夏目漱石 日本史トリビア

結論:「悪妻」は一面的な見方で、鏡子は病む夫を支え続けた妻とも評される

夏目漱石の妻・鏡子(1877〜1963年)は、「悪妻」と語られてきた人物です。たしかに家事が苦手で、寝坊をして朝食を出さずに夫を送り出すこともありました。ただし、その評判は主に漱石の弟子たちの見方によって広まったものです。

一方で、長女の筆子や次男の伸六は鏡子を支持する証言を残しており、孫たちも、裏表がなく子や孫に慕われた母・祖母として鏡子を語っています。さらに鏡子自身が語った『漱石の思ひ出』は、漱石の実像を知る重要な資料とされています。この記事では、悪妻説の根拠と反論を並べて、鏡子の実像を整理します。

基本情報

  • 名前:夏目鏡子(本名は夏目キヨ)
  • 生没年:1877年(明治10年)7月21日〜1963年(昭和38年)4月18日(85歳)
  • 出身:広島県生まれ。貴族院書記官長だった中根重一の長女
  • 結婚:1896年(明治29年)、見合い結婚で夏目漱石の妻になる
  • 子ども:2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)
  • 主な業績:談話が『漱石の思ひ出』としてまとめられた
  • 墓所:雑司ヶ谷霊園

夏目漱石の妻・鏡子との結婚と波乱の生活

お嬢さん育ちの生い立ちと見合い結婚

鏡子は、貴族院書記官長を務めた中根重一の長女として生まれました。尋常小学校を卒業したあとは学校へ通わず、家庭教師について学んだとされます。大切に育てられた一方で、わがままに育ったともいわれます。

結婚は見合いでした。父の重一は、娘は帝大卒業者にしか嫁がせないと公言していたといい、漱石をかなり高く評価していたとされます。漱石との結婚は1896年(明治29年)6月です。

熊本での新婚生活と、白川での出来事

結婚当時、漱石は熊本で教壇に立っていました。熊本市の案内によれば、漱石は熊本に4年3か月暮らし、その間に約1,000句の俳句を詠んでいます。熊本市には、現地にそのまま現存する唯一の漱石旧居があると紹介されています。

鏡子は慣れない生活の中で、ヒステリー症状が出ることがありました。結婚3年目にはそれが激しくなり、白川で自ら命を絶とうとして、漁師に助けられたと伝えられます。漱石の伝記でも、この時期の夫婦生活は順風満帆ではなかったと述べられています。

英国留学の後に深まった夫の神経衰弱

漱石は1900年(明治33年)9月に留学のため日本を発ち、1903年(明治36年)1月20日に帰国しました。帰国後は職場での風評に苦しんで神経衰弱を患い、癇癪を起こすことが増え、妻と約2か月別居しました。鏡子は、家族への暴力が続くなかでも、離婚を勧められて「病気だから」と応じなかったといいます。

この神経衰弱の治療の一環として、高浜虚子に創作を勧められて書いたのが処女作『吾輩は猫である』で、1905年(明治38年)1月に『ホトトギス』に掲載されました。作家・漱石の誕生は、この苦しい時期と重なっています。

夏目漱石の妻が悪妻と呼ばれた理由と、その反論

「朝寝坊」と家事への姿勢

悪妻説の代表的な根拠は、鏡子が家事を得意とせず、寝坊をして夫に朝食を出さないことがあった、という話です。漱石に叱られると、睡眠を取るほうが経済的だと言い返したという逸話も伝わっています。

弟子たちの評価と、広まった経緯

悪妻説を広めた一人として挙げられるのが、弟子の小宮豊隆です。著書『夏目漱石』で、鏡子の鈍感さを示すものとして語られました。また、永井荷風は、鏡子が漱石の死後に夫の秘密を公表したことを批判しています。和辻哲郎は、漱石の癇癪には理解を示しつつ、鏡子には批判的な見方をしました。

当時の男尊女卑的な価値観から見ると、夫にものを言い返す鏡子の言動は、「悪妻」「猛妻」と受け取られやすかった、とも説明されています。

家族の証言と、別の見方

反論の中心は家族の証言です。長女の筆子と次男の伸六は、子どもの頃に漱石から暴力を受けたと証言し、鏡子を支持しました。孫の世代も、鏡子を裏表がなく、子や孫に慕われた良き母・祖母として語っています。

門下生が鏡子から金を借りたことへの反発が、悪妻説の一因ではないかという指摘もあります。どの見方も断定はできませんが、悪妻説が弟子たちの側から語られた面は無視できません。

鏡子が残した回想録『漱石の思ひ出』と晩年

『漱石の思ひ出』はどう生まれたか

1927年(昭和2年)から、長女筆子の夫である松岡譲が鏡子の談話を筆録し、雑誌『改造』に連載されました。夫婦生活が率直に語られたため、当初は批判を受けましたが、現在では漱石の実像を知る重要な資料とされています。2016年には、NHKのドラマ『夏目漱石の妻』の原案にもなりました。

7人の子どもの母として

鏡子は2男5女を育てました。長女は筆子、長男は純一、次男は伸六です。孫たちが語る鏡子像は、子や孫に慕われた母・祖母というものでした。

漱石の死後と晩年

漱石は1916年(大正5年)12月9日、『明暗』の執筆途中に自宅で亡くなりました。死因は胃潰瘍です。鏡子は夫の死後も、子どもたちにからかわれると、亡き夫を懐かしんだといいます。門下生が集まった「木曜会」のあとには、漱石の月命日に集まる「九日会」が開かれ、1937年まで続きました。

鏡子は1963年(昭和38年)4月18日、大田区上池上町の自宅で心嚢症候群により亡くなりました。85歳でした。葬儀は4月20日に自宅で行われ、墓所は雑司ヶ谷霊園です。

ゆかりの地と関連する人物

  • 漱石山房記念館(東京都新宿区早稲田南町7番地):漱石は1907年(明治40年)9月に牛込区早稲田南町7番地へ転居し、この住居は「漱石山房」と呼ばれました。新宿区は、漱石生誕150周年の2017年(平成29年)9月24日に、終焉の地にあたるこの場所で、初の本格的な記念館として「新宿区立漱石山房記念館」を開館しています。
  • 熊本市の漱石旧居:漱石が熊本に暮らした時期の旧居で、現地にそのまま残る唯一の旧居と案内されています。
  • 雑司ヶ谷霊園:漱石と鏡子の墓所があります。
  • 関連する人物:長女の筆子、その夫で『漱石の思ひ出』を筆録した松岡譲、次男の伸六、弟子の小宮豊隆、高浜虚子。

よくある質問

夏目漱石の妻は本当に悪妻だったのですか。

寝坊や家事の苦手さなど、そう受け取られる逸話は伝わっています。ただし悪妻説は弟子たちの見方で広まった面があり、筆子や伸六、孫たちは鏡子を支持する証言をしています。評価は分かれており、一概に悪妻とは言えません。

鏡子と漱石はいつ結婚したのですか。

1896年(明治29年)6月に結婚しました。見合い結婚で、鏡子の父は貴族院書記官長の中根重一です。

『漱石の思ひ出』とはどんな本ですか。

鏡子の談話を、長女筆子の夫である松岡譲が筆録したものです。1927年から雑誌『改造』に連載されました。夫婦生活を率直に語っているため、当初は批判されましたが、現在は漱石の実像を知る重要な資料とされています。

鏡子と漱石の間には何人の子どもがいましたか。

2男5女の7人です。筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子の名が伝えられています。

鏡子は何歳で亡くなりましたか。

1963年4月18日に、85歳で亡くなりました。墓所は雑司ヶ谷霊園です。