結論:さらさら越えは「あったか確実ではない」伝説。成政は肥後の一揆の責任で切腹した
佐々成政が小牧・長久手の戦いの最中の天正12年(1584年)、冬の立山連峰を越えて浜松の徳川家康に会いに行った、という「さらさら越え」。日本語版 Wikipedia は、実際にあったかどうかは確かではないとしています。この話は『太閤記』が物語として広め、地元の『肯搆泉達録』がさらに脚色したものだといいます。
一方で、成政が家康を説得しようとして動いたこと自体は、尼崎市の図書館だよりも伝えています。確かでないのは、どの道を、どんな姿で通ったかという点です。成政の最期は、天正16年閏5月14日(1588年7月7日)、肥後国人一揆の責任を問われ、摂津国尼崎で切腹を命じられたというものです。
基本情報
- 名前:佐々成政(さっさ なりまさ)。通称は内蔵助
- 生没年:天文5年(1536年)説などがあり、生年は諸説あり/天正16年閏5月14日(1588年7月7日)没
- 時代:戦国時代〜安土桃山時代
- 立場:織田信長の家臣。のち越中の大名、肥後一国の領主
- 出身:尾張国。佐々成宗の子
- 主な出来事:黒母衣衆の筆頭、長篠の戦いで鉄砲隊を指揮、越中統治と常願寺川の治水、さらさら越えの伝承、肥後国人一揆
- 最期:尼崎で切腹
- 墓所:兵庫県尼崎市の法園寺
佐々成政の生涯とさらさら越えの流れ
黒母衣衆の筆頭から越中の大名へ
成政は天文19年(1550年)に織田信長に仕えたとされます。兄の孫介と政次が相次いで戦死し、永禄3年(1560年)に家督を継いで比良城主となっています。政次の戦死は桶狭間の戦いの年です。
永禄10年(1567年)に黒母衣衆の筆頭となり、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは鉄砲隊約3000人を指揮したと伝わります。尼崎市の資料も、成政を信長直属の親衛隊の筆頭で、鉄砲隊長を務めたエリートとして紹介しています。
長篠のあと、越前の府中2郡(約10万石)を前田利家、不破光治と分け合い、小丸城を居城にしました。いわゆる「府中三人衆」です。その後は北陸の戦いに加わり、天正9年(1581年)に富山城へ入ります。翌年3月に神保長住が失脚して、越中一国の支配者となりました。
常願寺川の「佐々堤」
越中での成政の仕事として知られるのが、常願寺川に築いたと伝わる「佐々堤」です。霞堤(かすみてい)と呼ばれる形式の堤防で、洪水に悩まされる川に対する治水の工夫でした。武将としての顔だけでなく、領国の整備にも取り組んだ人物として、地元で語り継がれる理由のひとつです。
本能寺の変と柴田勝家への味方
天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起きると、北陸の諸将が退く中で、成政は上杉軍の反撃を防ぎました。清洲会議の頃は柴田勝家の側につき、越中を安堵されています。
翌年の賤ヶ岳の戦いでも勝家方でしたが、自分は動けず、叔父の佐々平左衛門に600人を付けて送りました。勝家が敗れると、成政は娘を人質に出し、剃髪して羽柴秀吉に降伏し、越中は引き続き認められます。
小牧・長久手の戦いと秀吉との敵対
天正12年(1584年)1月、成政は「陸奥守」に任じられています。しかし同じ年、小牧・長久手の戦いのさなかに徳川方へ通じました。8月28日に前田方の朝日山城を攻めて撃退され、9月の末森城の戦いでも敗れています。
尼崎市の資料によれば、その最中に織田信雄と秀吉の和議が成ったという知らせが入りました。成政は自ら家康を説得しようと、敵が包囲していない真冬の北アルプス越えを数百名の家臣とともに行い、達成した、と紹介されています。ただし家康は説得に応じず、成政は越中に戻りました。
さらさら越えは本当か?ルートと史実性の諸説
物語として広まった経緯
Wikipedia によると、さらさら越えは、立山連峰や針ノ木峠などの険しい峠を越えて信州に出て、浜松で家康と会ったとされる話です。出来事としての確実さは低く、『太閤記』が物語として広め、地元の『肯搆泉達録』が脚色を加えたとされています。
つまり、「厳冬期の立山を越えた」という具体的な絵は、後の世に作られた部分が大きいということです。成政が家康を説得するために動いたこと自体と、冬の立山を歩いて越えたことは、分けて考える必要があります。
ルートをめぐる3つの説
Wikipedia は、可能性のあるルートとして次の3つを挙げています。
- ザラ峠・針ノ木峠ルート:立山連峰を越えたとする説
- 飛騨ルート:冬の立山越えは困難なので、飛騨から安房峠を越えて信州に出たとする説
- 越後経由ルート:越中から日本海沿いに北上して越後の糸魚川地域に入り、千国街道を南下したとする説。上杉側の村上義長の援助を受けたとされる
どれが正しいかは、史料からは決められていません。「さらさら」という呼び名の由来も、はっきりした定説を確かめられなかったため、この記事では触れません。
家康の返答と、その後
説得は不調に終わりました。成政が越中に戻った翌年の天正13年(1585年)、秀吉は約7万の兵で富山城を包囲し、成政は降伏しています(富山の役)。新川郡を除く領地は没収され、富山城は破却されました。成政は妻子とともに大坂へ移り、秀吉の御伽衆となります。摂津国能勢郡では1万石が与えられました。
天正15年(1587年)には、秀吉から「羽柴」の名字を与えられています。かつて戦った相手の下で、再び取り立てられたことになります。
肥後国人一揆と尼崎での最期
肥後一国を任される
天正15年(1587年)の九州征伐の功により、成政は肥後一国を与えられました。大名への復帰です。ところが入国後に検地を始め、これが隈部親永(くまべ ちかなが)を中心とする国人たちの反発を呼びました。7月10日に反乱が起き、肥後国人一揆に発展します。成政は自力で鎮圧できませんでした。
一揆の原因をめぐる見方
秀吉が成政に慎重な統治を求めたとされる「五箇条の定書」がありますが、宛名などに不自然な点があり、史料として疑問視されています。また、九州国分で、元大友方の国人が旧領を回復できなかった不満が背景にあったとする見方もあります。「成政が検地を急いだから」だけで説明できる話ではありません。
尼崎で切腹を命じられる
天正16年(1588年)2月、成政は謝罪のため大坂に向かいましたが、秀吉に面会を断られ、尼崎に幽閉されました。尼崎市の資料では、幽閉は4か月に及び、のちに法園寺で切腹したと伝えています。安国寺恵瓊が助命を願いましたが認められず、秀吉は加藤清正を検使に立て、切腹を命じました。
辞世として伝わるのは次の歌です。
「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」
切腹の様子については、秀吉のいる大坂城の方向へ向けた振る舞いがあったと伝わりますが、細部は伝承の域を出ません。ここでは立ち入りません。
ゆかりの地と関連する人物
- 法園寺(兵庫県尼崎市):成政が切腹した場所と伝えられ、墓所とされる寺
- 富山城(富山県富山市):天正9年に入城し、一国の支配者となってからは大規模に改修した城。富山の役後に破却された
- 常願寺川の佐々堤(富山県):成政が築いたと伝わる霞堤
- 小丸城(福井県):府中三人衆の時代の居城
- 前田利家:府中三人衆の仲間でもあった。小牧・長久手の戦いでは、末森城などで成政と戦った
- 柴田勝家:賤ヶ岳の戦いで成政が味方した、北陸方面の大将
- 加藤清正:切腹の検使を務めた
成政の跡継ぎについては、長男・松千代丸は夭折したと伝えられ(実在を裏付ける史料は乏しいとされます)、養子もいましたが家督は継承されず、直系の子孫は残っていないとされています。
黒百合伝説・埋蔵金伝説
成政には、愛妾・早百合の悲劇にまつわる「黒百合伝説」や、鍬崎山の埋蔵金伝説も伝わります。いずれも真偽は不明とされており、史実として扱うことはできません。
よくある質問
さらさら越えは史実ですか?
成政が家康を説得しようとしたことは伝えられていますが、冬の立山を越えたという話は、確実とは言えません。『太閤記』や『肯搆泉達録』で物語として広まった面があり、ルートも立山・飛騨・越後経由の3説に分かれています。
佐々成政はなぜ切腹したのですか?
肥後一国を与えられたあと、検地をめぐって国人一揆が起き、自力で鎮圧できなかったためです。責任を問われて尼崎に幽閉され、天正16年閏5月14日に切腹を命じられました。
佐々成政のお墓はどこにありますか?
兵庫県尼崎市の法園寺が墓所とされています。尼崎市の資料でも、成政が法園寺で切腹したと紹介されています。
佐々成政と前田利家は仲が悪かったのですか?
長篠のあとは府中三人衆として領地を分け合った間柄です。のちに小牧・長久手の戦いの頃は、朝日山城や末森城をめぐって戦いました。個人的な感情までは、確かめられる史料を見つけられませんでした。
佐々成政の子孫は続いていますか?
直系の子孫は残っていないとされています。長男の松千代丸は夭折したと伝わり、養子に家督が継承されることもなかったためです。






