谷崎潤一郎 日本史トリビア

結論:谷崎潤一郎の代表作は、初期の耽美、中期の女性像、後期の伝統美と老いの三つの流れで読める

谷崎潤一郎(1886〜1965)の代表作を挙げるなら、デビュー作の『刺青』(1910年)、ナオミで知られる『痴人の愛』(1924〜25年)、盲目の師匠と弟子を描く『春琴抄』(1933年)、四姉妹の物語『細雪』(1943〜48年)、随筆『陰翳礼讃』(1933〜34年)、晩年の『瘋癲老人日記』(1961〜62年)が中心になります。

この記事では、12作品を発表順に三つの時期へ分け、それぞれの成り立ちと読みどころを整理します。初めて読む人は、短い『刺青』か『春琴抄』から入り、長さに耐えられそうなら『細雪』へ進む順序が無理がありません。

基本情報

  • 生没年:明治19年(1886年)7月24日 〜 昭和40年(1965年)7月30日(79歳)
  • 出身:東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋人形町)
  • 時代:明治〜昭和(作家としての出発は明治末、大正期に地位を固めた)
  • 立場:小説家、劇作家、随筆家
  • デビュー:1910年、第2次『新思潮』に戯曲『誕生』と小説『刺青』を発表
  • 主な受賞・栄典:毎日出版文化賞(1947年)、朝日文化賞、文化勲章(1949年)
  • 没した地:神奈川県湯河原町。腎不全に心不全を併発
  • 墓所:京都市左京区の法然院。東京都豊島区の染井墓地・慈眼寺に分骨

谷崎潤一郎の代表作① 初期の耽美主義を代表する作品

明治末から大正初めの作品は、美しいものに身を投げ出す感覚を、凝った文章で描いたものが目立ちます。1910年に『刺青』と戯曲『誕生』で世に出た谷崎は、永井荷風が『三田文学』で激賞したことで文壇に知られました。

刺青(1910年)

谷崎自身が処女作とする短編です。元浮世絵師の彫り師・清吉は、自分の魂を美しい女の体に彫り込みたいと願っています。ある日、駕籠の簾からこぼれた女の白い足を見て、探していた女だと確信します。清吉は眠らせた娘の背に大きな女郎蜘蛛を彫り、目覚めた娘は別人のような魔性の女に変わります。肌や足へのフェティシズムといった題材は、後の谷崎作品にも繰り返し現れます。

麒麟(1910年)

『刺青』と同じ1910年12月、第2次『新思潮』に掲載された作品です。デビュー直後に続けて発表された一編として、初期の谷崎を知る手がかりになります。内容の詳細は、確かめられたページに記述がなかったため、ここでは書きません。

少年(1911年)と秘密(1911年)

『少年』は1911年6月に『スバル』へ、『秘密』は同年11月に『中央公論』へ掲載されました。『少年』は子どもたちの間の倒錯的な関係を描き、『秘密』は男性が女性の姿をして夜の街を歩く話です。どちらも、見る者と見られる者の立場が揺れる感覚を扱っており、後の長編につながる関心がすでに現れています。

谷崎潤一郎の代表作② 強烈な女性像を描いた中期の作品

関東大震災の後、谷崎は関西へ移り、阪神間を中心に暮らしました。この関西移住の前後から、女性の魅力に支配される男を描く長編が続きます。

痴人の愛(1924〜25年)

大阪朝日新聞に1924年3月20日から6月14日まで連載され、中断を経て、同年11月から1925年7月まで雑誌『女性』に続きが載りました。語り手の河合譲治は28歳の電気技師で、15歳のカフェの女給ナオミを引き取り、教育して理想の妻にしようとします。ところが、奔放で浪費家のナオミに、譲治のほうが逆らえなくなっていきます。この作品から、強く官能的な近代女性を指す「ナオミズム」という言葉が生まれたと言われます。

卍(1928〜30年)

女性同士の愛欲と、その破滅を描く長編です。『痴人の愛』と並んで、愛欲に溺れる人間を主題にした中期の長編として知られます。

蓼喰ふ虫(1928〜29年)

夫婦の別れをめぐる男女の愛欲を扱った長編です。

春琴抄(1933年)

1933年6月の『中央公論』に載り、同年12月に創元社から刊行されました。語り手が、大阪の盲目の三味線師匠・春琴と、生涯仕えた奉公人・佐助の墓を訪ねる場面から始まります。佐助は弟子となって春琴に尽くし、春琴が何者かに顔へ熱湯を浴びせられた後、自分の目を傷つけて、仕え続けようとします。

文章の特徴として、句読点と改行がほとんどなく、十行近く句点がない箇所も珍しくないことが知られています。初期の版には変体仮名が多く使われていました。春琴のモデルには、谷崎が地唄の出稽古を受けていた三代目菊原琴治(盲人)の娘、菊原初子も擬せられています。

谷崎潤一郎の代表作③ 伝統美と老いに行き着いた作品

昭和に入ると、日本の伝統的な美意識や古い関西の暮らしが前に出てきます。そして最晩年には、老いそのものが題材になりました。

細雪(1943〜48年)

大阪船場の旧家・蒔岡家の四姉妹が、昭和10年代の芦屋で暮らす姿を描いた長編です。物語の中心は、三女・雪子の縁談がなかなかまとまらないことで、四女・妙子は自立した生き方を選んで家に騒動をもたらします。二女・幸子は谷崎の妻・松子がモデルとされています。

この作品の刊行の経緯は波乱に満ちています。『中央公論』は1943年1月号と3月号に上巻の一部を載せましたが、軍部が戦時にふさわしくないと判断し、6月号で連載は止まりました。谷崎は1944年7月に上巻を私家版で出したものの、頒布は禁じられました。それでも戦時中に執筆を続けたと伝わります。戦後、上巻は1946年6月、中巻は1947年2月に刊行され、下巻は『婦人公論』に1947〜48年に連載され、1948年12月に出ました。1949年12月に全巻が揃っています。毎日出版文化賞(1947年)と朝日文化賞(1949年)の対象になりました。

陰翳礼讃(1933〜34年)

小説ではなく随筆です。雑誌『経済往来』の1933年12月号と1934年1月号に載り、全16章からなります。西洋が影を消す方向へ進んだのに対し、日本の美は影を受け入れる、という主張が軸です。母屋から離れた厠、日本の漆器や金蒔絵の道具、電灯と日本家屋の不調和などが論じられます。

1955年に英訳が出て、英語圏に谷崎の名が広がりました。フランス語訳もあり、ミシェル・フーコーがこの文章を読んで「濁り水にさした光のような美」と評したことが記録されています。

鍵(1956年)

抑圧された性欲と、男女の三角関係を描いた作品です。発表の経緯の詳細は、確かめられたページに記述がなかったため、ここでは年と主題のみにとどめます。

瘋癲老人日記(1961〜62年)

『中央公論』に1961年11月号から1962年5月号まで連載され、1962年5月に単行本になりました。77歳の卯木督助が日記の形で身の回りを記します。息子の妻・颯子に強く惹かれ、とりわけ足に執着しますが、血圧が上がって入院します。結びは周囲の人々の手記です。毎日芸術大賞を受けており、晩年の代表作とされます。

ゆかりの地と関連する人物

  • 芦屋市谷崎潤一郎記念館(兵庫県芦屋市伊勢町):谷崎ゆかりの記念館です。展示内容や開館時間、休館日は公式サイトで確認してください。
  • 法然院(京都市左京区):谷崎が納骨された寺です。染井墓地の慈眼寺(東京都豊島区)にも分骨されています。
  • 永井荷風:デビュー直後の谷崎を『三田文学』で激賞した作家です。
  • 谷崎精二:谷崎の弟で、英文学者・作家です。
  • 森田松子:1935年に谷崎と結婚した妻で、『細雪』の幸子のモデルとされます。

よくある質問

谷崎潤一郎の代表作を一つ選ぶなら?

一作に絞るなら『細雪』が有力です。三島由紀夫らが谷崎の主要作の一つに数えています。戦時下の中止や禁止を経て、戦後に全巻が出た経緯があり、毎日出版文化賞と朝日文化賞の対象になっています。

どれから読めばよいですか?

短い作品なら、デビュー作の『刺青』が入りやすい作品です。文章を味わいたいなら『春琴抄』、谷崎の美意識を知りたいなら随筆『陰翳礼讃』が向いています。

谷崎潤一郎はどこで亡くなりましたか?

1965年7月30日、神奈川県湯河原町で亡くなりました。79歳で、腎不全に心不全を併発していました。

谷崎潤一郎は文化勲章を受けましたか?

はい、1949年に受けています。1951年には文化功労者にもなり、1964年には全米芸術院・米国文学芸術アカデミーの名誉会員に選ばれました。

谷崎の作品を展示で見られる場所は?

兵庫県芦屋市の谷崎潤一郎記念館があります。展示内容は公式サイトで確認してください。