東條英機 日本史トリビア

結論:東條英機は、陸軍大臣から首相になり、対米英開戦の時期に政権を担った人物

東條英機は1884年(明治17年)に東京で生まれた陸軍軍人です。1940年に陸軍大臣となり、1941年10月18日に内閣総理大臣に就任しました。就任の約1か月半後の12月8日に、マレー作戦と真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まります。

首相のあいだ、陸軍大臣や内務大臣などを兼ね、のちには参謀総長も兼ねました。1944年7月、サイパンの戦いで日本軍が敗れたあとに総辞職します。敗戦後の1948年11月12日に東京裁判(極東国際軍事裁判)で死刑判決を受け、同年12月23日に巣鴨拘置所で刑が執行されました。

基本情報

  • 生没年:1884年(明治17年)7月30日 ~ 1948年(昭和23年)12月23日
  • 出身:東京府麹町区(現在の東京都千代田区麹町)
  • 時代:明治・大正・昭和時代
  • 立場:陸軍軍人(最終階級は陸軍大将)、内閣総理大臣
  • 父:陸軍中将の東條英教
  • 主な経歴:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍大臣、内閣総理大臣
  • 首相在任:1941年10月18日 ~ 1944年7月(総辞職は7月18日、公式の在任終了は7月22日)
  • 最期:東京裁判で死刑判決、1948年12月23日に絞首刑

東條英機は何した?エリート軍人が首相になるまで

軍人の家に生まれ、陸軍の道へ

父の東條英教は、下士官から将校になった人物で、陸軍大学校の第1期生を首席で卒業しました。最終的な階級は陸軍中将です。英機本人は、父が大将になれなかったのは長州出身者を中心とする派閥ににらまれたためだと、生涯考えていたとされます。

英機は三男でしたが、兄2人が早く亡くなったため、長男として育てられました。東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校に進み、1905年3月に17期生として卒業します。陸軍大学校には3度目の受験で合格したとされ、卒業は1915年12月です。

憲兵隊司令官から関東軍参謀長へ

1935年9月に関東憲兵隊司令官となり、1936年2月26日に二・二六事件が起きたときは、関東軍内の混乱を収める側にまわったとされます。1937年3月1日には関東軍参謀長に就任しました。日中戦争が始まると、察哈爾(チャハル)方面の作戦に兵団長として加わり、この兵団は「東條兵団」と呼ばれました。

「カミソリ東條」という異名が伝わっています。

陸軍次官、そして陸軍大臣へ

1938年5月30日から12月10日まで陸軍次官を務め、陸軍航空総監も兼ねました。1940年7月22日、第2次近衛内閣の陸軍大臣に就任し、第3次近衛内閣でも留任します。

1941年8月には、総力戦研究所の机上演習で、日米戦争は日本の必敗になるという報告を受けています。それでも10月14日の閣議では、中国からの駐兵問題をめぐる近衛首相の発言に強く反発しました。近衛内閣はこのあと総辞職に向かいます。

首相指名の舞台裏

後継の首相に東條を推したのは、内大臣の木戸幸一です。木戸が東條を推挙し、昭和天皇の承認を得たとされます。10月18日、東條は皇居で天皇から、対米戦争を避けるよう努めよという趣旨の指示を受けました。

東條はこれを受けて、それまでの開戦に傾いた姿勢を改め、外務大臣に対米協調派の東郷茂徳を据えたと伝えられます。軍人が首相になったあと、天皇の意向で外交の立て直しが図られた点は、この政権の出発点として覚えておきたい場面です。同日、東條は陸軍大臣に留任し、内務大臣も兼ね、陸軍大将に昇進しました。

東條英機は何した?開戦から退陣までの戦時下の政権運営

1941年12月、開戦

12月1日の御前会議で対米英開戦が決まり、12月8日にマレー作戦と真珠湾攻撃が行われました。東條は東京裁判で、真珠湾攻撃の作戦内容を知ったのは12月1日の御前会議のときだったと証言しています。

開戦の翌日の未明には、国内で396人が拘束されたと記されています。開戦の日の明け方に、首相官邸で皇居の方角に向かって泣いたという逸話もありますが、これは逸話として紹介されているものです。

兼任を重ねた首相

東條は、首相のまま複数の大臣を兼ねました。主な経歴は次のとおりです。

  • 1941年10月18日:首相に就任。陸軍大臣に留任し、内務大臣も兼任
  • 1942年9月1日:外務大臣を兼任(9月17日まで)
  • 1943年4月20日:文部大臣を兼任(4月23日まで)
  • 1943年10月8日:商工大臣を兼任(11月1日まで)。11月1日から軍需大臣を兼任
  • 1944年2月21日:参謀総長を兼任

首相が陸軍の軍政(陸軍大臣)と作戦の統括(参謀総長)の両方を握るのは、異例の体制でした。権限は東條に集まります。

大東亜会議

1943年11月、東京で大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が採択されました。ビルマのバー・モウ、満洲国の張景恵、汪兆銘の政権、タイ、フィリピンのホセ・ラウレル、インドのスバス・チャンドラ・ボースらが参加しています。

批判の高まりと倒閣運動

1943年8月ごろから戦局が悪くなるにつれ、東條への批判が強まりました。中野正剛らの倒閣運動は憲兵の力で抑えられています(中野正剛事件)。

サイパン陥落と総辞職

1944年6月15日にサイパンの戦いが始まり、6月19~20日のマリアナ沖海戦で日本は大敗しました。サイパンの日本軍は7月9日までに玉砕します。

7月13日、木戸は東條に、陸軍大臣と参謀総長の兼任をやめること、海軍大臣の嶋田繁太郎を交代させること、重臣を入閣させることを求めました。東條は参謀総長を辞め(後任は梅津美治郎)、閣僚の岸信介に辞任を求めましたが、拒まれます。天皇の支持も得られず、7月18日に総辞職し、予備役に編入されました。後任の首相は小磯國昭です。

東條英機の最期:敗戦後の逮捕から東京裁判、処刑まで

逮捕の指令と自殺未遂

1945年9月11日、連合国軍総司令部(GHQ)が東條の逮捕を指令しました。東條は逮捕を前に自宅で拳銃で自らを撃ちましたが、命は取り留め、横浜の野戦病院で治療を受けています。前日の9月10日には、下村定が自殺を思いとどまらせようとしたとされます。東條は、その理由を戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に求めたと、笹川良一が証言しています。戦陣訓は、陸軍大臣の時代に出されたとされるものです。

東京裁判での供述

東京裁判で東條は、国を代表して弁護する立場をとりました。戦争は欧米の経済的な圧迫に対する自衛戦争だと主張し、天皇は閣僚らの進言に拒否権を発動したことがなく責任はないと述べています。1948年1月には、キーナン検事の尋問に対して、ハル・ノートをめぐって論戦したと報じられました。宣誓供述書は同月、書籍としても出版されています。

判決は、これらの主張に根拠がないとして退けました。11月12日に東條は死刑判決を受けます。

1948年12月23日、絞首刑

刑は、1948年12月23日に巣鴨拘置所で執行されました。ただし、日本語版ウィキペディアは、遺言の節では執行を12月24日未明と記しており、同じ記事の中で日付が割れています。ここでは、年譜や英語版ウィキペディアが採る12月23日を使いました。

処刑の前日には、和洋折衷の夕食をとり、「一杯やりたい」などと笑っていたとされます。処刑前には、阿弥陀信仰をよんだ歌を残し、辞世の句は4首あるとされます。没年齢は、生年月日と没日から数えると64歳です。ウィキペディアの記述には、本文で63歳、インフォボックスで64歳とする食い違いがあります。

掘り下げ:東條英機の素顔とよくある誤解

「独裁者」という呼び方について

兼任の多さから、東條は強い権限を持つ指導者として語られます。一方で、首相就任は、内大臣の推挙と天皇の承認という手順を経たものでした。また、1944年の退陣では、木戸から兼任の解除などを求められ、天皇の支持も得られないまま総辞職しました。

日々の暮らしぶりに残る逸話

  • 1941年ごろ、知人から贈られたシャム猫を可愛がった
  • 旅先で毎朝、民家のゴミ箱を見て、配給の食材の捨て方を確かめたとされる
  • 衆議院本会議での首相らの演説の院内撮影を、初めて許可したのは東條だとされる
  • 1943年2月1日の衆議院予算委員会での発言が「決戦算術」と報じられた

遺言をめぐる注意点

東條の遺言には、1945年9月3日に長男へ宛てて書いたものがあります。そのほか処刑前に、教誨師の花山信勝に口頭で伝えたものがあります。一方、1945年9月11日以前に書かれたとされる遺書には、偽書の疑いがあると記されています。「東條の遺書」として出回る文章は、出どころの確認が必要です。

遺骨の行方

遺骨は火葬のあと、太平洋に散骨されたとされますが、一部は後に回収されたとの説もあります。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 東京都千代田区麹町:生誕地(東京府麹町区)
  • 雑司ヶ谷霊園(東京都):墓がある場所
  • 三ヶ根山の殉国七士廟(愛知県):1960年8月に改葬され、遺骨が祀られているとされる
  • 靖国神社(東京都):1978年に合祀された(東京裁判の戦犯14名の合祀)

関連する人物

  • 東條英教:父。陸軍中将
  • 近衛文麿:首相。東條が陸軍大臣を務めた内閣の首班
  • 木戸幸一:内大臣。東條を後継首相に推挙した
  • 東郷茂徳:東條内閣の外務大臣
  • 小磯國昭:東條の後任の首相
  • 梅津美治郎:東條の後任の参謀総長

よくある質問

東條英機は何をした人ですか?

陸軍軍人で、陸軍大臣を経て1941年10月に首相になりました。同年12月の対米英開戦の時期に政権を担い、1944年7月に総辞職しています。

東條英機はいつ首相になり、いつ辞めましたか?

1941年10月18日に就任し、1944年7月18日に総辞職しました。公式の在任の終わりは7月22日とされています。

東條英機が首相に選ばれた理由は?

内大臣の木戸幸一が後継首相に推し、昭和天皇が承認したとされます。当時の東條は現職の陸軍大臣でした。

東條英機はどのように亡くなりましたか?

東京裁判で1948年11月12日に死刑判決を受け、同年12月23日に巣鴨拘置所で絞首刑となりました。

「カミソリ東條」とは?

東條に伝わる異名です。ウィキペディアに「カミソリ東條」の異名があると記されています。