結論:吉野作造は「民本主義」で大正デモクラシーを牽引した政治学者
吉野作造(1878〜1933)は、東京帝国大学の教授を務めた政治学者です。1916年(大正5年)1月に雑誌『中央公論』へ発表した論文で「民本主義」を唱え、大正デモクラシーを代表する論客になりました。
民本主義は、主権が誰にあるかを問わず、政治の目的を民衆の利福に置き、政策の決定を民意に基づかせようとする考え方です。天皇主権を否定しない範囲で、民衆の意向を政治に反映させる道筋を示しました。
晩年は大学を離れて新聞や研究会の活動にも力を注ぎ、1933年(昭和8年)3月18日に55歳で亡くなりました。
基本情報
- 生没年:1878年(明治11年)1月29日〜1933年(昭和8年)3月18日(55歳没)
- 時代:明治〜大正・昭和初期。活躍の中心は大正時代
- 出身地:宮城県志田郡大柿村(現・大崎市古川)
- 立場:東京帝国大学教授、政治学者、朝日新聞社の論説委員を務めた
- 主な業績:1916年の論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」で民本主義を提唱、黎明会の結成、明治文化研究会の組織
- 墓所:多磨霊園
- 弟:吉野信次(商工大臣、運輸大臣を務めた)
吉野作造の生い立ちと民本主義の提唱
宮城県での少年時代とキリスト教との出会い
作造は宮城県の大柿村(現在の大崎市古川)で、父・年蔵と母・こうの長男として生まれました。1884年に古川尋常小学校へ入り、1892年6月には宮城県尋常中学校が開校し、古川から初めて作造が推薦されました。
1897年9月には第二高等学校の法科に無試験で合格し、翌1898年7月、同級生の内ヶ崎作三郎・島地雷夢とともに浸礼(洗礼)を受けました。キリスト教名はピリポです。後に東京で本郷教会に関わり、牧師の海老名弾正のもとで雑誌『新人』の編集にも協力しています。
東京帝国大学での学びと中国での教師生活
1900年に第二高等学校を卒業した作造は、同年9月に東京帝国大学法科大学へ進みました。1904年に政治学科を卒業した際には銀時計を受け、大学院へ進んでいます。師には小野塚喜平次の名が挙がります。
その後、1906年に中国の天津へ赴きました。袁世凱の長男・袁克定の家庭教師を務めるためです。1907年9月からは1年間、北洋法政専門学堂で教えました。
欧米留学と助教授就任
1909年1月に帰国し、2月5日に東京帝国大学法科大学の助教授に就きました。翌1910年4月から約3年間、欧米へ留学し、1913年7月に帰国しています。1915年には法学博士の学位を得ました。
1916年の論文で「民本主義」を提唱
1916年1月、作造は『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表します。この論文は、大正デモクラシーを活発にする一因になったと説明されています。
民本主義とは?民主主義との違いと論争
なぜ「民主主義」ではなく「民本主義」なのか
当時の日本は天皇に主権があると定めた憲法のもとにありました。democracy を「民主主義」と訳すと、主権は国民にあるという意味になり、憲法と正面からぶつかります。そこで作造は、主権の所在を問わない「民本主義」という言葉を使いました。当時の風潮との衝突を避けるため、穏健な主張にしたとする説もあります。
1916年の論文では、democracy の意味を二つに分けて整理しています。ひとつは、国家の主権が法律の理論上、人民にあるとする考え方。もうひとつは、国家の主権が活動するときの基本的な目標が、政治の上で人民にあるべきだとする考え方です。作造が採ったのは後者で、この二つは両立しうるとも述べました。
よく使われる整理では、民主主義は政治を行う手段の民主性を、民本主義は政治の結果の民主性を重んじる立場とされます。
民本主義の二つの目的
民本主義の趣旨は、次の二点にまとめられます。
- 政権を運用する目的は、特権階級だけでなく人民全体の利福にあること
- 政策の決定は、常に民意に基づくべきこと
なお、1918年に書いた続編の論文「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済すの途を論ず」では、一点目が除かれたと解説されています。同じ論者の議論でも、書かれた時期で整理の仕方が少し変わっているわけです。
上杉慎吉との論争
民本主義には批判者もいました。憲法学者の上杉慎吉は、民本主義を批判した人物として知られ、『中央公論』上で作造と論争になりました。
吉野作造の活動と晩年:言論の自由・朝日新聞・最期
帷幄上奏への批判と、その皮肉な結果
作造は、帷幄上奏を、平時にも存在する「二重権力」として批判しました。ところがこの批判は、軍が平時にも統帥権を持つという主張の材料に逆用されたとされています。
黎明会の結成
1918年には、白虹事件を機に言論の自由を守る活動に乗り出し、浪人会と立会演説会を開きました。同じ年、福田徳三・今井嘉幸らとともに「頑迷思想の撲滅」を掲げて黎明会を結成しています。
朝日新聞への入社と筆禍事件
1923年9月1日の関東大震災で、作造の研究室と図書館は焼けました。翌1924年2月7日、東大教授を辞して朝日新聞社に編集顧問兼論説委員として入社します。しかし同年4月1〜6日に掲載した論説「枢府と内閣」が筆禍事件になり、5月29日に朝日新聞社を退社して東大講師に戻りました。
明治文化研究会と晩年の活動
1924年11月には、尾佐竹猛・石井研堂・宮武外骨らと明治文化研究会を組織しました。『明治文化全集』30巻の刊行に尽力しています。1927年には女子経済専門学校の理事・教授になり、晩年は無産政党との関係を深めて、社会民衆党の結成にも関わりました。
隣国への視線
作造は、朝鮮独立運動家の呂運亨を道徳的に評価できるとして擁護し、孫文の辛亥革命にも共感を覚えたとされます。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件を批判する論文も発表しました。
最期
1933年1月に肋膜炎を発症し、神奈川県逗子町の湘南サナトリウムに入院しました。3月18日に亡くなり、55歳でした。墓所は多磨霊園です。
ゆかりの地と関連する人物
吉野作造記念館(宮城県大崎市)
生誕地の古川には、大崎市が設置した吉野作造記念館があります。所在地は大崎市古川福沼1-2-3で、1995年(平成7年)に開館しました。運営は指定管理者のNPO法人古川学人です。開館時間や休館日は変更されることがあるため、訪れる前に公式の案内で確認してください。
家族
- 妻:たまの
- 長女・信子:建築家の土浦亀城の妻
- 二女・明子:社会運動家の赤松克麿の妻
- 三女・光子:小松清の妻
- 弟・吉野信次:商工大臣、運輸大臣、愛知県知事を務めた
関係の深い人物
- 小野塚喜平次:東京帝国大学での師
- 海老名弾正:本郷教会の牧師。『新人』に関わった
- 福田徳三・今井嘉幸:黎明会をともに結成した
- 上杉慎吉:民本主義を批判し、『中央公論』上で論争した相手
- 尾佐竹猛・石井研堂・宮武外骨:明治文化研究会の仲間
よくある質問
民本主義と民主主義は何が違いますか。
民主主義は主権が国民にあるとする考え方です。民本主義は主権の所在を問わず、政治の目的を民衆の利福に置き、政策を民意に基づかせるべきだとする考え方で、天皇主権のもとでも成り立つ形で唱えられました。
吉野作造はいつ、どこで民本主義を唱えましたか。
1916年(大正5年)1月、『中央公論』に発表した論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」で唱えました。
吉野作造は何歳で亡くなりましたか。
1933年(昭和8年)3月18日、55歳で亡くなりました。同年1月に肋膜炎を発症し、神奈川県逗子町の湘南サナトリウムに入院していました。
朝日新聞を辞めたのはなぜですか。
1924年4月に掲載した論説「枢府と内閣」が筆禍事件となり、同年5月29日に退社しました。2月7日に入社してから約3か月半後のことです。
吉野作造について学べる場所はありますか。
生誕地の宮城県大崎市古川に、市が設置した吉野作造記念館があります。1995年に開館した施設です。






