結論:夏目漱石の出身地は、現在の新宿区喜久井町にあたる江戸の牛込馬場下横町
夏目漱石は慶応3年正月5日(1867年2月9日)、江戸の牛込馬場下横町に生まれました。現在の東京都新宿区喜久井町です。家は一帯を治める名主で、漱石は父・夏目小兵衛直克と母・千枝の末子(五男)でした。
ただし、生家で順調に育ったわけではありません。生後すぐに里子に出され、翌年には新宿の名主・塩原昌之助の養子となり、夏目姓に戻ったのは21歳になる明治21年(1888年)のことでした。
この記事では、生まれた土地、名家としての夏目家、養子をめぐる経緯、そして学歴と赴任先までを、Wikipedia と新宿区のページで確かめられた範囲でまとめます。
基本情報
- 本名:夏目金之助
- 生没年:慶応3年(1867年)〜大正5年(1916年)12月9日。49歳(満年齢)で亡くなった
- 時代:江戸時代の終わりに生まれ、明治・大正を生きた
- 出身地:江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)
- 身分・家柄:名主・夏目小兵衛直克の五男(末子)
- 学歴:第一高等中学校を経て、帝国大学文科大学英文科を明治26年(1893年)に卒業
- 墓所:東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園
夏目漱石の出身地・新宿区喜久井町と名主の家
牛込馬場下横町に生まれた金之助
生まれた牛込馬場下横町は、いまの新宿区喜久井町にあたります。父の直克は、牛込から高田馬場までの一帯を治める名主でした。名主は村や町の行政を担う役で、直克は公務や民事訴訟の処理にあたり、権力と財産を持っていたと記されています。
夏目家の財産は、祖父の直基の代に傾いたとされます。その後、直克の努力で家は相当の財産を得ました。漱石が生まれたころの夏目家は、勢いを取り戻した名主の家だったことになります。
喜久井町と夏目坂は父の命名
新宿区に今もある「夏目坂」は、父の直克が名付けたとされます。町名の「喜久井町」も直克の命名とされ、夏目家の家紋が「井桁に菊」であることにちなみます。
一人の名主の家の姓と家紋が、坂と町の名前として残った例です。夏目家がその土地でどれだけ重んじられていたかが分かります。
誕生之地碑と終焉の地
喜久井町1には「夏目漱石誕生之地碑」があり、夏目坂に面しています。碑の建立年や揮毫者は、今回確かめたページでは確認できなかったため、ここでは触れません。
漱石が亡くなった「終焉の地」は、同じ新宿区の早稲田南町7番地です。新宿区は生誕150周年にあたる2017年(平成29年)9月24日に、この場所へ「新宿区立漱石山房記念館」を開館しました。漱石にとって初の本格的な記念館とされています。
参考:新宿区のページには誕生之地碑の記載がないため、碑と夏目坂の情報は Wikipedia によります。
夏目漱石の出身家庭と複雑な養子縁組
「金之助」の名前と高齢での出産
母の千枝は、子が多いうえ高齢での出産だったため、「面目ない」と恥じたといわれます。さらに、金之助が生まれた日は庚申の日にあたりました。この日に生まれた子は大泥棒になるという迷信があり、厄除けとして名に「金」の字が入れられたと伝わります。
生後すぐの里子
金之助は生後すぐ、四谷の古道具屋に里子に出されました(八百屋とする説もあります)。夜中まで品物の隣で寝ている様子を見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わっています。
塩原家への養子
明治元年(1868年)11月、金之助は新宿の名主・塩原昌之助のもとへ養子に出されました。昌之助はもともと直克のもとで書生同様に仕えた人物です。直克は見どころがあると見て、同じ奉公人の「やす」と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやったと記されています。
その後、昌之助の女性問題が発覚して塩原家は不和になりました。金之助は7歳のとき、養母とともに一時、生家に戻っています。このとき実の父母を祖父母だと思い込んでいた時期があったとされます。Wikipedia には、明治9年(1876年)に養母が塩原家を離縁され、塩原家に籍を置いたまま生家へ移ったとも書かれ、養父母の離婚により9歳で生家に戻ったという記述もあります。年齢の数え方に揺れがあるため、本記事では「少年期に生家へ戻った」とだけ押さえます。
復籍までと『道草』
実父と養父の対立のため、夏目家への復籍は21歳まで遅れました。復籍は明治21年(1888年)1月です。養父との関係は復籍後も続き、金の無心をされるなどして、実父が亡くなるまで続いたとされます。
養父との関係は、自伝的な小説とされる『道草』の題材になりました。『道草』は1915年6〜9月に『朝日新聞』に連載され、同年10月に岩波書店から刊行されています。
夏目漱石の出身校:第一高等中学校から帝国大学へ
転校を重ねた少年期
学歴は年ごとに次のとおりです。
- 1879年:東京府第一中学校正則科に入学
- 1881年:府立一中を中退し、二松學舍に転校
- 1883年:神田駿河台の成立学舎に入学
- 1884年:大学予備門予科に入学
- 1888年:第一高等中学校予科を卒業(7月)、本科一部に入学(9月)
- 1890年:第一高等中学校本科を卒業(7月)、帝国大学文科大学英文科に入学(9月)
- 1893年:帝国大学を卒業(7月)
復籍した1888年に、第一高等中学校の本科へ進んだことになります。
正岡子規との交流と「漱石」の号
1889年(明治22年)、正岡子規の文集『七草集』の批評を漢文で書いたことから、二人の交流が始まりました。漱石はこのとき初めて「漱石」の号を用いています。交流は、子規が亡くなる1902年まで続きました。
松山、熊本、そしてロンドン
1895年(明治28年)4月、漱石は愛媛県尋常中学校(松山中学)の嘱託教員として赴任します。翌1896年(明治29年)4月に第五高等学校(熊本)の講師となり、7月に教授になりました。
1900年(明治33年)6月、文部省から2年間の留学を命じられ、9月10日に日本を出発します。1902年12月5日にロンドンを発ち、1903年1月20日に帰国しました。
ゆかりの地と関連する人物
- 夏目漱石誕生之地碑(新宿区喜久井町1):夏目坂に面している
- 夏目坂:父・直克が名付けたとされる坂
- 新宿区立漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7):漱石終焉の地に、2017年9月24日に開館した
- 雑司ヶ谷霊園(豊島区南池袋):漱石の墓所
- 正岡子規:1889年から交流が続いた友人。「漱石」の号を初めて使うきっかけとなった
- 塩原昌之助:幼い漱石の養父。もとは夏目家の書生同様の奉公人
よくある質問
夏目漱石の出身地はどこですか?
江戸の牛込馬場下横町で、現在の東京都新宿区喜久井町にあたります。生家は名主の家でした。
なぜ「喜久井町」という町名なのですか?
夏目家の家紋が「井桁に菊」であることから、父の直克が町名を喜久井町としたとされます。
夏目漱石はなぜ養子に出されたのですか?
子が多く母が高齢で出産したことなどを背景に、生後すぐ里子に出され、明治元年11月には塩原昌之助の養子になりました。事情の細部は、確かめられた範囲では上の記述までです。
夏目漱石が夏目姓に戻ったのはいつですか?
明治21年(1888年)1月、塩原家から復籍して夏目姓に戻りました。
夏目漱石の墓はどこにありますか?
東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園にあります。





