西郷隆盛の写真

「西郷隆盛の写真って、本物は残っているのか?」という疑問は、幕末維新の人物の中でも特に多い。西郷は明治10年(1877)に亡くなるまで生きた人物で、同時代の要人には写真が残る例が多い。にもかかわらず、西郷だけが写真の確証に乏しいと言われ続けるからだ。

その一方で、ネットや書籍では「西郷の写真」として見かける画像がいくつもある。写真的に見える肖像画(キヨッソーネの肖像)や、いわゆる「フルベッキ写真(群像写真)」の話題がその代表だ。だが、どれが本当に西郷本人なのかは、出典の追い方で見え方が変わる。

この記事では、「西郷隆盛 写真 ある?」の結論から入り、写真が残らなかったとされる背景、誤解されやすい画像の正体、フルベッキ写真の扱い方、信頼できる探し方までをまとめて整理する。

西郷隆盛の写真 ある? まず結論

結論から言うと、現在一般に流通する範囲では「西郷隆盛本人のものと言い切れる確かな写真が残っていない」と説明されることが多い。上野の西郷像の解説でも、隆盛本人のものと言いうる写真が残されていなかったため、制作側が絵や証言をもとに像を作った、という趣旨が語られている。

また、西郷の実子・菊次郎が「父は生前写真を一度も撮っていない」趣旨で証言した、という紹介もある。つまり「写真が存在しない」と断言するより、「本人と確定できる写真が確認できない」という理解が現実的だ。

西郷隆盛の写真本物が見つからない理由

理由は一つに決められないが、よく語られるポイントは次の通りだ。

写真が普及する時期と西郷の人生が重なっていたのに、記録が途切れている

日本では19世紀半ばから写真技術が入り、開港地などを中心に写真館が成立していく。文久2(1862)年に横浜で下岡蓮杖、長崎で上野彦馬が開業したこと、写真技術が定着していく流れなどが解説されている。

西郷はその後の時代を生きているため、撮影の機会がまったく無かったと断定するのも難しい。一方で、結果として「確実な写真」が残っていない、という空白が疑問を生む。

本人が撮影を避けた可能性が語られている

菊次郎の証言として「生前一度も撮っていない」と紹介されることから、本人が積極的に写真を残さない態度だった可能性が示唆される。ただし、これはあくまで紹介されている範囲の情報であり、一次資料の全体像まで含めて断定するのは避けた方がよい。

「写真らしきもの」があるせいで、逆に混乱が増える

後述するキヨッソーネの肖像画のように、写真と見まがうほど写実的な画像が広く出回ったことで、「写真があるはずだ」という印象が強まり、誤認が繰り返されてきた面もある。

西郷隆盛の写真と誤解される「キヨッソーネの肖像画」

「西郷隆盛の写真」として最も頻繁に見かけるのが、半身像のように見える写実的な画像だ。これは写真ではなく、キヨッソーネ(エドアルド・キヨッソーネ)による肖像画(コンテ画)として説明されることが多い。

キヨッソーネとは誰か

キヨッソーネは明治政府に招かれ、1875年に来日し、紙幣や切手などの製版・印刷技術の導入に関わった「お雇い外国人」の一人として紹介される。また宮廷画家としても活動し、明治天皇や元勲たちの肖像画を多数制作した、とされる。

「西郷隆盛像」はどう作られたのか

企画展の紹介などでは、肖像画「西郷隆盛像(複製)」について、西郷従道と大山巌の顔を合成して描かれたコンテ画であり、原本は焼失した、と説明されていることがある。

また、同趣旨として「明治16年(1883)に描かれ、上半分は従道、下半分は大山巌をモデルにし、周辺の証言も取り入れた」という紹介もある。

ここから言えるのは、「写真をもとに本人を撮った」ではなく、「近縁者の顔立ちや証言を材料に“西郷らしさ”を再構成した肖像である」という点だ。写真の代わりとして扱われがちだが、性質はまったく違う。

西郷隆盛 写真 本物かどうか見分けるチェックリスト

「西郷の写真」を見かけたときは、顔の雰囲気より先に出典と来歴を見る方が確実だ。判断の目安を挙げる。

  1. 所蔵先が明記されているか:国立機関・公的機関・大学博物館・自治体博物館など、所蔵情報が追えるものが強い。
  2. 初出(いつ、どこで公表されたか)が追えるか:雑誌掲載、写真集収録、展覧会図録など、初出がわかるほど信頼性は上がる。
  3. 「写真」なのか「肖像画(複製)」なのか:キヨッソーネの西郷像は「複製」「コンテ画」などの説明が付くことがある。
  4. 説明文が断定口調すぎないか:「本人に間違いない」と強く言い切るのに根拠が薄い場合は注意が必要だ。フルベッキ写真も、被写体の特定は未解明とされる。
  5. 同一画像が「別人名」で出回っていないか:別人物の肖像が、西郷・大久保・岩倉などと混同される例は珍しくない。検索結果の上位ほど、画像の使い回しが起きやすい。

西郷隆盛 フルベッキ写真とは何か

「フルベッキ写真」と呼ばれることが多いのは、宣教師フルベッキ(Guido F. Verbeck)と若者たちが写る群像写真だ。ネットでは「幕末の志士が勢揃いした写真」「西郷や坂本龍馬もいる」といった話が添えられることがある。

公的な調査まとめでは、この写真について次のような整理が示されていることがある。

  • 明治元年(1868)頃に撮影されたものと思われる
  • 撮影場所は長崎の写真師・上野彦馬の写真館とされる
  • 被写体の特定については否定資料も多く、いまだ解明されていない
  • 確実に写っていると思われる人物として、岩倉具視の次男・具定、三男・具経が挙げられている
  • 写真の初出は雑誌『太陽』明治28年(1895)7月号として紹介されている

つまり、写真そのものは古写真として知られていても、「写っている全員の名簿が確定している」状態ではない、ということだ。

西郷隆盛 フルベッキ写真に写っている説は本当か

結論としては、「西郷が写っている」と断定できる根拠は弱い。公的な調査まとめでも、被写体の特定は未解明で、否定資料が多いと整理されることがある。

フルベッキ写真は、ロマンを刺激する題材として語られやすい反面、断定が一人歩きしやすい。扱うときは、少なくとも次の一線を守る方が安全だ。

  • 「西郷が写る」と書くのではなく「そう主張する説がある」「真偽は未解明」と書く
  • 可能なら、公的な調査まとめに当たってから言い回しを決める
  • 画像だけを見て“似ている”で判断しない(時代の顔つきや髪型は似通う)

西郷隆盛の顔を知りたい人へ 信頼できる画像の探し方

「写真がないなら、何を見ればいいのか」という疑問には、現実的な答えがある。出典を辿れる肖像を集め、共通点と違いを比べることだ。

国立国会図書館「近代日本人の肖像」を起点にする

国立国会図書館の電子展示会「近代日本人の肖像」には、西郷隆盛の人物解説と関連導線(全ての肖像を見る等)が用意されている。まずここで「西郷として扱われている肖像の集合」を確認すると、比較の土台ができる。

また「西郷隆盛の直筆を見る」という導線もあり、顔だけでなく書から人物像へ近づく入口にもなる。

上野の西郷像は「近代のイメージ」を知る資料になる

上野の西郷像が、当時「確かな写真がない」状況で、絵や証言をもとに作られたという説明は、近代日本が西郷像をどう形作ったかを理解する助けになる。観光情報としては東京都の公式観光サイトなどにも掲載がある。

まとめ

  • 西郷隆盛は、本人のものと言い切れる確かな写真が残っていない、と説明されることが多い
  • 「写真のように見える西郷」は、キヨッソーネの肖像画(コンテ画)である可能性が高く、合成・複製・原本焼失などの説明がある
  • フルベッキ写真は被写体特定が未解明で、西郷が写っていると断定するのは難しい
  • 迷ったら、出典と来歴が追える公的まとめ(国立国会図書館、大学博物館、レファ協)から当たるのが近道だ

FAQ(よくある質問)

Q1. 西郷隆盛 写真 本物は存在するのか?

「本人と断定できる確かな写真が残っていない」という説明が一般的だ。上野の西郷像の制作背景としても、その前提が語られることがある。

Q2. 西郷隆盛 写真 ある?と聞かれたら何と答えるべきか?

「写真があると言い切る根拠は薄い。本人と確定できる写真は確認できない、と考えるのが無難だ」と答えるのが安全だ。

Q3. 西郷隆盛の写真として有名な半身像は何か?

多くはキヨッソーネの肖像画(コンテ画)として説明される。合成モデルや原本焼失の説明もある。

Q4. キヨッソーネは西郷本人を撮影(または写生)したのか?

少なくとも「西郷従道と大山巌の顔を合成して描かれた」といった説明があり、本人を直接撮影した写真とは別物として扱うべきだ。

Q5. 西郷隆盛 フルベッキ写真に写っているのか?

被写体の特定は未解明と整理されることがあり、西郷が写っていると断定するのは難しい。

Q6. フルベッキ写真はいつ頃の写真なのか?

明治元年(1868)頃に撮影されたものと思われ、撮影場所は上野彦馬の写真館とされる、初出は『太陽』明治28年(1895)7月号と紹介される、といった整理がある。