結論:晶子は1912年6月18日、パリで夫の寛とともにロダンに会った
与謝野晶子が彫刻家オーギュスト・ロダンに会ったのは、1912年(明治45年)6月18日のことです。場所はパリで、同行したのは夫の与謝野寛(鉄幹)でした。堺市の資料は、このとき二人がロダンから「日本で自身の展覧会を開きたいので、その仲立ちをお願いしたい」と言われたと伝えています。
この出会いは、単なる有名人への表敬では終わりませんでした。翌1913年3月12日付で、ロダンは寛に宛てて日本でのロダン展の準備を伝える書簡を書いています。同じ1913年に生まれた晶子の四男は、この出会いを記念して「アウギュスト」と名づけられました。さらに晶子は寛との共著『巴里より』(1914年刊)で、ロダンとの出会いを「ロダン翁」という文章に残しています。
一方で、ロダン邸で薔薇の花束を贈られたという話など、よく語られる逸話の一部は、この記事で確かめた公的な資料や Wikipedia からは裏づけが取れませんでした。確かめられた事実と、確かめられなかったことを分けて、順に見ていきます。
基本情報
- 人物:与謝野晶子(歌人)。堺県和泉国(現在の大阪府堺市堺区)の生まれ
- 没年:1942年(昭和17年)5月29日。荻窪の自宅で死去、享年65(満63歳)。墓は多磨霊園にある
- 時代:明治から昭和。ロダンに会った1912年は、明治45年から大正元年への移り変わりの年
- ロダンに会った日:1912年(明治45年)6月18日、パリ(堺市の資料による)
- パリ滞在:1912年5月19日にパリへ着き、9月21日にマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの約4か月間
- 関連する著作:寛との共著の紀行文集『巴里より』(1914年)
- 相手:オーギュスト・ロダン(1840年11月12日生まれ、1917年11月17日にムードンで没、77歳)。代表作に『考える人』『カレーの市民』『地獄の門』など
与謝野晶子とロダンの対面:パリへの旅とアトリエでの出会い
シベリア鉄道でパリへ:夫を追った1912年の旅
きっかけは寛の渡欧でした。堺市の資料によると、寛は1911年(明治44年)11月に熱田丸で横浜港を出発し、約2か月かけてパリに向かっています。寛の渡欧は晶子の計らいによるものだったと、Wikipedia の与謝野寛の項に書かれています。
晶子は翌1912年5月に日本を発ちます。Wikipedia によれば、旅費の工面には森鷗外が力を貸し、三越の事実上の経営者だった日比翁助が、渡航の補助として1,000円を贈りました。出発のときには約500人が見送り、その中には平塚らいてうもいたとされます。読売新聞は5月6日にこの出発を報じ、『中央公論』も6月に特集を組んでいます。出発前から、晶子の渡欧は世間の注目を集めていました。
道のりは、敦賀港から船でウラジオストクへ渡り、そこからシベリア鉄道でモスクワを経てパリへ入るというものでした。パリ到着は5月19日です。国立国会図書館の展示解説も、晶子が前年にフランスへ渡った寛を追って、シベリア鉄道で渡欧したことを記しています。
1912年6月18日、ロダンとの対面
パリに着いてから約1か月後の6月18日、晶子と寛はロダンに会いました。この日付と、ロダンから日本での展覧会の仲立ちを頼まれたという経緯は、堺市が公表している企画展の資料に書かれています。
ロダンは1840年生まれで、このとき70代前半でした。日本では1910年に雑誌『白樺』が第8号を「ロダン号」として編み、有島武郎、高村光太郎、永井荷風らが寄稿していました。Wikipedia のロダンの項によれば、この号の流れの中で、白樺派の若者たちが浮世絵を送り、返礼にロダンから3点の彫刻が届いています。これが日本に初めてもたらされたロダン作品とされています。晶子と寛がロダンに会う二年前には、すでに日本の若い文学者や美術家の間で、ロダンへの関心が高まっていたわけです。
国立国会図書館の解説は、この出会いを「夫妻にとって忘れがたい出来事」と位置づけ、『巴里より』に「ロダン翁」という一章として綴られていると紹介しています。面会の細かな会話や、アトリエの様子を詳しく知りたい場合は、『巴里より』そのものを読む必要があります。この記事では、公的な資料で確かめられた範囲にとどめます。
パリのほかの出会いと、雑誌の表紙になった晶子
パリでの晶子は、ロダンだけに会っていたのではありません。堺市の資料によれば、晶子と寛は約4か月間、パリを拠点にイギリス、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れ、さまざまな芸術文化に触れました。文藝春秋に載った孫の與謝野文子氏の文章は、ロダンのほかに象徴派の詩人アンリ・ド・レニエにも触れています。
晶子はフランスの雑誌『レ・ザナール』の表紙を飾ってもいます。堺市の資料は、この号に「仏蘭西に於ける第一印象」と題した晶子の寄稿文や、記者による紹介を含む、全5ページの記事が載ったと伝えています。複数のメディアから取材を受けた経験が、日本に戻ってから評論活動を始めるきっかけになったとも書かれています。表紙に使われた肖像写真のオリジナルは、2025年のさかい利晶の杜の企画展で初公開されました。
ロダンが残したもの:書簡、紀行文、そして四男の名
ロダンから寛に宛てた1913年の書簡
ロダンとの縁が形に残った例が、1913年(大正2年)3月12日付の書簡です。堺市の資料によれば、これはロダンが寛に宛てて作成したもので、文章はタイプ打ち、署名は自筆です。内容は、日本でロダン展を開くための準備を進めていることを伝えるものでした。この書簡は与謝野光氏の旧蔵品で、2025年7月26日から9月7日まで、さかい利晶の杜(堺市堺区)の企画展「パリより-与謝野晶子と寛の渡欧体験-」で初公開されています。
面会の場でロダンの側から展覧会の話が出ていたこと、そして半年以上あとにその準備を伝える手紙が届いたことから、ロダンが約束を忘れずにいたことが読み取れます。ただし、ロダン展が日本でその後どのように実現したのかは、今回確かめた資料には書かれていないため、ここでは触れません。
紀行文集『巴里より』の成り立ち
『巴里より』は、1914年(大正3年)に晶子と寛の共著として出版されました。堺市の資料によれば、1911年11月から帰国の途につく1912年12月までに二人が書いた紀行文と詩を収め、風景写真の絵はがきが多数入った本です。装幀と挿絵は画家の徳永柳洲が手がけました。徳永は寛と船でパリをめざし、滞在中もしばしば寛と行動を共にした人物です。その土台になったのは、寛が書き続けた「渡欧日記」でした。
国立国会図書館の解説によれば、寛は日本と比べる視点を保ちながら事実を淡々と記し、晶子は人間観察に徹しています。晶子は、流行を追いつつ個性を大切にして活動的に生きるパリの女性たちに深く感銘を受けた、とも紹介されています。ロダンの章は、その中で夫妻の記憶に強く残った出来事として収められました。
Wikipedia の与謝野晶子の項は、『巴里より』が女子教育を論じていることも記しています。そこには「要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である」という一文が引かれています。パリの女性たちを見た経験が、帰国後の晶子の評論の背景にあったと考えられます。
四男アウギュストの命名
ロダンとの出会いが家族にまで及んだことを示すのが、四男の名前です。Wikipedia によれば、四男のアウギュストはパリを訪れたとき、彫刻家のオーギュスト・ロダンに会えたことを記念して名づけられました。生まれたのは1913年4月で、のちに「昱」(いく)と改名しています。
晶子は1912年の渡欧のとき、妊娠していました。パリでの暮らしを楽しむ一方、日本に残した子どもたちへの思いが募ったことも、Wikipedia に書かれています。帰国後に生まれた子に、会ってきた芸術家の名を贈ったことになります。当時の日本では珍しい命名だったでしょうが、そのことを伝える記録は今回確かめた資料にはなく、世間の反応については触れないでおきます。
よく語られるが、確かめられなかった話
ロダン夫人の薔薇、歌集『太陽と薔薇』との関係
晶子とロダンの話では、ロダン邸で夫人から薔薇を贈られたという逸話や、歌集『太陽と薔薇』にロダンの影響が色濃く出ているという説明が語られることがあります。しかし、今回参照した Wikipedia の与謝野晶子・ロダンの項、堺市や国立国会図書館の資料には、薔薇の逸話も、『太陽と薔薇』の刊行年や内容も書かれていませんでした。本文に書かれていないことは、事実として扱えません。気になる方は、晶子の作品集や記念館の展示解説で確かめるのが確実です。
ロダンと日本をつなぐ「花子」について
ロダンは、日本人の女性をモデルにした作品も残しています。Wikipedia のロダンの項には、新潟市美術館の所蔵品として『死の顔・花子』『空想する女・花子』が挙がっています。ただし、花子が1912年の晶子の訪問の場にいたのか、晶子と交流があったのかは、今回確かめた資料には書かれていません。二人の関係を断定する話は、ここでは扱いません。
この時期のロダンと、晶子のその後
ロダンは1917年に、長年連れ添ったローズと結婚の手続きをしました。Wikipedia によれば、その16日後にローズが亡くなり、ロダンもおよそ9か月後の11月17日にムードンで世を去っています。晶子のほうは、帰国後の1912年10月に日本へ戻り、寛は翌1913年1月に帰国したと国立国会図書館の解説にあります。二人の出会いから約5年後に、ロダンは77歳で亡くなりました。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館(大阪府堺市堺区宿院町西2丁1-1):晶子の生涯を紹介する常設展示室がある。2025年には、渡欧体験を扱う企画展が開かれた。
- 晶子の生誕地(堺市堺区甲斐町):Wikipedia では、この場所が「生家跡」として紹介されている。
- 堺駅西口広場:南海本線堺駅の西口に、晶子の銅像が建つ。
- 与謝野公園(東京都杉並区):晶子が晩年を過ごした荻窪の自宅跡周辺が公園になっている。
- 多磨霊園(東京都):晶子の墓がある。
関連する人物
- 与謝野寛(鉄幹):晶子の夫。1935年(昭和10年)3月26日に慶應義塾大学病院で亡くなった。
- 森鷗外:晶子の渡欧の費用の工面に力を貸した。
- 日比翁助:三越の事実上の経営者で、晶子の渡航に補助を出した。
- 徳永柳洲:『巴里より』の装幀・挿絵を担当した画家。
- オーギュスト・ロダン:フランスの彫刻家。1917年没。
よくある質問
与謝野晶子がロダンに会ったのはいつですか。
1912年(明治45年)6月18日です。パリで夫の寛と一緒に会いました。堺市の企画展資料に、この日付が書かれています。
晶子はどうやってパリへ行ったのですか。
1912年5月に敦賀港から船でウラジオストクへ渡り、シベリア鉄道でモスクワを経てパリに入りました。到着は5月19日です。先に渡欧していた夫の寛を追う旅でした。
ロダンは日本のために何をしたのですか。
面会のとき、日本で展覧会を開きたいので仲立ちを頼みたいと寛たちに話しました。1913年3月12日付で、準備を進めていることを伝える書簡も寛に送っています。展覧会がどう実現したかは、確かめられた資料に書かれていません。
四男の「アウギュスト」はロダンにちなむ名前ですか。
はい。パリでロダンに会えたことを記念した命名で、のちに「昱」と改名しました。生まれたのは1913年4月です。
晶子とロダンの出会いを詳しく知るには、何を読めばよいですか。
晶子と寛の共著『巴里より』(1914年)の「ロダン翁」が、夫妻自身の記録です。堺市のさかい利晶の杜では、渡欧をたどる企画展が2025年に開かれました。常設の与謝野晶子記念館とあわせて、確かめに行けます。






