瀬川菊之丞と平賀源内――江戸が熱狂した“男色”と“女形”の物語

江戸時代中期、役者の芸に夢中になり、色恋に心を燃やし、粋なものや新しい流行を追いかける江戸っ子たちの姿があった。その中でも二代目瀬川菊之丞と平賀源内の関係は、当時から「男色」の恋としてよく知られた逸話でありながら、同時に江戸庶民の文化やファッション、演劇の舞台芸術にも大きな影響を与えたとされる。

この記事では、瀬川菊之丞と平賀源内というキーワードで検索する方々に向けて、2人の背景やエピソード、江戸時代の歌舞伎とファッションの流行、そして江戸の男色文化などを余すところなく解説する。彼らがなぜこれほどまでに江戸の人々を熱狂させ、後世にまで語り継がれる存在となったのか、その魅力に迫ってみよう。

最後まで読んでいただければ、二人の関係性がいかに当時の文化や価値観と結びつき、さらには現代にまで続く歌舞伎・日本舞踊・色彩文化の根っこに深く関わっていたかが分かるはずだ。思わず「べらぼうめ!」と叫びたくなるほど熱い江戸の息吹をぜひ感じ取ってほしい。

1. 江戸時代における歌舞伎と若衆歌舞伎の背景

まず、二代目瀬川菊之丞という存在を語るには、江戸時代に花開いた歌舞伎の世界を知る必要がある。歌舞伎は、江戸・元禄期以降に庶民娯楽として爆発的な人気を博した演劇形式であり、当初は「女歌舞伎」や「若衆歌舞伎」など、いわゆる男色や遊女のスキャンダラスな面が注目を浴びがちだった。

若衆歌舞伎とは、少年俳優(元服前の少年)が女性役を演じる歌舞伎の一形態で、やがて幕府による度重なる取締りを経て、「野郎歌舞伎(成人男性のみ)」へと移り変わっていく。そんな中、演出や所作を洗練させるために活躍したのが女形役者たちだ。

女形は当初「女性そのものの美しさをなぞる」存在だったが、やがて「男性が演じるからこそ醸し出せる艶やかさ」と独自の芸を確立していく。そこに生まれる耽美性が、男色文化とも自然に結びつき、多くの文人や浮世絵師、時には好事家の武士層からも絶大な支持を集めたのである。

2. 瀬川菊之丞とは何者か――誕生から養子、そして二代目襲名まで

2-1. 幼少期~初舞台まで

二代目瀬川菊之丞(1741年~1773年)は、江戸の郊外、武州・王子村(現在の東京都北区王子)の富農・清水半六の子として生まれた。幼名は徳次といったが、わずか5歳にして初代瀬川菊之丞(濱村屋路考)の養子となり、「瀬川権次郎」を名乗る。

その後、10歳前後で「二代目瀬川吉次」を名乗り、中村座にて初代の一周忌追善の舞台として『石橋』(獅子を題材とした舞踊)を踊り初舞台を踏む。愛くるしい容姿と踊りの美しさにより、当時から将来有望な役者として一躍注目を集めた。

2-2. 二代目瀬川菊之丞の襲名と活躍

さらに15歳頃には、市村座の顔見世興行で「百千鳥娘道成寺」を披露し、二代目瀬川菊之丞を襲名。この「娘道成寺」を踊るには高い舞踊技術と美しさが求められるが、若くしてそれをこなし、江戸の人気を瞬く間にさらっていった。

屋号は濱村屋、俳名は路考。通称は出身地にちなみ「王子路考」。彼が演じる女形は、その所作のみならず、踊りや唄、舞台での存在感も含めて「この世のものとは思えぬほど美しい」と言われ、庶民だけでなく武士階級も含む幅広いファン層を獲得した。

2-3. 『鷺娘』初演の衝撃

今なお歌舞伎・日本舞踊で人気を博す演目の一つに『鷺娘』がある。これは二代目瀬川菊之丞が初演したと伝わり、はかなげで幻想的な舞姿で江戸の観客を魅了した。

白無垢の振袖姿に黒い帯、頭には綿帽子をかぶり、鷺の精が人間に恋をした悲恋の物語。くるくると大きな廻り灯籠が回転すると、そこに現れる菊之丞――その姿を見ただけで客席がため息で埋まったとも言われる。一説には「竹田からくり芝居」の仕掛けを取り入れた画期的な演出があったとも伝わる。

こうした舞踊の芸術性と、若くして完成されていたような美貌は、後に登場する浮世絵師たちがこぞって彼の姿を絵に収めようとするほど。「路考娘」という言葉が生まれるほど、その美の代名詞となったのだ。

3. 平賀源内とは――「べらぼう」な天才の横顔

3-1. マルチな才能を持つ奇人学者

次に、菊之丞と深い仲だったとされる平賀源内(1728年~1780年)に焦点を当てよう。讃岐国(香川県)出身の下級藩士でありながら、蘭学や本草学、鉱山開発、戯作者(小説家)としても名を馳せた天才肌の人物である。

「エレキテルの発明」や「土用の丑の日にウナギを食べる」キャッチコピーを生み出した仕掛人など、多彩な顔を持つ源内は、当時から「奇人」「奇才」「べらぼう」と呼ばれた。幕府の医薬方や商人、学者、浮世絵師など、ありとあらゆる層に幅広い人脈を持ち、好奇心が尽きない彼の言動は江戸の人気者であった。

3-2. 男色家としての一面

平賀源内は終生独身で通したとされ、女性とはあまり浮いた噂が聞こえない。一方で江戸の男色街によく出入りしていたこと、そしていくつかの戯作で男色表現を大胆に描いていることから、男色家であったのはほぼ間違いない。

彼の著した戯作の代表例が『根南志具佐(ねなしぐさ)』であり、そこには実名で「二代目瀬川菊之丞」も登場する。僧侶が菊之丞に惚れ込み悪事を働く話から始まり、閻魔大王さえも菊之丞の美貌に心奪われるという、当時としてはかなり過激な内容である。

このように、平賀源内は破天荒な科学者であると同時に、男色戯作を描く文筆家でもあった。そんな彼が愛したのが、当時江戸一番の女形役者と讃えられた瀬川菊之丞だったのである。

4. 瀬川菊之丞と平賀源内――“男色”と芸術が彩る絆

4-1. 2人の出会い

正確な出会いの経緯は史料が乏しく不明な点も多いが、『根南志具佐』が刊行されたのは1763年(宝暦13年)であり、この頃すでに瀬川菊之丞と平賀源内の親密な関係が始まっていたと推測される。

また、狂言師や文人として活躍した大田南畝(おおたなんぽ)の記録によると、平賀源内は「吉原にはあまり行かず、主に男色街へ出入りしていた」という記述があり、菊之丞を含めた複数の若衆・女形との交遊があったと考えられる。

4-2. 美少年と天才の恋模様

江戸時代においては、少年や若手役者と大人の男性との男色関係はさほど珍しいことではなかった。上方や武家社会からの影響を受けた、「衆道」とも呼ばれる男色の風潮が根付いていたからだ。

しかし、瀬川菊之丞は若手といえど、二代目を襲名したれっきとした人気役者。一説には源内の家で菊之丞が舞の稽古をし、それを源内がうっとり眺めていたというロマンチックな場面も想像される。周囲の目をはばからず公然と仲睦まじい姿を見せていたとも言い伝えられており、江戸庶民にとっても「奇才・平賀源内」と「絶世の女形・瀬川菊之丞」の組み合わせは刺激的な話題であったに違いない。

4-3. 菊之丞の早逝、源内の想い

瀬川菊之丞は1773年(安永2年)閏3月13日、数え年で33歳とも31歳とも言われる若さで亡くなってしまう。死因は定かではないが、当時は医療技術も限られており、感染症や持病が原因であった可能性が高い。

平賀源内はその7年後の1780年1月に他界するが、最晩年は不遇の時を過ごしたとも言われる。菊之丞の死後、平賀源内がどれほど嘆き悲しんだかを明確に示す史料は多くないものの、後世の創作や評判を含め、「平賀源内の最愛の人は、やはり瀬川菊之丞だった」と広く語り継がれるようになった。

大河ドラマなどのフィクションでは、源内が亡き菊之丞を回想して涙を流すシーンも描かれる。実際にも、源内の作品世界を通じて菊之丞のイメージが強く投影されていることは間違いない。2人の関係は単なる男色スキャンダルではなく、深い信頼と愛情に満ちた絆だったと考えられるのである。

5. 江戸文化の象徴:女形役者がもたらしたファッション革命

5-1. 歌舞伎役者と江戸ファッション

江戸時代の歌舞伎役者は、現代で言うところの「カリスマモデル」「インフルエンサー」のような存在でもあった。舞台で使われた衣裳、髪型、小物が翌日には庶民の間で流行し、「役者の名前+色」の名称まで生まれるのが当時の常である。

例えば、「團十郎茶」「舛花色(ますはないろ)」「芝翫茶(しかんちゃ)」「璃寛茶(りかんちゃ)」など、当時の人気役者にちなんだ色名(役者色)が次々に世の中に広まった。

5-2. 二代目瀬川菊之丞の「路考茶」

なかでも特に有名なのが、二代目瀬川菊之丞が舞台で着用した衣裳の色「路考茶(ろこうちゃ)」である。宝暦~明和期にかけて、菊之丞が出演する芝居は常に大入り満員となり、観客は菊之丞の衣裳や髪型、使っている櫛の形状までこぞって真似した。

「路考髷(ろこうまげ)」「路考櫛(ろこうぐし)」「路考結び(帯の結び方)」など、あらゆるものに「路考」の名が冠された。本人の出身地「王子村」にちなんで「王子路考」とも呼ばれていたため、「王子茶色」と呼ばれることもあった。

この「路考茶」は、ややくすんだ黄みがかった茶色や鶯色に近い渋い緑茶色とも表現され、現代風にいえば「オリーブグリーン系」に近い。同じ茶系でも、ほんのりと黄緑が混ざる独特の色味が江戸っ子の心を掴み、瞬く間に流行したのだ。

5-3. 流行を生み出す歌舞伎役者の力

瀬川菊之丞は、容姿の美しさだけでなく、新しいファッションや所作を生み出す発信力でも注目された。その影響は数十年にわたって続き、三代目以降の瀬川菊之丞にも「路考茶」の流行が受け継がれたと言われる。

こうした江戸のファッションは、単なる服飾だけでなく、文化全体の最先端として機能していた。江戸庶民は、役者絵(浮世絵)を見てその衣裳をマネしたり、芝居の看板を参考に着物を誂えたりすることが多かったからだ。その中心人物として二代目瀬川菊之丞が君臨していた事実は、彼の人気と影響力の大きさを物語っている。

6. 「路考茶」だけじゃない! 役者色に見る江戸の流行

6-1. 團十郎茶

菊之丞と同じ1741年生まれの五代目市川團十郎は、「柿色」で知られる「團十郎茶」を生み出した。代表的な演目『暫(しばらく)』で着用した素襖(すおう)に使われた色が世に広まり、団十郎の屋号である成田屋の家紋「三升」とあわせて、「團十郎茶」として絶大な人気を得た。

6-2. 舛花色(ますはないろ)

同じく五代目市川團十郎が「浅葱色(あさぎいろ)」をやや渋めにアレンジした青系の色が「舛花色」である。三升の紋と縹色(はなだいろ)の組み合わせが粋だとして評判を呼んだ。

6-3. 梅幸茶(ばいこうちゃ)

初代尾上菊五郎(俳名:梅幸)が愛用した茶系とも黄緑系ともいわれる色が「梅幸茶」。二代目瀬川菊之丞の「路考茶」と近しいトーンだったが、こちらは通人好みとして受け入れられ、大衆的な爆発人気というよりは贔屓客に支持されたと言われる。

6-4. 高麗納戸(こうらいなんど)

四代目松本幸四郎(高麗屋)による暗い青系の「高麗納戸」も人気の色であり、五代目松本幸四郎が実悪の演技で高い評価を受けると共に「高麗納戸」や「高麗縞」が流行した。

こうして、江戸時代は役者が身につけた色や柄が瞬く間に市中に広がり、職人や商人がそれを商品化し、庶民の手に届くオシャレとして定着した。歌舞伎の衣裳は現代における「ショーウィンドウ」さながらだったわけだ。

7. 男色の風潮――江戸における同性愛観と遊興文化

7-1. 男色が自然に受容された時代背景

現代から見ると、二人の仲を公然と称するのは意外にも感じられるが、江戸時代の武家社会や町人文化には「衆道(しゅうどう)」や「若衆道」という男色の慣習が根付いていた。特に徳川家光や前田利常など、大名や武士階級に同性愛的なエピソードが多く残っているのは有名である。

こうした風潮は、やがて歌舞伎の世界でも当たり前のように浸透し、時には少年役者や女形への貢ぎ合戦が社会問題化するほどだった。

7-2. 男色街と文人の戯作

江戸の三大男色街(吉原、芳町、筑地など諸説ある)には、若衆や男娼が多く集まり、粋好みの町人や武士が訪れていた。平賀源内が繰り返しそこへ出入りしていたという記録もある通り、学者や役人、文人も少なくない。

これを題材にした戯作や浮世絵が盛んに作られ、「衆道絵」や「男色本」と呼ばれるジャンルが確立されていた。『根南志具佐』も、単なるエロ本ではなく、歌舞伎役者を巻き込んだ男色ドラマとして人気を博し、幕政批判や風刺を盛り込んだメッセージ性のある一作だった。

7-3. 現代とのギャップ

現代ではLGBTQ+に対する認識が再検討される時代となっているが、江戸時代の男色観はまた別の体系として存在していた。さらに言えば、歌舞伎や浮世絵の表現世界では男色が自然に美と結びついており、そこに差別や嫌悪を持ち込む価値観はあまりなかったようだ。

瀬川菊之丞と平賀源内の関係を知ることは、同時に江戸時代の同性愛文化の奥深さや、当時の寛容性を垣間見るチャンスでもある。

8. 二人が描いた世界――作品『根南志具佐』と歌舞伎演目

8-1. 『根南志具佐』のあらすじ

先述の通り、宝暦13年(1763年)に発刊された平賀源内作の『根南志具佐』には、二代目瀬川菊之丞が実名で登場する。ストーリーは、美少年に惚れ込んだ僧侶が悪事を働き、それがもとで地獄へ堕ちるところから始まる。閻魔大王は男色に怒りを見せるものの、菊之丞の姿絵を見た瞬間に一目惚れ。十王や河童を動員して菊之丞を地獄に連れ去ろうとするという奇天烈な展開だ。

菊之丞は作中でも「この世の者とは思えぬ美貌の女形」として描かれ、その高潔さや情の深さにもスポットが当たる。結局、同じ女形の荻野八重桐が犠牲となり、水死してしまう悲恋物語の要素も盛り込まれている。

8-2. 『鷺娘』ほか菊之丞の当たり役

一方で、菊之丞が歌舞伎の舞台で演じた演目もまた数多い。中でも『鷺娘』が代表作だが、『八百屋お七』の下女お杉役や、『娘道成寺』の舞踊など、所作事の技量を問われる役を数多くこなした。また、男色を絡めた演目自体が江戸の町人の人気を集めることもあり、菊之丞は当時の“BL”の象徴的存在にもなっていたかもしれない。

8-3. 作品を通じて伝わる2人の絆

「平賀源内の作品に実名で登場する役者」として、二代目瀬川菊之丞は後世の研究者やファンの好奇心をくすぐり続けている。源内にとっては作品を通じて「最愛の人を不滅化」しようとしたとも読めるし、それが江戸の大衆の目にどう映ったのか、想像するだけでもワクワクする。

こうした文学と舞台のコラボレーションも、2人が当時のエンターテインメント界で特別な存在であった証といえるだろう。

9. まとめ――瀬川菊之丞と平賀源内が残したもの

二代目瀬川菊之丞と平賀源内は、江戸時代の中期にそれぞれの天分を開花させ、同時に男色による深い結びつきを人々に印象づけた稀有な存在である。

瀬川菊之丞は、幼少より才能を見込まれて名門の養子となり、華麗な舞踊と絶世の美しさで一世を風靡した。彼の名前を冠した「路考茶」は、江戸庶民のファッションを席巻し、今で言うアイコニックなブランド・カラーとして70年以上も支持を得た。

一方の平賀源内は、学問や発明、戯作まで多岐にわたる分野で成果を残し、のちには破天荒な言動や男色趣味までもが話題を集めた。その戯作『根南志具佐』には、実名の菊之丞が登場し、美しすぎて閻魔大王さえ誘惑してしまうという筋書きが描かれている。

当時、男色は武家社会や演劇界では決して珍しいものではなく、文化の一部として自然に受け容れられていた。だが、菊之丞と源内ほどの有名人同士が公然と噂されるケースは稀であり、江戸の人々はそのロマンチックで妖艶な関係に心を躍らせたのである。

若くして世を去った菊之丞と、その数年後に不遇の末路を辿った源内。2人が残した物語は、江戸時代の歌舞伎史だけでなく、日本のファッション史や性文化史、さらに文学の世界にまで大きな足跡を刻んだ。

そのため、現代においても瀬川菊之丞と平賀源内という組み合わせは、江戸文化の華やかさと人間ドラマの深みを象徴するキーワードとして、多くの人々の興味を引きつけてやまないのである。