藤堂高虎は戦国から江戸初期にかけて活躍した大名で、合戦だけでなく城づくりでも名を残した人物だ。主君を替えながら実務で頭角を現し、豊臣秀長の配下を経て、徳川家康のもとで築城や修築を任されていく。
高虎の城は、見栄えより実用を優先しつつ、権力の象徴としての威厳も両立させた点が目立つ。石垣、堀、門、曲輪を一体で組み、入口は枡形で絞り、長い櫓で守りを連ねる。少ない兵でも持ちこたえるための工夫が随所にある。
代表例として海に開いた今治城、巨大な高石垣で知られる伊賀上野城、東海道を押さえた膳所城、城下町づくりと結びつく津城などが挙げられる。いずれも、地形と交通を読む力が前面に出るため、同じ人物の仕事だと感じやすい。
城はただ古い建物ではない。地形の読み方、武器の変化、政治の都合が積み重なって形になった。高虎の城をたどると、近世城郭が戦うための器から治める仕組みへ変わる過程も見えてくる。見学の視点が一段増えるはずだ。
藤堂高虎の城が評価される理由
縄張りを四角く整える合理性
高虎の縄張りは、曲輪の輪郭を四角く整える例が多い。角をはっきりさせると、堀や石垣の線が単純になり、測量や石材運びの手順も組みやすい。工期と費用を読み切るための形でもある。
四角い曲輪は、守る側が視界と射線を作りやすい利点もある。壁面が直線に近いほど、横矢がかかりやすく、敵が取り付く場所を絞れる。攻め手は角を回り込むたびに露出し、被害を受けやすい。
加えて、城を中心とする町割りとも相性がよい。武家地や商いの町を区画し、道を通し、堀の外側に門や橋を置くと、通行の管理がしやすくなる。城は戦いの拠点であると同時に、統治の道具でもあった。
もちろん、どこでも四角く切ればよいわけではない。地盤が弱い海辺なら石垣の基礎を厚くし、山の端なら曲輪を段にして守りを重ねる。形を整えつつ、地形と目的に合わせて細部を変える柔軟さが強みだ。
整った平面は見栄えにも効く。外から見たときの線が明快で、権力の秩序を示す象徴になりやすい。実用と威圧感を同時に満たすため、近世の城郭で似た発想が広く見られるようになった。
枡形虎口と多聞櫓で入口を固める
城の入口は弱点になりやすい。高虎が得意としたのが枡形虎口で、門を入った先に四角い空間を置き、折れた通路で敵を止める。左右の石垣や櫓から一斉に攻撃できる形だ。
枡形は二重三重に重ねることもあり、突破に時間がかかる。攻め手は隊列が伸び、盾や槍の向きも乱れやすい。門の前で密集すると、鉄砲や矢の被害が急に増える。
もう一つが多聞櫓で、石垣の上を長く連ねる建物だ。兵が雨を避けて移動でき、火薬や矢も運びやすい。狭間を連続させれば、守りの線を途切れさせずにすむ。
枡形と多聞櫓を組み合わせると、入口から曲輪内部までの導線が袋小路に近づく。敵は横から撃たれ、退きにくくなり、押し切る前に損害がふくらむ。
さらに門の配置をずらし、橋や土橋の幅を絞れば、攻め手は正面に並べない。守る側は少数でも要点に集中できるため、籠城戦で強さを発揮する。
こうした発想は、派手な仕掛けより再現性が高い。地形や規模が違っても応用でき、近世の城で似た構えが増えていった。高虎の名が残るのは、広めやすい防御を形にしたからだ。
高石垣と水を使う防御の組み合わせ
高虎の城で目を引くのが高石垣だ。石垣を高くすれば、登る時間が伸び、攻め手は上からの攻撃にさらされる。崩れにくい角度で積み、石の噛み合わせで強度を稼ぐ。
高石垣は高さだけでは決まらない。上部に通路や櫓を載せられると、守りの人数を横に動かしやすくなる。石垣の上を線として使うことで、攻撃の面が広がる。
もう一つの鍵が水だ。堀に水を満たすと、土塁への接近が遅れ、梯子や破城槌の運用も難しくなる。海や湖につながる堀なら水量が安定し、舟での補給にもつながる。
石垣と堀を同時に効かせると、攻め手は泳いでから登る状態になり、体力と装備が削られる。堀端で密集したところを狙われやすく、攻撃が続きにくい。
ただし水城は地盤が弱い場合もある。高虎は石垣の基礎や犬走りのような余裕を持たせ、沈下や崩落のリスクを抑えようとした。環境条件まで含めて防御を設計した点が強い。
高石垣を西面に集中させるなど、方向にも意味を持たせた例がある。敵が来る可能性の高い側を固め、他は地形や城下町の都合を優先する。限られた資源を配分する感覚が、築城家としての実力を示している。
藤堂高虎の城の代表例と見どころ
今治城:海水の堀と舟入の海城
今治城は瀬戸内海に面した海城で、高虎が関ヶ原後に領した今治で築かれた。海岸の平地に築き、堀へ海水を引き入れることで、水位を保ちつつ防御力を上げた。
築城は慶長7年(1602)に始まり、建造物を含む完成は慶長13年ごろとみられる。別名は吹揚城とも呼ばれ、城内には船を出入りさせる舟入が設けられた。
堀は三重に巡り、内側ほど守りが厚い。外から入るには橋と門を越え、枡形で折れ、曲輪ごとに区切られる。平城でも直線的に攻め込めない構えになっている。
海に近い城は、港と軍事が重なりやすい。舟入は物資の搬入だけでなく、いざという時の船の退避や機動にも役立つ。海上交通を押さえるという目的が形に出た。
舟入の規模は国内最大級とされ、城内に港を抱え込む発想が際立つ。海からの視線にさらされる分、堀と石垣を厚くし、要所の門に防御を集中させた。
現在見られる天守や櫓は後世の再建・復元が多いが、石垣と堀の構えは往時の発想を伝える。水面に映る石垣を眺めると、地形を味方にした高虎の狙いがつかみやすい。
伊賀上野城:高さ約30メートルの高石垣
伊賀上野城は、高虎が伊賀・伊勢へ移った後に大改修した城として知られる。要点は本丸西面の高石垣で、高さ約30メートルとされる規模が今も強い印象を残す。
高虎は慶長16年(1611)ごろから本丸を拡張し、西側の防御を厚くした。西は大坂方面に通じるため、当時の緊張関係を意識した配置と受け取られている。
高石垣は、単に高いだけでなく、石の積み方や勾配で強度を確保する必要がある。石の面をそろえ、目地を締め、荷重を逃がすことで崩れにくさを狙う。
改修では櫓や渡櫓を載せた門、御殿などの整備も進められたと伝わる。石垣の上で守りを連ね、入口と曲輪を結ぶ線を太くする発想が、巨大な土木と一緒に現れている。
この城は天守の印象も強いが、現在の天守は後世の再建である。高虎の仕事を感じたいなら、石垣の高さ、曲輪の広がり、門の位置関係を追うほうが手がかりになる。
高い石垣は心理的な圧力にもなる。攻め手にとっては登る前に削られる場所で、守る側は上からの支配感を得る。防御と威厳を両立させるという、高虎の狙いが端的に表れた城だ。
膳所城・津城:街道と城下町を押さえる
膳所城は関ヶ原の後、東海道の要地を押さえるために築かれた水城で、家康が高虎に造らせた最初期の城とされる。琵琶湖の湖水を堀として使い、交通と防衛を同時に握った。
湖に突き出た地形は、自然の堀が片側を守る。人工の堀や石垣と組み合わせると、攻め手は回り込める場所が限られ、守る側は要点に戦力を集中できる。
津城は高虎が伊賀・伊勢へ移ったのち、城の拡張と城下の整備を進めた拠点だ。慶長16年(1611)に大改修へ着手し、現在の市中心部の骨格に影響したといわれる。
津では平時の居城としての機能も重視され、町の格や景観も意識された。城を中心に人を集め、武家地と町人地を配置し、街道と結びつけて経済を回す設計が見える。
膳所が街道の押さえ、津が藩政の中心として性格を分けたことで、同じ築城家でも求められる答えが変わる。高虎は地形と役割を見極め、守りと運用の両方に筋を通した。
城跡を歩くときは、天守の有無より、水辺と石垣の関係、橋と門の位置、曲輪の段差に目を向けたい。なぜそこに線を引いたのかが読み取れると、城が一気に立体になる。
まとめ
- 高虎の城は防御と運用を両立させる発想が核だ。
- 曲輪を整った形にして工期と費用を読みやすくする。
- 直線的な石垣は横矢をかけやすく、死角を減らす。
- 枡形虎口で入口を折り、突破に時間を使わせる。
- 多聞櫓で守りの線をつなぎ、兵の移動も楽にする。
- 高石垣は登攀を難しくし、心理的な圧力にもなる。
- 水堀は接近を遅らせ、装備と隊形を崩しやすい。
- 今治城は海水の堀と大きな舟入が特徴の海城だ。
- 伊賀上野城は高石垣が象徴で、西面の防御が厚い。
- 膳所と津は役割が異なり、地形と交通の読みが生きる。





