【平賀源内とうなぎ】土用の丑の日の仕掛け人

みなさんは「平賀源内とうなぎ」というワードを聞いて、どんなイメージを抱くだろうか?江戸時代の奇才・平賀源内が土用の丑の日を仕掛け、うなぎを食べる文化を広めたという逸話は、多くの人が一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。

実際、夏の暑さが厳しい時期には「うなぎを食べると体力がつく」として、土用の丑の日にはうなぎ屋に行列ができる光景は日本の風物詩である。しかし「なぜ土用の丑の日にうなぎを食べる習慣ができたのか?」という問いに対して、その答えを端的に説明できる人は意外に少ない。そこに登場するのが平賀源内という、実にユニークで奔放な人物である。

本記事では、平賀源内とうなぎの関係を深掘りし、歴史的背景や逸話、真偽のほど、さらに平賀源内の多才ぶりと当時の食文化にまで迫っていく。加えて、現代でも美味しいうなぎを食べる理由や、うなぎ文化の今後についても詳しく解説する。「土用の丑の日」の由来を正しく理解し、江戸時代の天才・平賀源内がもたらした知恵とアイデアが、いかに現代にも影響しているのかを知ることで、きっと夏のうなぎがさらに美味しく感じられるはずだ。

では早速、平賀源内とうなぎの世界へ飛び込んでみよう。

1. 平賀源内とは何者か?──江戸の奇才、その経歴と功績

まずは「平賀源内とはどんな人物なのか?」を押さえるところから始めよう。平賀源内(1728-1779)は、江戸時代中期に活躍した人物である。出身は讃岐国(現在の香川県)で、地方の下級武士の家に生まれた。非常に多才かつ個性的な性格で知られ、蘭学者、発明家、博物学者、戯作者、画家、鉱山開発者など、数多くの肩書きを持っていた。

江戸時代の知識人といえば本草学や儒学を極めるなど、専門領域を深堀りする学者が目立つが、平賀源内はそれだけにとどまらない。西洋の学問や技術にも積極的に興味を示し、「エレキテル」(静電気発生装置)を日本で実演したことで有名だ。洋画の技法を研究したり、鉱物の採掘事業を行ったり、とにかく新しいものに貪欲に手を出す冒険心旺盛な人物だったのだ。

そんな好奇心旺盛の源内が、うなぎにおいても一役買ったというから面白い。江戸時代といえば現代のように広告代理店があるわけでもなく、商品を売り込む方法は限られていた。それにもかかわらず、土用の丑の日に「うなぎを食べる」という習慣が一気に広がった裏には、平賀源内のひらめきがあったとされる。

2. 土用の丑の日とうなぎの関係は?──起源と歴史的背景

夏の暑さが厳しくなると「土用の丑の日にはうなぎを食べて精をつけよう」という言葉をよく聞く。日本人にとっては当たり前ともいえる風習で、うなぎ屋さんの前には「土用の丑の日」ののぼりが立ち並ぶ。実はこの習慣そのものが、平賀源内のアイデアによって広まったという説があるのだ。

ただし、その説についてはさまざまな検証がなされており、歴史的事実と民間伝承が入り混じっている部分も多い。以下では、この「土用の丑の日」や「平賀源内とうなぎ」にまつわる有名な説を整理しながら、歴史的背景を紐解いていきたい。

2-1. 「土用」と「丑の日」の意味をおさらい

「土用」とは立春・立夏・立秋・立冬の前、およそ18日間ほどの時期を指す。つまり一年に4回あるのだが、なかでも立秋前の土用(夏の土用)が最も暑さが厳しい時期にあたる。

そして「丑の日」とは、十二支(子・丑・寅・卯…)の丑にあたる日を示す。十二支は日付にも当てはめられるため、土用の期間中に巡ってくる丑の日が「土用の丑の日」だ。

2-2. 平賀源内が仕掛けた広告戦略?

ここでよく語られるのが、「うなぎ屋の主人が平賀源内に相談した」という逸話である。

夏場は売り上げが落ちるうなぎ屋の主人が、「夏になるとうなぎは油っぽいから敬遠されがちで、客足が伸びない。どうにかして売り上げを伸ばす方法はないか?」と平賀源内に相談した。そこで源内が考えたのが、「本日、土用の丑の日」という看板を店先に掲げるというものだった。そしてそれを見た客たちが、「土用の丑の日にはうなぎを食べると元気が出るらしい」と思い込み、一気にうなぎの人気に火がついた――というわけだ。

この話は非常に有名で、テレビ番組や雑誌などでも「平賀源内がキャッチコピーを考案した」と紹介されることが多い。一種のマーケティングの先駆者といえるエピソードで、しかも江戸時代にこの発想があったのだから驚きである。

もっとも、実は学術的に見ればこの説の裏付けは確実ではない。平賀源内の日記や文献に明示的な記録が残っているわけではなく、後年になって広まった話だともいわれる。しかしながら、「夏バテ防止にうなぎ」というイメージが強まったきっかけとして、このエピソードが重要な役割を担ったことは確かだ。

2-3. 江戸のうなぎ事情:栄養価と人気ぶり

ではなぜ、夏にうなぎを食べることがこんなにも定着したのか? その理由の一つはうなぎの持つ栄養価の高さにある。うなぎにはビタミンA、ビタミンB群、タンパク質、ミネラル類などが豊富に含まれており、スタミナをつける食材として古くから親しまれてきた。

江戸時代、庶民の間でもうなぎは比較的手に入りやすい魚だったが、当時は調理法や保存技術が今ほど確立されていなかったこともあり、夏場はうなぎの脂っこさが敬遠されることもあったようだ。そこで、藪入り(やぶいり)の楽しみとして食べられたり、蒲焼きにして味付けを濃くするなど、さまざまな工夫が行われた。

とはいえ、江戸時代後期にはすでに「夏バテにはうなぎ」という考え方が広く浸透していたようで、いわゆる「土用の丑の日」の習慣に拍車をかけたともいえる。平賀源内の逸話があったからこそ一気に認知度が高まり、現在まで連綿と続く文化として根付いたのだろう。

3. うなぎ料理の奥深さ──蒲焼以外にもある多彩な食べ方

うなぎといえば「蒲焼」というイメージが強い。香ばしく焼かれた身に、甘辛いタレを絡めてご飯にのせる鰻重や鰻丼は、まさに至福の味である。しかし実は、うなぎ料理は蒲焼だけではない。江戸時代にはさまざまな調理法が考案されており、その名残は今でも各地に存在している。

  • 白焼き:タレを使わず、塩などで味付けしてシンプルに焼き上げる調理法。うなぎの旨味をストレートに感じられる。わさびやポン酢と合わせるとサッパリと食べられる。
  • ひつまぶし:主に名古屋で有名。刻んだうなぎを熱々のご飯にのせ、薬味やだしをかけていただく食べ方。三度楽しめる贅沢さが人気だ。
  • うざく:きゅうりなどの野菜と一緒に酢の物にしたもの。さっぱりといただけるため、夏の食欲減退時にもぴったりだ。
  • う巻き:卵焼きにうなぎを巻き込んだ料理。出汁がしみ込んだフワフワの玉子と脂ののったうなぎが絶妙なハーモニーを生む。

こうしたバリエーション豊富なうなぎ料理が広く浸透しているのも、江戸時代から伝わるうなぎ文化の賜物だといえる。単純に「蒲焼=うなぎ」だけではなく、地域ごとの食習慣や工夫を知ることで、うなぎの奥深さをより感じられるはずだ。

4. 平賀源内の逸話いろいろ──発明家、蘭学者、エンターテイナー

さて、ここで再び平賀源内に視点を戻そう。うなぎの土用の丑の日だけでも十分興味深いのだが、源内の魅力はそれだけに留まらない。彼は江戸のダ・ヴィンチとも称されるように、複数の分野で足跡を残している。

4-1. エレキテルの復元と発明

平賀源内の功績で特に有名なのは、「エレキテル」の復元だ。エレキテルは西洋から伝来した静電気発生装置で、源内がそれを修理・改良して日本で初めて実演したとされる。江戸の人々は電気の存在をほとんど知らなかった時代ゆえ、その怪しげな光や音はまるで手品のように見え、大盛り上がりだったという。

ただし、源内はエレキテルを「面白いからやろう」と単純に考えたわけではない。蘭学の知識を活かして西洋技術を学び、日本独自の改良を加えることで実用化に成功したという説もある。実際に医療や科学の分野への応用にも意欲を見せていたそうだ。

4-2. 博覧強記!学問・芸術の多方面での活躍

源内は蘭学を通じて医学や博物学、さらに地質学や化学など多分野に興味を持っていた。ときには鉱山開発にも携わり、全国を飛び回ったという。さらに、戯作者として芝居の脚本を書いたり、自ら絵を描いたりと、まさにマルチタレントぶりを発揮していた。

こうした多彩さは「一つのことを極める」という江戸の学問の常識からすると異端だったかもしれないが、それこそが平賀源内の魅力であり、新しい価値を生む原動力になったのだろう。

4-3. 諸説あるトリビア:土用の丑以外の真偽

平賀源内にまつわるトリビアはまだまだある。たとえば、「初めてアイスクリームを紹介した」なんて説もあれば、「温泉の成分分析をして入湯法を広めた」など、多岐にわたる。しかし実際には、当時の記録が散逸していたり、後年の創作が混ざっていたりすることも多いため、真偽不明のエピソードが多数存在している。

土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を広めたのも、本当に源内が仕掛けたかどうかは決定的証拠がないとはいえ、「アイデアマンの平賀源内だからこそ、それくらいやりそうだ」と皆が感じるゆえに、強い説得力を持って語り継がれているのだろう。

5. 平賀源内とうなぎの真偽──本当のところどうなの?

結論からいえば、「平賀源内とうなぎ」のエピソードは、確たる公的文献で裏付けられているわけではない。しかし、江戸時代のさまざまな文献や後世の語り草によって、その存在感は強まっている。

一説には、平賀源内は「うなぎだけでなく、ほかの食材にも『丑の日に〇〇を食べよう』と勧めた」という話もある。さらに「土用の丑の日=うなぎ」という風習自体は源内以前から部分的にあったのを、彼が広める手助けをしただけとする見解もある。

要するに、まったく根拠がないわけではないが、史実として100%確定しているわけでもないというのが現状だ。ただ、物語としてこれだけ愛され、現代にも受け継がれるほどのインパクトを持つのは、平賀源内のキャラクターがあってこそだろう。

  • 「うなぎは夏バテ対策にいい」という認識は江戸時代からあった
  • 土用の丑の日にうなぎを食べる風習も元から存在した可能性が高い
  • 平賀源内のアイデアがこれを“広告”のように大々的に周知させたという説

こうしたバランスを踏まえて、今日では「土用の丑の日といえば平賀源内」というイメージがすっかり定着したと言える。

6. 現代のうなぎ事情──資源保護と食文化のはざまで

平賀源内の仕掛けとも言われる土用の丑の日の習慣は、約250年の時を経て今なお受け継がれている。一方で、21世紀の現代においてはニホンウナギの資源保護問題が大きな課題となっているのも事実だ。

6-1. ニホンウナギ絶滅危惧種問題と養殖の現状

もともとニホンウナギの生態は未解明な部分が多く、産卵場所も深海であるため長らく研究対象としてもミステリアスな存在だった。近年、地球温暖化や河川環境の変化、過剰な漁獲などにより、ニホンウナギの稚魚(シラスウナギ)の確保が困難になっている。
2014年には国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで「絶滅危惧種」に指定されるなど、その将来を危ぶむ声は大きい。養殖技術は進歩しているものの、シラスウナギを捕獲してから養殖する方式が主流で、完全養殖はまだ普及していない。こうした状況により、今後うなぎを食べ続けることには深刻な懸念があるのだ。

6-2. 持続可能なうなぎを求めて:代替食や国際取り組み

一方で、日本国内では食品メーカーや研究機関が「うなぎ味そっくりの代替食品」を開発したり、完全養殖の実用化に向けて試行錯誤を重ねている。海外でもEUやその他の国々で、うなぎの資源管理や禁漁期間の設定などが進められている。
今はまだ端境期ともいえるが、将来的には「持続可能なうなぎ文化」が構築される可能性がある。平賀源内の時代のように、「新しい発想で課題を解決しよう」というマインドが、今まさに求められているのだ。

7. まとめ:平賀源内とうなぎから学ぶ、時代を越えるアイデア

ここまで見てきたように、平賀源内とうなぎの関係は「土用の丑の日」だけにとどまらない。源内の多才で自由な発想と、当時の江戸文化が融合して生まれた一つの現象といえる。そして現代でも、その発想力とアイデアは私たちの心を惹きつけてやまない。

真偽はともかく、江戸の人々が「平賀源内が考案したキャッチコピーだ」と大いに盛り上がり、それが現代にも影響を与えていることは、まさに驚くべき長寿コンテンツといえるだろう。

うなぎは今後、資源保護や国際規制などさまざまな課題に直面する。だからこそ、私たちは平賀源内のような柔軟かつ大胆な発想で、「持続可能なうなぎの食文化」を生み出す必要があるのではないだろうか。彼がもし今の時代に生きていたら、どんな斬新なアイデアで世界をあっと言わせただろうか――そんな想像を膨らませながら、次にうなぎを食べる日を楽しみにしてみたい。