結論:信玄の家紋は「武田菱」。由来は一つに決まらず、花菱との関係も諸説ある
武田信玄が属する甲斐武田氏の家紋は「武田菱」です。菱形を四つ組み合わせた「割り菱」の一種で、他の武田系の氏族も同じ紋を使いました。
由来は定まっていません。「武田」の「田」の字をもとに図案化したとする説があり、先祖伝来の鎧「楯無」の裾の菱が定紋になったとする伝承もあります。ただし、その菱が割り菱か松皮菱かは、伝える史料の中でも揺れています。
「花菱」も武田氏と縁のある意匠として語られます。楯無の袖に付いていたのは花菱だったとする説があり、国宝の鎧の金具まわりにも花菱の文様が確認できます。ただし、花菱が武田家の公式な家紋だったと言える根拠は、今回確かめた資料の中にはありません。
基本情報
- 人物:武田信玄(諱は晴信、通称は太郎。「信玄」は出家後の法名)
- 生没年:大永元年11月3日(1521年12月1日)〜元亀4年4月12日(1573年5月13日)、享年53
- 時代:室町時代(戦国時代)
- 立場:甲斐武田氏の当主。官位は従四位下、大膳大夫、信濃守など
- 家紋:武田菱(割り菱の一種)
- 関連する意匠:花菱(楯無鎧の袖に付いていたとする説がある)
- 家宝:楯無鎧(現在は国宝「小桜韋威鎧 兜、大袖付」として菅田天神社が所蔵)
武田信玄の家紋「武田菱」とは?形と由来の諸説
武田菱のデザイン:割り菱との違い
武田菱は、菱形を四つ組み合わせた形の紋です。菱紋の中では「割り菱」が最も多く使われる図案とされ、武田菱はその割り菱と元は同じものです。違いは菱形どうしの間隔で、間隔が狭いものを武田菱、広いものを割り菱と区別することがあります。
つまり、世の中の「割り菱」がすべて武田家の紋というわけではありません。逆に、武田菱は割り菱の仲間のうち、武田氏が使ったことで広く知られた形だと整理できます。
由来説①:「田」の字から生まれた
一説には、武田の「田」の字をもとにデザインされたとされます。四つの菱形を田の字のように組んだ形だという見方です。ただし、これは一説にとどまり、確かな史料で裏づけられた話ではありません。
菱紋全般についても、ヒシの実や葉を図案化したものといわれますが、図形が単純なため発生の過程は明確ではないとされています。菱形の文様自体は縄文時代前期の土器にも描かれており、家紋になったのは、連続した織物の文様から菱形を取り出したためと考えられています。
由来説②:楯無鎧の裾の菱
武田家の家宝に、楯無と呼ばれる鎧があります。室町幕府の家紋集『見聞諸家紋』は、前九年の役の際に源義光(新羅三郎)が住吉社で武運を祈り、神託によって楯無の鎧を授かり、その裾の割菱が武田氏の定紋になったと伝えます。
ところが、同じ『見聞諸家紋』の引用には「鎧有松皮菱」ともあり、割菱と松皮菱の両方が出てきます。また、楯無は源頼義が御旗とともに授けられたとする伝承もあり、誰が授かったのか、どの菱だったのかが一貫しないのです。伝承としては面白い一方で、そのまま史実とは言い切れません。
史料に見える武田氏の菱紋
実際の使用で古い例としては、1392年の『相国寺塔供養記』があります。武田信任の直垂に「違い菱」があったと記されています。これは武田菱そのものではありませんが、室町時代の武田氏が菱の紋を用いていたことを示す記録です。信玄が生まれる約130年前にあたります。また、室町幕府の家紋集『見聞諸家紋』には「割り菱」と「松皮菱」が載っています。
「花菱」と楯無鎧:どこまで確かめられるか
楯無鎧とはどんな鎧か
楯無は、武田家に伝わった家宝の鎧で、新羅三郎義光が授かったという伝承があります。
現存する鎧は、1952年(昭和27年)11月22日に「小桜韋威鎧 兜、大袖付」として国宝に指定されました(1905年に重要文化財指定)。所有者は山梨県甲州市の菅田天神社です。作られた時期は、平安時代後期の鉄製部分を再利用して鎌倉時代中期に仕立てたものと考えられていますが、その後も補修が重ねられ、寛政10年(1798年)にも補修を受けています。
鎧に見える花菱の文様
文化庁の「文化遺産オンライン」の解説では、この鎧の金具まわりに花菱の文様が見られるとされています。小縁には紅色の花菱文の韋(なめし革)が使われ、金具の「花菱甁」や「花菱透座」といった部分も確認できます。
こうした事実から、「楯無の袖に付いていたのは花菱だった」とする説が出てきたと考えられます。ただし、文化遺産オンラインの解説は花菱の意匠を個別に説明しておらず、花菱が武田氏の家紋として使われたかどうかには触れていません。そのため、本記事では「花菱は鎧の装飾として確認できる」「家紋としての位置づけは諸説の域を出ない」とまとめます。
花菱は菱紋のなかでどんな位置か
菱紋は大きく、菱形そのものを使う「菱紋」と、花の形を菱形に整えた「唐花菱紋」に分けられ、唐花菱は「唐菱」とも呼ばれます。花菱が菱紋の中でどう分類されるかは、確認した資料には説明がありません。
「公的な場と私的な場で使い分けた」は本当か
武田菱は公式の紋、花菱は私的な場の紋と使い分けた、という説明を見かけることがあります。しかし、今回確認した Wikipedia や文化庁・山梨県のページには、そのような使い分けを裏づける記述はありませんでした。恵林寺に証拠が残るという話も、確かめられていません。そのため、この点は事実として書かず、「根拠が確認できない説明」としておきます。
武田菱が広がった背景と、その後の使われ方
楯無と御旗に込められた権威
楯無は、同じく武田家に伝わる御旗と対のものとされ、戦国期には神格視されたといわれます。武士たちが戦いの前に「御旗楯無も御照覧あれ」と誓ったと伝わります。武田氏にとって、紋の由来と結びつく鎧は、家の権威を支える象徴でもありました。
楯無の最期の伝承
信玄の時代に楯無は菅田天神社に納められたとされます。のちに武田氏が衰える中で、鎧は杉の木の下に埋められ、徳川家康が甲府に入った際に掘り出されて神社に戻された、という伝承があります。ただし、埋納の形跡は確認されていないという指摘もあります。
他の家紋・三菱マークとの違い
菱を使った紋は武田氏だけのものではありません。『太平記』には大内修理亮が直垂に「大菱」を用いたという記述があり、菱紋が現れたのは1370年頃とみられています。大内氏の「大内菱」などは「幸菱」の仲間にあたります。
三菱グループの「スリーダイヤ」と同じ図案は、菱紋では「寄せ三つ菱」と呼ばれます。図案は同じでも由来は異なるとされています。また、割り菱の最下部の菱形が一つ欠けた形は「三つ盛り菱」といい、武田菱とは別の紋です。
現代に残る武田菱
甲府では、武田菱が甲府駅や一般の家屋など各所で見られます。山梨県の県章も武田菱をもとにしています。県の公式ページによれば、県章は「周囲は富士山と武田菱でうるわしい郷土を象徴して」おり、中の山形は三つの「人」の字で山梨の山を形どり、和と協力を表します。告示は昭和41年(1966年)10月1日です。また、山梨県警察は機動隊の部隊章に武田菱を使用しています。
ゆかりの地と関連する人物
- 菅田天神社(山梨県甲州市):楯無鎧(国宝「小桜韋威鎧 兜、大袖付」)を所蔵する神社。鎧の公開は年に一回程度、数時間に限られるとされます。山梨県立博物館や甲府市の武田神社宝物館には複製が展示されています。
- 雲峰寺(山梨県甲州市):御旗を所蔵する寺。
- 恵林寺:武田家の菩提寺で、信玄の墓所の一つ。
- 新羅三郎義光(源義光):後世の武田氏では始祖とされる人物。楯無や御旗の伝承に登場します。
- 武田勝頼:信玄の子。1576年に恵林寺で信玄の葬儀を行ったとされます。
よくある質問
武田信玄の家紋は何ですか?
甲斐武田氏の家紋は「武田菱」です。割り菱という菱紋の一種で、他の武田系氏族も同じ紋を用いました。
武田菱と割り菱は同じものですか?
元は同じ図案です。菱形どうしの間隔が狭いものを武田菱、広いものを割り菱と区別することがあります。
武田菱の由来は何ですか?
「田」の字から図案化したとする説と、先祖伝来の楯無鎧の裾の菱が定紋になったとする伝承があります。後者は伝える内容が一貫せず、確かな史実とは言えません。
花菱は武田家の家紋ですか?
確かめられた資料では、花菱は国宝の楯無鎧の金具まわりの文様として確認できます。しかし、武田家の家紋だったと裏づける記述は見つかっていません。
山梨県章と武田菱は関係がありますか?
あります。県章は富士山と武田菱をもとにした図案で、昭和41年10月1日に告示されました。






