒が義久の娘であり正室であった亀寿を冷遇したため、義久と忠恒の関係は冷え込んでいたという。慶長16年(1611年)1月21日、島津義久は国分城にて79年の生涯を閉じた。その辞世の句は、彼の生涯を総括するような達観した境地を示している。「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」
まとめ:島津義久とは
島津義久は、弟・義弘のような典型的な戦国武将の英雄像とは一線を画す存在であった。彼の本質は、武人として以上に、卓越した戦略家であり、政治家であった点にある。彼は、軍事的天才である弟たちを完璧に統率し、九州のほぼ全土を征服する偉業を成し遂げた。そして、豊臣、徳川という抗いがたい力に直面した際には、即座に戦略を転換し、巧みな政治交渉によって二度にわたり一族を滅亡の危機から救った。戦国から豊臣、そして徳川へと続く激動の時代を乗り切り、島津家を江戸時代屈指の大藩として後世に遺した彼の功績は、戦乱の世において最大の勝利とは、時に戦いをやめる知恵と、未来を見通す先見性によってもたらされることを雄弁に物語る。彼の生涯は、力だけでは成し遂げられない、真の統率力と戦略的思考の価値を示す、不朽の教訓である。
* 島津義久は、戦国時代に九州の大部分を支配した島津家の第16代当主だった。
* 弟の義弘が武勇に優れた武将だったのに対し、義久は全体を統御する戦略家・政治家だった。
* 彼が誕生した頃の島津家は不安定で、内部結束の重要性を認識した。
* 義久には義弘、歳久、家久という、それぞれ異なる才能を持つ弟がいた。
* 彼は温厚な性格で、弟たちの才能を認め、信頼関係を築くことで完璧なチームワークを作り上げた。
* 義久は父から家督を継承後、「三州統一」(薩摩・大隅・日向の支配)を達成した。
* 「釣り野伏せ」などの戦術と政治交渉を駆使し、南九州の敵対勢力を制圧した。
* 「耳川の戦い」で大友氏を、「沖田畷の戦い」で龍造寺氏を破り、九州の二大勢力を滅ぼした。
* 豊臣秀吉による九州征伐では、圧倒的な物量の前に抵抗を断念し、降伏を選択した。
* 秀吉への降伏の際、剃髪して僧侶の姿になることで、島津家の存続と領土安堵を勝ち取った。
* 関ヶ原の戦いでは、弟の義弘が西軍に加わったが、義久は本隊を送らず、徳川家康との交渉で本領安堵を得た。
* 晩年は隠居して「龍伯」と号し、和歌を詠むなど穏やかに過ごしたが、政治的な影響力は維持した。
* 島津義久の生涯は、武力だけでなく、政治的な知略や先見性が戦乱の時代を生き抜く上で極めて重要だったことを示している。